№5 そぼろの二色丼 1
空いた時間にフェザーさんから魔法の使い方を教えてもらいつつ仕事に励むこと数時間。
渡すものがあるから仕事が終わったら家に寄ってほしいというカリーナさんからの言付けをフェザーさんから聞いていた私は、疲れた体を引きずりつつご夫妻の家の扉を叩いた。
そして現在、小躍りして喜びたい衝動を必死に抑え込みながらカリーナさんに見送られている。
「それじゃぁ、気を付けて帰るのよ?」
「はいっ!」
隠しきれない喜びに引きずられてつい大きな声を出してしまった所為で、カリーナさんから子供を見るような微笑ましい表情を向けられてしまったが、今回ばかりは仕方ない。
「本当にありがとうございます」
お裾分けしていただいた食材や調味料が入った籠を両腕でしっかりと抱えて深々と頭を下げれば、優しい声が耳をくすぐる。
「また買いすぎちゃったらもらってね」
「喜んで。とっても嬉しいです」
向けられた温かな笑みにしみじみと自身の幸運を噛みしめる。
――本当にいいところに就職できたなぁ。
今着ている可愛らしい色合いのコットやシュルコそれからベルトなどもカリーナさんが譲ってくれた物だというのに、こうして頻繁に食材や調味料などを分けてくれる。その上、寝泊まりさせてもらっている小 屋に置いてあるベットや調理器具も自由使っていいと言ってくれるし、フェザーさんやカリーナさんには本当に感謝してもしきれない。
「それはよかった。また明日ね」
「はい。それでは帰りますね。お休みなさい」
「ええ。ゆっくり休んでね」
カリーナさんの言葉にペコリと頭を下げれば、少ししてパタンと軽い音を立てて扉が閉まる。
そうして彼女が家の中に入ったのを見送った私は、クルリと身を翻して鳥小屋を越えた先にある自分の寝床に向かって歩き出した。
仕事終わりということもあって体は疲れているものの、その足取りはとても軽い。
理由はわかっている。
カリーナさんがくれた調味料だ。
我慢しきれず足を止めた私は、見られて困る人はもういないので存分に顔を緩ませながら腕に抱いた籠の中身を眺める。
お裾分けだと言ってカリーナさんが渡してくれた籠の中には今朝回収した鶏や鶉の卵や、昼食を作った残りだという手のひら大の鶏肉に市場で買って来たというチーズとパン、それから調味料が入った小瓶。
ガラス製ではないので小瓶の中身を見ることはできないけど、私の脳裏では日本人ならば忘れることのできない黒い液体、醤油がチャプンと音を立てて揺れていた。
――とんでもないタイミングで叫ばれた所為で異世界トリップしちゃったから正直滅茶苦茶恨んでたけど、少しだけ許せたわ。この世界に醤油を持ち込んでおいてくれてありがとう勇者様!
知ったばかりの事実に興奮しながら、日本にいるだろう男子高校生の姿を思い浮かべて感謝の言葉を叫ぶ。
魅惑の調味料、醤油。
それが何故この世界に存在するのかと言えば、それは勇者様が転移してきた五年前に遡る。
当時、女神様に導かれてこの世界にいらっしゃった漆黒の衣を纏う勇者様は、羽よりも軽くシルクのように滑らかな白き袋にガラスよりも透明な未知の容器に注がれた黒き調味料『ショーユ』を入れて手に持たれていたらしい。
恐らく、コンビニかスーパーかどこかでお使いをしてきた帰りだったのだろう。
勇者ユウトは『ショーユ』を大変好まれ、来訪当初はどの料理にもかけていたそうだ。
しかし、調味料は使えばなくなるわけで。
日に日に減っていく『ショーユ』を悲し気に見つめる彼のために、友人だった大国の王子様を筆頭に周囲の人間達が奮起したらしい。
貴重な異世界の調味料を勇者から分けてもらった彼らは、名高い料理人やチーズ職人やパン職人、農家など多くの人を動員して研究開発すること三年。
完全に再現できたとは言えないが、ついに『ショーユ』に近いものの製造に成功したらしい。
ちなみに醤油は科学の発展に伴い機械化や温度コントロールが容易になった現代の日本でも大豆や小麦や麹で作られるもろみの発酵・熟成にはおおむね八~十か月の時間が必要である。最短だと六か月くらいでも可能らしいけどね。その上、澄んだ液体にするためには圧搾作業を急がずゆっくりおこなわなければならないので、完成までに結構な時間が必要となる調味料である。
発酵や熟成という技術に長けたチーズ職人やパン職人がいたところで製造手順はまったく異なるのだから、完成までには大変な苦労と計り知れない創意工夫があったことは間違いない。その研究は今なお続いているというので、醤油開発に携わっている職人様方には心からお疲れ様ですという言葉を贈りたいところである。
そんなこんなで異世界の食卓に登場した醤油は、数々の偉業を持つ勇者様の愛用品という宣伝効果も相まって『勇者ユウトのショーユ』として世界中で急速に広まったらしい。
現在では調味料の一角を担う存在として地位を確立しているようで、カリーナさんの話によると頑張れば庶民でも手の届く少しお高い調味料といった位置づけみたい。
フェザーさんの家でもたまに使っているらしく、カリーナさんはきっと私は口にしたことがないだろうと考えて新しく購入したのを機に少し分けてくれたというわけだ。
新しく飼育し始めた鶏の餌を調整するためにフェザーさんが調達してきた籾摺りしたての玄米、しかも海外でよく見られる細長い粒のインディカ米ではなくて日本で食べられているのと同じ楕円形のジャポニカ米を持ってきた時にも驚いたが、醤油はそれ以上の衝撃があった。
目玉焼きに醤油かゆで卵か……それとも卵焼き? いや炒り卵でそぼろご飯とか和風チャーハンとかもありかも――。
これまではカリーナさんが分けてくれた塩と蜂蜜しかなかったが、ここに醤油が加われば料理の幅は一気に広がる。
瞬く間に浮かび上がる卵料理の数々に、私の気分はうなぎ登りだ。
みるみるうちに膨らむ妄想にお腹が鳴ったところで「いや。やっぱりここは産みたて卵があるのだから卵かけご飯でしょう」という結論に至った私は、満足感一杯に頷いて再び歩き出す。
端から見れば完全におかしな子だが、周囲には誰もいないので問題はない。
――卵かけご飯にするならやっぱり白米よね。
慣れてないからか魔法を使うととても疲れるけど、白米のためならば仕方ない。帰ったらもうひと頑張りするとしよう。
火球や水球といった基礎魔法と言われるものは魔法を習い始めて十日以上経った今でも上手く扱えないのに、風魔法を使って精米することは最初からできた私ってちょっとどうなんだろう……と思ったりしないでもないけど、気にしたら負けだと思ってる。
本能に忠実な自分に悲しみを覚えるよりも、小麦を主食とするパン食文化圏で籾摺りされてすでに玄米となっているお米が手に入る奇跡をありがたく思い、感謝するべきだもの。籾摺りを自力でやろうと思ったら、大変なんて言葉では済まされないほどの労力と時間が必要になるからね。
わざわざ籾付きと籾無しの餌を与えて、鳥の肉質変化を観察している研究熱心なフェザーさんに感謝である。『世界一美味しい鳥肉にしてみせる』と豪語しているだけあり、彼の鳥達に対する愛情は際限がない。
醤油を異世界に持ち込んでくれた勇者様やお裾分けしてくれたカリーナさん、フェザーさんが鳥達へ注ぐ情熱に感謝を捧げながら私は物置へ向かうため足早に進む。
鳥達の匂いが付かないようにとフェザーさんが朝一で届いた玄米から私の食べる分をよけて物置に置いてくれているので、早く回収して帰るんだ。
ちなみにお米の保管場所がなぜフェザーさん宅の台所や食糧庫ではないのかというと、この世界の不思議なお米事情に起因する。
なんでも大変もったいないことに、この世界でのお米は飼料として用いられることはあっても人間は食べないらしい。衝撃の事実である。
お米を初めて分けてもらってから数日後、恐る恐るといった様子でご夫妻から美味しいのか尋ねられた時はとても驚いた。拳を握り即答しておいたが、フェザーさんやカリーナさんは半信半疑といった様子で、この世界でお米を食べる人間は珍しいのだと思い知らされたのは記憶に新しい。
お米が食べられていない理由は不明。
過去の地球と似た食文化を辿っているようなので普及していてもおかしくないんだけど、一体なにが原因でこんなことになってしまったのか。