【短編】(その7)新月の上の兎〜A rabbit on the New Moon〜
券売所のなかに電気らしきものは点いていなかったが、絵画館の入口を照らす光がこちらまで届いていたので、彼女の姿を認識することができた。
頭からすっぽりとガウンを被っているのでその目までは見えないが、特徴的な鼻と口元だけはかろうじて見えた。
彼女の鼻は西洋人の特徴を備えており、鋭く尖り、先がやや下に向かって曲がっていた。左右の口角には深いしわが見える。それはきっと重力と時間の経過によるものだ。ここではやはり物理世界の法則が成立している。私はそう思った。
私は驚きつつも少し笑ってしまった。これではわかりやすい占い師のような格好じゃないか。そんなことを考えているとその老婆が声を発した。
「入りたいのかね?」しゃがれ声だったが、それは適正な水分を含んだつやのある声だった。時の経過による声帯の衰えも感じられない。
私がなにも答えずにいるとその老婆はまた同じ質問をした。「入りたいのかね?」
私は入りたいのだろうか?
「入りたくないのかね?」
「わかりません」それがその老婆に向かって私が言った最初の言葉だった。
「自分で考えていることがわからないのかね?」
「そうですね。わからないんだと思います」少し考えてから私は言った。
「しかし自分がわかっていないということはわかるんじゃな?」
私は肯いた。そう言われればそのとおりだ。
「でもここに入りたいかはわからない」彼女はなにかを確かめるように言った。
「そうです。入りたいかはわかりません。なかにはなにがあるんですか?」
「いろいろじゃよ」
「いろいろ」私はその老婆の言葉を繰り返した。
「そう。いろいろじゃよ。明治時代の冷蔵庫も、練乳入りのドーナッツも、ラクダの涙も、とにかくいろいろある」
冷蔵庫? ドーナッツ? ラクダの涙? いったい彼女はなにを言っているのだろうか?
「さぁ、どうする。入るのかね?」老人はどこからともなく指を突き出して、私と彼女の間にあった台の上を長い爪で叩いた。こつん、こつん、こつん。それは苛立ったような仕草だった。
私はすっかり混乱してしまっていた。
「入りたいか、入りたくないかはわからなくても、入るか入らないかは決められるはずじゃ。それはお前さんの気持ちではなく、意志の問題だからね」
意志の問題?
「さあ、どうする?」と老人は続けざまに訊ねてきた。「そもそもお前さんはここをノックした。それはなぜだ? それはここに入る意志があったからだろ? さあ、どうなんだ?」
「わかりました」と少ししてから私は言った。
老婆は黙っている。
「入ります」と私は言った。
しばし沈黙。
彼女はガウンの向こうにある闇の奥からじっと私を見つめているようだった。私の喉はカラカラになり、脇から横腹に向かって嫌な汗が流れた。しばらくすると老婆の口元がわずかに横に開き、口角が静かに上がった。
「それでいい。それでいいんじゃよ。お前はここに来るべくして来た。わかるな?」
私は一応肯いてみたが、実際はその言葉を理解していなかった。
「これがそこに入るために必要なものだ」
そう言って老婆は先ほど爪でコツコツと叩いた台の上にふたつのものを置いた。
「人参・・・・・・ですか?」それはしなびた人参だった。
「そうじゃ」
「もうひとつの方は・・・・・・」
「見ればわかるじゃろ。鍵じゃ。あとで必要になる」
「鍵」と私は繰り返した。
「世の中には開けられるべきドアと、それを開けるための鍵がある」と老人は言った。「わかるかい?」
「わかると思います」それはきっと論理的なことだ。
「その人参を入口にいるそいつに渡せばそこを開けてくれるはずじゃ」と老人は言った。
「これを渡せばいいんですね?」
「しかし、確実ではない」
「確実ではない?」と私は訊ねた。
「わしができるのはここまでじゃ。お前さんの意志を確認して、それを渡すところまでがわしの役割じゃ。そこに入れるか入れないかはわからん。あとはお前さん次第じゃよ」
まったく、と私は思った。これではまるで役所仕事ではないか。確定申告と住民税、健康保険と各種証明書、それらはすべて窓口が違うのだ。
そんなことを考えているとまたピシャリと小窓のシャッターが降りた。シャッターが閉まる瞬間、老人の口元が緩んだように見えた。彼女は優しく微笑んでいるようだった。
それから辺りはまた静寂に包まれたが、シャッターの音が耳の中でこだましているように感じられた。
それが完全に消えてしまうと私は自分の置かれた状況を確認した。
私の目の前にはしなびた人参と鍵があった。後ろには相変わらず2頭の一角獣が大地を蹴り上げる格好で勇み立っていた。街頭の明かりは彼らの影を石畳の上に落としていた。
私はひとまずその人参を手に取ってみた。
よく見てみるとそこには土が付いていて、全体的に少し湿り気を帯びていた。まるでつい先ほど畑から引っ張り出されたような状態だ。その生々しさと、そのしなび具合は私のなかでうまく結びつかなかったが、私はその事実だけをひとまず受け入れることにした。
それから私は人参を自分の鼻に近づけ、匂いを確かめてみた。
それは実に人参らしい香りだった。目を閉じて嗅げば人参のシルエットが想起できたし、瞼の奥には人参畑――そんなものは今まで目にしたことがない――が広がっていくようにも思えた。どうやらそれは本物の人参で間違いないようだった。
私は鍵――アンティーク調の小洒落たもの――をポケットに仕舞い、右手にその人参を持って入口に向かった。それが彼女の指示だったからだ。
入口に向かって数歩歩くと、ドアのひとつがゆっくりと向こう側に開くのがわかった。真ん中にある木製のドアだ。それはまるで海外の自動ドアのように開いた。両開きのドアのうちの右側だけが開き、左側の扉は依然閉ざされたままだった。
私はその開いた片側の扉の前で一度足を止めて深呼吸をした。きっと進むほかない。そう思った。私は半ばあきらめ、なかへと進むことにした。
「いらっしゃいませ」という若い男の声が聞こえ、左側の暗闇からその声の主があらたわれた。
それは兎だった。シルクハットを被り、タキシードを着た兎だ。
まったく、と私は思った。私はいったいなにに巻き込まれてしまったというのだろうか。
(つづく)