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【短編】(その3)新月の上の兎〜A rabbit on the New Moon〜




渡部(わたべ)氏とはじめて会ったのは6月の下旬のことだった。その時期は梅雨らしくない天気が続いていて、雨は少なかったものの晴れることもなかった。




私は自身で輸入関連の小さなビジネスをやっていた。ワインや雑貨を海外から買い付けて国内の店に卸す仕事だ。




独自の輸入元から物を仕入れ、独自の販売網でほとんど直接店舗に物を卸した。




どんなビジネスでも基本的なことさえきちんと押さえておけばたいてい上手くいくのだ。




私は自分の興味のないことはまるで続けられなかったが、興味のあることは人の何倍も熱心に取り組める性質を持っていた。




大学に上がるまでは画一的な日本教育のシステムの中でかなり苦労はしたものの、大学を出て社会人になって、多少の専門性を求められるようになってからはその性格がむしろ強みに変わり、数年後の独立につながることになった。




弱みが転じて強みになることもある。




ビジネスで一番重要なことは言うまでもなく信頼関係だった。それさえきちんと構築できれば、みんな「栗谷さん(私の名前だ)の薦めるものなら買いますよ」と言ってくれた。




しかしそこにあぐらをかいてしまう業者も多かった。信頼関係を築いたあとで重要なのはそこから絶えず自分のこだわりを維持し続けることだった。




しかしそのこだわりとは人や世間を無視することとはまた違う。世の中を無視すれば、最終的に自分も世の中から無視されてしまう。




結局ビジネスがうまくいかなくなるのは、そうやって偏狭(へんきょう)になってしまうことが大きな原因だろうと私は踏んでいた。




だから日々自分を高め、可能な限り良いものを提供しようと心がけていた。それがわかる顧客を見つけ、信頼関係を築いて、長く付き合う。そうすればたいていのことは長く続く。それは私の方針のようなものだった。




いずれにしても私が渡部氏とはじめて会ったとき、私は自分のビジネスをはじめて8年が経っていた。




「栗谷君だね」と渡部氏は言った。「よく行く麻布のレストランのオーナーに君のことを聞いたんだ。ただ車の運転が上手いとか、車が好きだとかいうドライバーではなく、なにかこだわりを持ったドライバーを探していると彼に言ったら君を紹介されたんだ」




私は肯いて応えた。




「彼の店にワインを卸しているだろ?」




「あのオーナーとはもう長い付き合いです」




「時々彼とスカッシュをするくらいに?」




「彼は好敵手です」と私は言った。




「そして君は彼の乗るポルシェも運転したことがあるそうだな」




「991型の911ですね」と私は言った。




「車は好きか?」




「自分では持っていませんが」




「音楽は聴くか?」




「バロック音楽とジャズを少し。あとはパンクロックも好きです」




ほう、と渡部氏は言った。「カラヤンをどう思う?」




「あの棒振りの?」




「ほかにどんなカラヤンがいるんだ?」




私は少し考えてから「私も彼同様、ポルシェが好きです」と答えた。




それを聞いて渡部氏は笑った。「少し運転してみてくれないか? そこに車を停めてあるから」




待ち合わせ場所のカフェの前に停められていたのはアストン・マーチンだった。




まるで先ほど生まれたと言わんばかりにつるりとしたダーク・グレーのボディが撥水コートを施され、その日降っていた雨の中で、無数の水滴を身にまとっていた。




車は渡部氏の私物だった。私はそれを運転して彼を自宅まで送り届けることになった。アストン・マーチンははじめて運転する車だった。




しかし所詮は車だ。ハンドルとペダルの操作ができれば基本的に動かせる。心配はない。




その車は流線形の優雅な身体をしていた。渡部氏は助手席に乗り込むとセンター・コンソールに鍵を差し込んだ。この車のキー・ホールはハンドル付近にはないらしい。通常の車の造りを無視しているところが実にアストンらしかった。




「クラッチとブレーキを踏んでいてくれ」と彼が言った。エンジンを始動させるためだろう、と私は思った。言われたとおり私はブレーキを軽く踏み、クラッチを深く踏み込んだ。V型12気筒のエンジンが勢いよく(うな)りを上げた。




オーディオからはパパゲーノが「俺は鳥刺し」と笛を拭きながらリズミカルに声を上げている。軽くアクセルを開けてエンジンをふかしてみた。気密性の高い室内であっても、エンジン・サウンドがよく聞こえてきた。実にジェントルな音だった。




きちんとした主張はあるが、排気音にマセラティのような嫌味がない。まるで腕のいいコンサルタントのようだ。彼は自分が有能であることを理解しているし、集客にも困っていない。なにも主張する必要がないのだ。




「マニュアルは運転できるよな?」




「問題ありません」と私は言った。




「外苑西通り、新宿通り、外堀東通り。これでわかるか?」




「はい、大丈夫です。発進していいですか?」




私は1速からゆっくりクラッチをつないだ。重い車体がゆっくりと動き出した。我々の乗る車は北参道から明治通りに一度出て外苑西通りに進んだ。




エンジンのレスポンスはすこぶる良かった。右ハンドルであることにも好感が持てた。輸入車を買うときにわざわざ左ハンドルを買う人間を私は信じなかった。




もちろん左ハンドルのラインナップしかなければ仕方ない。でもそうでない場合、わざわざ左ハンドルにする必要がどこにあるのだろうか? 




それではまるで『これは外国の車です』と主張しているようではないか。そんなことは自分がわかっていればそれでいい。




自分が有能であることも、今まで寝た女性の数も、昨日食べたパスタの硬さのことも、すべて自分だけがわかっていればそれでいいのだ。別に誰かに主張する必要もわかってもらう必要もないのだ。




右ハンドルのアストン・マーチンは外苑西通りを進んだ。新宿通りとの交差点が300メートルほど先に見えたあたりで私はヒール・アンド・トゥを試してシフト・ダウンした。オルガン・タイプのペダルではないのでやりやすい。




タコメーター(針の動く方向が通常の車とは逆だ)の針が一瞬跳ね上がり、我々の身体がやや前のめりになる。それからブレーキングをして信号で車を止めた。




車が止まる直前に、踏んでいたブレーキ・ペダルから一瞬だけ力を抜いて、また踏み込む。こうすると乗車する人間に負担がかからなくなる。




「なかなかだな」と停車してから渡部氏が言った。「ブレーキングが特に良い」




クラッチ操作に関しては褒めてもらえなかったことは少し残念だったが、私の運転は気に入ってもらえたようだった。




「自分でもビジネスをしているんだよな」疑問符は付いていなかったが、それはおそらく質問らしかった。




「輸入ビジネスを少し」と私は言った。




「週に数時間だけ俺のために時間を使ってくれないか」と渡部氏が言った。「金はきちんと払う。そのブレーキング技術に見合っただけの金を、きちんとな」




「わかりました」と私は言った。渡部氏の話し方には無駄なところがなくて好感が持てたし、私は個人的に彼に興味を持っていた。それに観察対象としても悪くなかった。




「良かった」と彼は言った。「ちなみに、社用の車を新調する予定なんだが、なにか乗りたい車はあるか? もちろんセダンのオートマチック車で」




「個人的にはレクサスが気になります」と私は言った。




そして私が今こうして運転するLS600hLが選ばれたというわけだ。渡部氏のいる赤坂のホテルに彼を再び迎えに行きながら、私はそのようにして彼とはじめて会った日のことを思い出していた。




きっと彼に最初に会った日に通った道と同じ通りを走っていたためだろう。私はまたホテルの車寄せにレクサスを入れた。




(つづく)

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