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【短編】(その4)新月の上の兎〜A rabbit on the New Moon〜

【前回までのあらすじ】


自分で輸入ビジネスをする主人公の私。共通の知り合い―ワインの卸先―の紹介で渡部氏と会い、ドライバーの仕事を引き受けることになる。今回はその続き。




翌日の木曜、結局ドライバーの仕事はなくなった。




私は午前中に自分仕事の事務作業を済ませると、昼から千駄ヶ谷のプールに行って1キロほど泳ぎ、売店で冷たいビールを飲んでから帰り道に美味いガパオを出す店で遅めの昼食を済ませて自宅に戻った――自宅と渡部氏の会社のビルは徒歩5分の距離にあった。




それからしばらく読書をしているうちに少し眠ってしまった。短い時間しか寝ていないのに、ずいぶん深く眠った感じがした。夢の欠片さえ残っていないような質の高い眠りだった。




目覚めてからマッキントッシュを開くと仕入れ先からいくつかメールが届いていたのでそれに返信をして、その内容をそのまま卸先(おろしさき)の店に電話で伝えた。




16時から17時ぐらいが店舗のいちばん静かな時間帯のためその時間を狙って対応を済ませた。




それらを済ませてそろそろ夕食の支度をしようとしていたとき携帯電話が鳴った。仕事用の方ではなく、プライベート用のものだ。それは女からのメッセージだった。食事の誘いだ。




私は今からランニングをする旨と待ち合わせの時間を伝え、ウェアに着替えると家を出た。




北参道の交差点を過ぎたあたりにあるコンビニの前に白いポールが2本立っている。私はいつもそこをスタート地点にしていた――そこは同時にゴール地点でもあった。




私はアップル・ウォッチのボタンを押して計測をはじめる。そして昨日見たランナーのことを思い出した。私はいつもの自分のタイムよりもキロあたり10秒速く走ることにした。




千駄ヶ谷の駅前を抜け、国立競技場の前を抜ける。そこは(きた)る2020年に向けて工事を進めている。巨大なクレーン車がまるで恐竜の首のように何本も空に向かってそびえ立っていた。




私はそれを横目にペースを少しだけ上げた。今のところ足首にも膝にも異常は見られない。ランニングをはじめて間もないころに傷めたヒラメ筋だって今は痛くない。




私はいつもどおり神宮外苑に差し掛かったあたりで時計を見た。そこがスタート地点から1キロの地点であり、キロあたりどのくらいのペースで走れいてるのか確認するためだ。




5分15秒。悪くない。今回の目標は5分10秒だ。通常ならそこから周回を重ねるごとに身体が慣れてペースが少しずつ上がってくる。きっと目標タイムを切ることはできるだろう。




私は絵画館の横を抜け、神宮球場を抜け、大学の横を抜けた。途中でいくつかの学生らしき集団をパスする。彼らはなにやら楽しげに会話をしながらのんびりと走っていた。




彼らは青やピンクや黄色のTシャツを着ていたが、それぞれに書かれた文字は同じだった。それはユニフォームのようなものだろう。しかしそうやってまとまって走る人たちの気持ちが私にはうまく理解できなかった。たとえそれが学生であろうとも。どこかに属することが私には向いていないのかもしれない。




いつもよりも少し速いペースで走っているせいか、中盤から疲れが出てきて、呼吸が乱れはじめた。こういうときは吐く息に集中する、それがいちばんだ。そうしているうちに頭が空っぽになる。




聞こえるのは自分の呼吸だけになり、そのうちタイムなんてどうでもよくなってくる。走るという行為に集中できるようになる。そう、それだけでいいのだ。




可能な限り効率よく自分の身体を運動させる。そうやって進めばいいのだ。外苑を4周走り、北参道の交差点を目指して来た道を戻る。仕事終わりの人たちとすれ違う。彼らもどこかに属する人間なのかもしれない。




しかし私は彼らとは良くも悪くも違うのだ。私は群れることができない人間なのだ。私はどこかに属することができない人間なのだ。それが私という人間であり、私という存在なのだ。




属することや群れることを嫌った部分ももちろんあったが、そもそも私はそういうことができない人間なのだ。仕方ない。こうして生きていくほかないのだ。人はきっと人生のある部分から嘘をつけなくなる。そうでなければ嘘をつき続けることになる。そこに中間はない。どちらかしかないのだ。




私は彼らとすれ違いながら、そんなことを頭ではないどこかで考えていた。それは自分の思考が身体の外にあるような感覚だった。




いくつかのオフィスビルのガラスに自分の姿が映し出されている。それが私だった。




それはどれだけ走っても ―― たとえどれだけペースを上げたとしても、どこにもたどり着けない私だ。群れることも属することもできない私だ。




でもこうして生きていくしかないのだ。




タイムは予想したよりも良かった。もちろん目標タイムもクリアできた。これでいい。私はなぜかそう思った。




私には自分のビジネスがあり、高級車を運転できる機会があり、そして一緒に食事やセックスを楽しめる女性もいる。それでいいではないか。私は信号待ちの間に息を整え、それが青になると同時に交差点のラインを丁寧に踏んだ。




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ランニングを終えてシャワーを浴びる。丁寧にシャンプーで頭皮を揉み上げるように洗って流し、身体も丹念に洗った。私は脇の下とペニスを意識的に洗い、石鹸のついた身体のまま歯磨きを済ませ、それから全身を洗い流した。




洗顔をしながら、いっしょに髭も剃った。鏡を見ないで肌の感覚だけで髭を剃るにはそれなりの慣れと技術がいる。




シャワーから出ると、育毛トニックを頭皮に付けてマッサージをする。




身体を拭いてボクサー・パンツひとつの状態で鏡を見る。大胸筋は日々のプッシュアップによって厚くなり、脇腹にも贅肉らしき肉は見えない。とても36歳には見えない。ごく控えめに言っても30代前半だろう。見方によっては少し老けている20代後半の人間に見えなくもない。




私はチノパンを履き、無地のTシャツの上にオクスフォードのシャツを羽織った。9月の下旬になったというに残暑が厳しい日が続いていた。雨が多かった冷夏が、その去り際に思い出したかのように発揮した暑さだった。




しかしそれはきっと昼間だけだ。夜になれば涼しくなるはずだ。それに今から行こうとしているレストランはTシャツ1枚で入れるような店ではない。




私はグッチの香水を手首に吹いてなじませたあと、天井に向かってそれを吹きかけ、霧状になった香水のベールを自らくぐって全身にその香りをまとった。こうすると嫌味のない香りになる。いつか誰かが教えてくれた。




私はスタン・スミスの靴を履いて家を出る。




(つづく)

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