第4話 どうやら宗教は避けられない面倒な存在のようです
今日は哲学者セネカの職場を見学しにきた。セネカの仕事は法務官で現代日本でいうところの法務大臣の役割を務めている。
「なあセネカ。あの宗教家は何をしたんだ?」
そこにはそれっぽい服装をした男が黙秘を続けていた。
「何も・・・。」
非常に疲れた表情を浮かべて答えてくれた。セネカのこんな表情を見るのは初めてだ。ストア派の哲学でどんな困難な状況だろうと幸福だという教えがあり、どんな仕事でも嬉々とこなすのだ。まあ嫌だ嫌だと思いながら仕事をするよりも楽しく仕事をしたほうが幸せなのは確かだけど、無茶な教えだよな。
「何も・・・って、まさか冤罪なのか?」
「違いますよ。何か大きな事件や事故が起こると自首してきてはああやって黙りを決め込むんですよ。いつものことなので無罪だと解っているんですが彼が無罪だという証拠を集めなきゃいけなくて大変なんです。偉力業務妨害で相手を訴えても思う壺なので、だらだらと仕事をするしか無いんですよ。」
「何故そんなことを・・・。」
「きっとヘマをしたんでしょうね。出世コースから外れた。それで殉教したいんです。どんな理由でもいいから権力者に殺されれば、権力者に反感を持つ人々が宗教に入ってくれる。そうでなくても何階級か特進してローマでのトップに駆け上がれるんです。死んでからね。」
「そんなことで死ぬなんてバカバカしい限りだな。」
「あの宗教は自殺すれば罪人扱いですからね。不名誉なことがあって自殺したくても自殺出来ないんですよ。他人ごとじゃ無いんですよ。貴方が皇帝になったときに大規模災害でもあってご覧なさい。きっと言い出しますよ。神が下した罰だと。もうそうなれば市民感情からスケープゴートにして処刑するしか無くなります。そして弾圧したと歴史に名前を残すことになります。もう何度もそうやって新たな信者を獲得しているんです。他の国でね。」
「あっバカセネカ。あの男が聞いているぞ。」
近くで話していたから、その男が驚いた顔をこちらに向けた。そこまで考えていなかったらしい。
「す・・・すみません。」
「まあいいけどね。ストア派哲学なら殺されても幸福といったところかな。」
「ぐっ・・・。」
わざわざ揶揄してやったけど流石に言い返せないらしい。まあここ数百年大規模災害なんか起きていないんだから気にすることは無いんだけどな。例えそうなったとしても、後世で何か言われるくらいで政に支障があるわけじゃ無いのだ。
「大変なのはセネカだろう。」
「えっ何故ですか?」
流石のセネカもパニクっていて何が大変なのか想像出来ないらしい。
「僕が皇帝になったら、何か執筆するんだろう。余程、悪辣なことを書かないと後世で組織的に書物を燃やされてしまうぞ。」
僕がそう言うとセネカの顔色が黒くなっていく。
セネカは哲学書も書けば、エッセイも書く。題材はもちろん、ローマ帝国の中心で経験したことばかりになるに違いない。
そう言った書物を燃やされてしまうことは彼にとって耐え難いことなのだろう。そのまま失神してしまった。
☆
失神したセネカを抱えて彼の家に到着すると管理人に鍵を開けさせて中に入り込む。本当に質素だな。でも合理的な住まいだ。コンクリート作りになっており、火事には強そうだ。でもこんなに紙類が散乱していたら、全て燃えてしまいそうだ。
どんな物語を書いているんだろう。まさかライトノベルってことは無いだろうし、ボーイズラブでもないよな。
「こ・・・これは、とんでもない醜態をお見せしまして申し訳ありません。」
振り返るとベッドに座り、小さくなっているセネカがいた。
「大丈夫だ。お漏らしはしていなかったぞ。」
「・・・・・・。」
しまった。これではパワハラだ。セネカの顔色が赤くなってしまった。男同士でも恥ずかしいらしく二の句が継げないようで口をパクパクと動かしている。
「それにしても、これは何だ! この間の貨幣改鋳と属州の段階的な税率アップの件、草稿にしているじゃないか。来年から実施するつもりか?」
僕は見ていた書類を取り上げて指し示す。
予算案から法律の草案、そして結果どのくらい歳出が減るかが詳しく算出されていた。
セネカにその権限は無いがアグリッピナに頼めば、実施できるかもしれない。但し全て彼女の手柄になるだろうが。
「違います。これは貴方が皇帝になったときに実施できるように今から根回ししておくんですよ。貴方の治世がここ数百年で一番経済が活性化することになるに違いない。」
「それなら、景気後退期のソフトランディングは任せたぞ。」
6年後、属州の税率を上げるのを止めた途端、一気に景気が冷え込む。セネカの計算通りならば、その頃にはローマ市民への仕事量は倍増しているはずなので3割減ったとしても元の仕事量からすれば随分と増えているはずなのだが、そこで悲観して踏みとどまらないと失われた10年とかになりかねない。
「そんなところまで考えていたんですか?」
「おいおい僕をなんだと思っているんだ。」
何か軽く見られているな。アイデアを出して終わりでは無責任すぎるだろう。
「アイデアがあるんでしょう。何です言ってくださいよ。」
やっぱりそう思っているらしい。まあ具体的な草案まで作れと言われても困るけどな。
「おいおい全て他人任せか。そうだな。無難なところで公共工事だな。それも維持費が掛からないものが適切だ。決して施しなんかに使うんじゃないぞ。1度始めてしまうと毎年絶対に発生する歳出になってしまうからな。」
よくテレビのコメンテーターに公共工事に1兆円使うくらいなら、社会保障費に回せというバカが居たんだよな。公共工事なら僅かな維持費で済むが社会保障費ならば毎年同額の歳出が増えてしまうことを解っていなかったらしい。
毎年歳出が増えてしまうものなら最低限100年スパンで考えなきゃいけないだろう。つまり今1兆円が使えるとしても100億円しか社会保障費を増やせられないのだ。金が無くなったからと途中で止めるわけにはいかないのだから。
「例えば、どんなものです?」
「そうだな。ローマでオリンピアを開催するなんていうのはどうだ?」
オリンピックを開催するだけなら、大した歳出にはならない。属州の国民には自費で来て貰えば、属州の経済の活性化にも繋がるし、多くの人々がローマに集まれば消費も増えるのだ。
「またそれですか。本当に出場したいんですね。わかりました。貴方が皇帝になったら、5年に1度ローマでネロ祭を行いましょう。」
いやオリンピアだって、オリンピックじゃなきゃ意味が無いんだって。
真剣にネロ祭の予算案の草案を考え、ああでもないこうでもないとブツブツ言うセネカを前にして、何も言えなくなってしまった。