第1話 彼女の息子の身代わりにされました
なんてこった。オリンピックに出場するためにはギリシャの市民権が必要だったのだ。
女神様に当時のギリシャ人の服装と一生遊んで暮らせるだけの通貨を貰い、古代ギリシャに転生を果たした。
そして、オリンピアに行き選手登録をしようとした際に言われてしまったのだ。迂闊にもギリシャの市民権どころか国籍も無い流浪の民だった。
とにかくギリシャの市民権を得る必要があるのらしい。おそらく有力者に足の速さを認めて貰う必要があると考えた僕は今一番栄えている都市であるローマへの旅立ったのである。
「身体が軽い。」
ローマまで2400キロメートル、1日20キロメートル120日掛けて歩くつもりだったのだが、歩けば歩くほどスタミナがついていき競歩でも全然疲れないのだ。
『強靭』スキルが凄いのだろうが古代ローマ帝国の支配地域に網羅されている郵便馬車を軽々と追い抜ける速度で歩けるのである。
女神様に貰った過眠症の目覚まし薬を併用する。この世界にはドーピング検査は無いので使っても構わないはずだ。しかも女神に薬に対する耐性も付けて貰っているので1日の制限回数も無ければ中毒症状も出ない。もちろん副作用も無い。
いやある少々ハイになってしまう。この薬で興奮することこそがドーピング検査の対象になった原因だ。1日5時間のつもりが気分が乗れば8時間でも12時間でも歩いてしまうのだ。そして予定の4分の1の1ヶ月ほどでローマに到着したのだった。
☆
「ルキウス。なんてことを言うの。母はお前をそんな子に育てた覚えはありません。」
方々でローマの有力者の邸宅が集まった一角を聞き出して下見がてら歩いていたとき、一際大きな邸宅の中から、かん高い声が聞こえてきた。
「だって! ブリタンニクスが好きなんだもの。」
この時代の服装は身体に布を巻き付けたようなものだったが男性は甲冑をつけているのが普通だった。それに対する女性は露骨に身体の線が出るような服装でさらに長い布を巻きつけている。
日本人の平均である僕と同じくらいの背の男の子が全身に長い布を巻きつけている姿は一種の倒錯趣味に近いものがある。もちろん胸の膨らみも無ければ鍛えられた足腰もあり、男の娘というよりは女装家といった雰囲気だ。
「しかも何よ。この花嫁衣裳は・・・貴方は男の子なのよ。男の子なのよ。男の子なのよ!」
母親としては見るに耐えられない光景だったのだろう。傍にあったムチを打ち付けている。
「ママ・・ママ・・ヤメテ・・・。」
男の子の身体から血が噴き出すが、母親は興奮して訳がわからなくなっているのだろう。ムチを振り上げる手を止めない。ダメだ。このままじゃ死んでしまう。
でもどうやって止めればいいんだ。下手をすればオリンピアへの推薦どころか罪人として処刑されかねない。見て見ぬ振り・・・そんなことはできない。それでは現代での僕の周囲の人間たちと同じだ。
「止めなさい!」
僕は飛び出していって、彼女を後ろから羽交い絞めにする。
必死に抵抗しようとするが、彼女の力と僕の力では簡単に縊り殺せそうなくらい差がありすぎる。その手からムチを奪い取ると大人しくなっていった。
「ドミティウス。ドミティウス。ドミティウス。ダメ・・・ダメよ。死んじゃダメぇ・・・・!」
十分に大人しくなったところで手を離すと今度は息子に縋りついて泣き出してしまった。
感情の激しい女性のようだ。
放置するわけにもいかず、かといって放って逃げるわけにもいかず、ただただ見守るしかできなかった。だが彼の様子をみると既に事切れていた。少しばかり遅かったようだ。
「なんで! なんで、もっと早く、もっと早くに止めないのよ。」
彼女が泣きやみ、こちらを振り返ると、僕の胸倉を掴み上げて理不尽極まりないことを言い出す。
「いや、その・・・。すまない。」
こんなとき何を言えばいいのだろう。相手は息子を亡くしたばかりの女性なのだ。それに僕が一瞬躊躇しなければ生きていたかもしれないのは本当だ。
胸倉を掴んで離さず揺すり続けるが女性の力では僕の強靭な肉体は微動だにしない。余りにも動かないからか僕の身体を壁代わりにして、縋りついて嗚咽を漏らし始めた。
僕はゆっくりとその身体を抱き締める。そうしていないと彼女が崩れ落ちそうだったのだ。
1時間も経っただろうか。ゆっくりとその温もりが離れていく。
「あら・・・貴方、どことなく昔の旦那にソックリね。これなら・・・これなら。いける。いけるわ。」
ようやく彼女の瞳に僕の姿が映る。彼女の言動に頭の中で警鐘が鳴り響く。ここに居てはいけない。でもどうする。逃げ出せば間違いなく彼女の息子を殺した犯人に仕立てあげられそうだ。
「責任を取ってもらうわ。いいでしょう?」
再びその温もりが戻ってくる。もう何処にも逃げ出せそうにもない。僕はただ頷くことしかできなかった。
「私は皇帝クラウディウスの姪アグリッピナ。貴方は?」
皇帝の姪だなんて・・・断らなくてよかった。逃げていたら絶対に犯人にされていたに違いない。凄い権力者だ。有力者の伝手が欲しいと思っていたが、ここまでなんて要らない。
「ナルコレイだ。」
「ネルオ?」
僕の名前は日本人でも言いにくいのだ。外国人からすれば全くわからないのだろう。
「ナルコだ。」
でも苗字だけでも正確に呼んで欲しいと強調した。
「呼びにくいわね。ネルオと呼ぶことにします。貴方には息子の身代わりになって貰います。報酬は何でも思いのままよ。なにせ貴方が皇帝になるのですから。」
ここに日本人が居れば絶対に怒るであろう。身勝手に名前を改変されてしまった。まあいいけどね。その声色に現代の人々にあった侮蔑の色は無い。たったそれだけことでもどれだけ心が穏やかになるかわからない。
「報酬は貴女がいい。」
激しい女性だったが中々の美女だ。それに子持ちと思えないほど若い。肉体関係を結んでおけば切捨てられないだろうという思惑もあるのが妖艶に微笑んだ顔を見るにつけ、そんなに簡単そうじゃなかった。
「まあいいわ。貴方にはしばらく寝込んで貰います。それで多少人相が変わったことにしましょう。それから家庭教師をつけるわ。皇帝として必要な教養を身につけて貰うわね。」