№14 ジャン・サルテーン視点
侯爵家の三男として生まれ落ち、ルクト殿下に剣を捧げてから十五年余り。
日課である鍛錬から戻ったらまず、剣と脱いだ鎧を一点の曇りなく磨き上げる。
次いで向かうのは湯殿だ。
頭の天辺からつま先まで、徹底的に汚れを落とす。
そうして身を清め終わったら、本日は儀礼用の白い制服の袖に腕を通し、騎士の誇りである剣を腰に佩く。
頭髪や服装に不備がないか三十分ほどかけて念入りに確認したら部屋を出て、敬愛する主君の元へ向かう。
「――来賓の方々のお相手は問題ないか?」
「はい。皆様、庭園にてお茶を楽しまれています」
「厨房に何人か男手を寄越してくれとマルク料理長が仰ってます」
「なに? もう料理が出来上がったのか?」
「半分ほどは。これからメインの仕上げに入ると」
「わかった。侍従を何人か送っておくから、メイド長にあと一時間ほどで来客をお連れするよう伝えてくれ」
「畏まりました」
調査団の無事の帰還を祝う宴の準備に追われ、慌ただしく行き交う人々の声に思い浮かべるのは功労者たる女性、マリーの姿。
崖崩れに見舞われ、人命を損なうことはなかったものの物資の大半を失った我々が、誰一人欠くことなく城に戻ることができたのは彼女のお蔭であった。
鑑賞物であるトマト。
投石などに使用されていたアーモンド。
これまで見向きもされていなかった米。
それらを調理し、食すマリーは来たる食料危機に備え粉骨砕身されていたルクト殿下の目に留まり、前々から計画されていたある山の開拓地の事前調査に同行させることになった。
しかし彼女は、年若い市井の女性。
迫りくる世界規模での食料争奪戦を回避することはルクト殿下のたっての願いであり、この国の騎士として私も尽力すべき課題であるが、妃どころか婚約者もいらっしゃらない殿下を思えば渋い顔をせざるを得なかった。
ルクト殿下は国や民を思うあまり、御身を顧みないことが多い。そこに国の利があるのならば汚泥を啜ることを良しとするそのお心は尊敬に値するが、仕える身としては悩みの種であり。
オリュゾンの地を踏む以前のマリーが市井の者ではなかった可能をベルクが示唆した所為で、有能ならば妃の位を与えて囲うの悪くないと言い出した。
故に、私がしっかりしなくてはと思ったのだ。
それが、我が目を曇らす原因となるとは知る由もなく。
今となっては己の浅慮を恥じるばかりである開拓地の事前調査は、そうして始まった。
ルクト殿下がマリーの知識を欲しての指名であるが、表向きは山の調査に必要不可欠なベルクとレイスの同行者。騎士達には一般女性でも入れる山だと示すために同行を許したと伝えており、彼女には護衛として女性の騎士と魔法使いが一人ずつつけられた。
無論マリーの知識を吸収するため、護衛の二人には彼女から勧められた食物はすべて口にするよう別命も下されている。
だから、フィオナとアンナになにを勧めようとかまわん。
しかしルクト殿下は別である。
マリーが白くドロドロしたものを鍋に掬い入れ、それを殿下にお出ししようとした時はさすがに止めた。
オリュゾンのためその身を犠牲にしようとするルクト殿下の志はすばらしいが、そのようなことは我々に任せてくださればいい。
むしろベルクもマルクもお側に居ながらなぜ止めないのか、私には理解できなかった。
マリーが調理したものを、食べたことがなかったからな。
甘辛い生姜焼きにコク深い寄せ鍋、蕩けるような食感の角煮……。
どれも美味であった。
勇者のシューユを元に味付けられた肉料理は、白くふっくらしたお米と合わせると至高。
何杯でも食べられる気がした。
それくらい、どれも完成された料理だったのだ。
あとから聞いた話であるが、ベルクもマルクもフィオナもアンナも『カステラ』という菓子をいただいたことがあり、その時点でマリーの調理技術は卓越していると確信していたらしい。
そしてそんな彼女が迷いなく調理していくので、採取した食材もしくは似た物を実際に食べていたのでは、というのが共通認識だったらしい。
それにアンナもマルクもベルクもルクト様も、魔法で毒性の有無を調べることができる。だから殿下にお出ししても問題ないと判断し、誰も止めなかったというわけだ。
そんな事情など知らぬ私には、畏れ多くも殿下に適当に作った分けのわかぬものを勧める女にしか見えなかった。
故に、彼女がオークに似た動物を調理しているのを見た時も、怒りしか湧かず。
なぜマリーがあの動物の肉を手に取ったのかも尋ねずに、否定した。
ルクト様をたぶらかすかもしれぬ女、という目で見ていたからこそ、俺は彼女の働きをなに一つ見ず、どのような性格の人間なのか知ろうともしなかったのだ。
――外面気にしてやせ我慢してご主人様守れなかったら本末転倒じゃないの。
頭一つ大きい俺を怯むことなく見据えて放たれたマリーのその言葉に、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
肉で腹を満たし、万全な状態でルクト殿下を守ることが騎士道に反するのかと問われ、なにも答えられなかった。
――生きる糧になるのに、過去の記憶にこだわって食べたくないなんて馬鹿みたい。
国や家族を失った悲しみはあろうが過去の記憶に囚われることなく、このオリュゾンで新たな人生を歩んでほしい――。
吐き捨てるように告げたマリーに、初めてオリュゾンに迎えた民達にそう語りかけたルクト様の姿を思いだした。
同時に、彼女がなぜ殿下の目に留まったのかわかった。
似ているのだ。
悲しみも屈辱も過去の物として呑み込み、生きるために前だけを見据えるその心が。
人命以上に大切や誇りや矜持などないと言い切る覚悟が、マリーとルクト殿下にはある。
一番大切に想うものが同じだからこそ、殿下は彼女の言動に共感を覚え、心惹かれておられるのだろう。
辛い記憶を越えて抱いた強さ。
それはただの姫君や貴族の娘では持てぬ。
――――。
思案の最中、聞き覚えのある声に引き寄せるように窓の外を見やれば、庭園の中に置かれた机でお茶をしている、マリーとレイスそれからベルクの姿が目に映る。
「マリー。これはどうだ」
「ありがとう。レイス」
本日の宴に参加するためにベルクから衣装を借りたのか、布を余らせているレイスがせっせお菓子を勧める相手は、花のようなドレスに身を包んだマリー。
メイド達が支度したのか、艶やかな黒髪が下ろされサラサラと揺れている。
「――幸せそうだな。マリー」
「紅茶もお菓子も美味しくて幸せです」
ベルクの言葉にはにかむ姿は令嬢といっても差し障りなく、陽光のような御髪のルクト様と並んだら映えるだろう。
そう考えた瞬間、ヒュッと喉が鳴った。
肺付近に広がる違和感と嫌な音を立てる心臓。
よもや風邪でも引いたのだろうか。
――こうしてはおれん。
うつさぬよう、殿下の御前に上がる前に侍医に尋ねなければ。
そう判断した私は楽しそうなマリー達から目を逸らし、足早にその場から去ったのだった。




