№10 フライパンカステラ 2
「!」
「「ベルク!」」
手の甲に感じた感触に私がピシッと固まるのとほぼ同時に、アイザさんとレイスさんが立ち上がった。そしてレイスが私の手を取り返すや否や、アイザさんがベルクさんに詰まる。
「お前、納品表を盗み見やがったな!?」
「たまたま目に入ったんだよ」
悪びれない様子で応えたベルクさんにアイザさんが眦を吊り上げる一方で、レイスはどこから取り出した布で私の手を拭っている。
「マリー。大丈夫か?」
「え、あ、うん。大丈夫」
私はというと、レイスにそう頷くのが精一杯だった。
手の甲にキスとか、本当にやる人いるんだ……。
衝撃である。漫画やアニメなどではたまに見るシーンだけど、まさか自分がそれを生で体験する日がくるなんて。
しかも片膝ついてから唇を寄せるまでが、すごく自然だった。
さすが自他共に認める女好き。
驚き半分、感心半分にそう考えていた私は、そんな自身に残念というか複雑そうな目を向けられているとは露知らず。
「照れたり引っ叩かれたりはよくあるが、感心されたのは初めてだぜ……」
「……こりゃ手強いわ」
もちろん、ベルクさんとアイザさんの会話など少しも耳に入っていなかった。
***
なんかすごい人だったな……。
夕暮れ色の光が差し込む我が家の台所で、手に入れたばかりの泡立て器やボール、フライパン、魔石コンロを準備しながら、私は昼間に出会ったレイスのお師匠様を思い出す。
女好きで貢ぐのが生きがいなのだと、アイザさんやレイスが噂していた時点でなんとなく想像はしていたけれど、ベルクさんは流れるように美辞麗句を紡いでいた。
その語彙力は豊富で、その上めげない。
よくもまぁここまでできるなと思ってしまったが、不快というわけでもなく。戸惑いはあるけど、どこか憎めない雰囲気の人だった。
たぶんベルクさんは、人との距離を測るのが上手いんだろう。
言動は軟派な感じだったけど、挨拶以降は一定の距離を空けておりパーソナルスペースを侵すことはなかったし、好きな食べ物など矢継ぎ早に質問してくるわりには、故郷の話など答えに詰まるとさりげなく話題を変えてくれる。
反応が大袈裟なのでわかり難いけど、年齢に見合った落ち着きというか余裕があったように思う。最初は師と仰いでも大丈夫なのだろうかという不安を感じたけど、話してみると不思議な魅力を持っていた。
アイザさんやレイスもなんだかんだ言いながらベルクさんを気にかけているようだったし、慕っているのだろう。
――まぁ、女好きってところは否定できないけどね。
ベルクさんのお蔭で増えた食材や調味料を眺めながら、苦笑する。アイザさんのお店を出たあと、市場を眺めながら色々と話しているうちに沢山買ってもらってしまった。
なにしろ聞き上手なものだから話が弾む。そうしてあの野菜はこう調理する、あの調味料はあの食材と合わせると美味しいと話している間にさりげなく購入していて、気が付いたらレイスに買った品を持たせ帰ってしまっていたのだ。
普通に買い与えられても私は受け取らないと見越してそうしたのだろうが、購入から受け取らせるまでに無駄がなく、大変手馴れている。
今度会った時に、なにかお礼しなきゃ……。
ベルクさんのお蔭で泡立て器の値段を割り引いてもらったのに、そのお礼もまだ言えてないからね。
もちろん、ただ言い忘れたわけではない。
一応、何度かお礼の言葉を口にしようとはしたんだけど、女性からの礼は受け取らないと決めているのか話を切り出そうとする度に話題を逸らされてしまい、結局言わせてもらえなかったのだ。
以前レイスやアイザさんがお礼など必要ないと言っていたのは、ベルクさんの流儀というかそう言った面を知っていたからなのだろう。
とはいえ、このままベルクさんに甘えっぱなしというのは気が引けるので、近いうちに何か作って持って行こうと思う。
そう納得したところで、私はフライパンカステラの材料を取るため食材を整理してくれているレイスの元に向かう。
「どうした?」
「道具の準備が終ったから材料を取りにきたの。蜂蜜ある?」
「ああ」
何か食べられると期待したのか、レイスの目が輝く。そしてすぐさま、両手サイズの瓶が手渡された。
「ありがとう」
ベルクさんが買ってくれた蜂蜜をレイスからから受け取り、台所に戻る。次いで卵や牛乳など他の材料を揃えたら、腕をまくって調理開始だ。
フライパンカステラの材料は、小麦粉八十グラムに?サイズの卵を三個、蜂蜜百グラムに牛乳を三十グラム、塩一つまみとバターを少々。
まず生地ができたらすぐに焼き始められるよう、直径十八センチほどのフライパンにバターを塗り伸ばしておく。バターが少ないとカステラもどきがフライパンから外れなくなってしまうので、白い筋が残るくらい多めに塗って、魔石コンロの上に置いておく。
焼くための準備が終ったら、今度は生地作り。
まず、小麦粉を篩っておく。
次いで、常温の牛乳と蜂蜜、塩一つまみをボールに入れて混ぜ合わせる。
ちなみに常温の牛乳と蜂蜜を使う一番の理由は、このあと泡立てた卵を加えるからである。蜂蜜や牛乳が冷えていると均一に混ざらないし、蜂蜜が硬い状態だと卵と合わせる際に混ぜる回数が多くなり、そうなると折角泡立てた卵が潰れてしまうからね。
合わせた牛乳と蜂蜜が綺麗に合わさり、トロトロ流れるくらいにはゆるんでいることを確認したら、本日のメインとなる作業、卵の泡立てである。
ボールに割入れた全卵を泡立て器で軽くほぐしたら常温、大体二十五度くらいになっていることを確認し、ひたすら泡立てていく。
といっても今回作るのはスポンジケーキではなく、簡易版のカステラなので、共立てと呼ばれる全卵を湯煎で温めから泡立てる、といった本格的な手法は必要ない。
白くモッタリした見た目となり、卵液の倍くらい嵩が増えれば十分。
ということで、ただひたすらカシャカシャと泡立てる。
すると音に引かれたのか、レイスが側にやって来た。
「それがアイザに頼んでいたやつか?」
「そうよ」
バルーン型の泡立て器を興味深そうに覗き込んでいるレイスにおざなりな返事をしながら、手を動かし続ける。
泡立て器の動かし方は一文字で、グルグル円を描くような動作は疲れる上に効率が悪いので行わない。
さらに言えば、一文字を描く際にずっと力を入れていると長時間混ぜ続けることができないので、行きに力を入れて動かし帰りは力を抜く方法を私は好んで使っている。
これも慣れるまでは大変だったのよね……。
私が製菓技術を学ぶために戸を叩いた学校では、基礎を学んでる間は卵や生クリームの泡立ては基本的に人力だった。様々な調理器具が発達している現代においてなぜと初めは思っていたけど、一通り学んでみるとその大切がよくわかるもので、大量に作る時以外は基本的に手動で泡立てるようになってしまった。
だって、機械に頼るよりも自分の手の方が微調整し易いからね。
お菓子作りにおいて、メレンゲの泡立てやムースを作る際の生クリームを合わせるタイミングなど、丁度いい頃合いは体得するしかない。
判断基準は手に感じる重さの変化や、目に映る生地の艶な様々だが、適切な状態を覚えていなければ、どれほど高価な機械を使っても失敗するだけである。
実際、ハンドミキサーを使うとメレンゲなどの泡立ては楽チンだ。しかし作り慣れてないとあっという間に、泡立てすぎてしまうという欠点がある。
いつも生クリームが硬くボソボソしてしまったり、メレンゲが分離してしまう人は、まだ混ぜ足りないかなくらいで泡立て器に切り替えると失敗が減るだろう。
パシャパシャと音を立てていた卵液が沢山の空気を抱き込んで嵩を増していくにつれて黄色から白へと色を変える。その一方で液体が跳ねる音が徐々に小さくなり、やがてボールと泡立て器がぶつかる音しか聞こえなくなった。
「……すごいな」
ボールの中で起こった卵の変貌に、レイスが思わずといった様子でそう零す。
その声に私は手を止めて、泡立て器で白くモッタリした卵液をすくい、のの字を描いた。
一、二秒しかもたなかったけど、簡易カステラならこれで十分。卵の泡立ては完了である。
あとは残りの材料を合わせるだけ。
牛乳と蜂蜜と塩を合わせたボールに泡立てた卵液を二すくい入れて混ぜたら、次は篩っておいた小麦粉を入れてダマがなくなるまで混ぜる。
緩いパンケーキ生地みたいな状態になったら、泡立てた卵液の中に円を何重にも描くようにして投入。一か所に流し入れると混ざりにくく、また泡が潰れれてしまうので分散させるイメージで加える。
最後に木べらでサックリ混ぜ合わせたら、生地を作る工程は終了だ。
ちなみに『木べらでサックリ混ぜる』というのは、生地をグルグルかき混ぜたりせず、ボールを少しずつ回して位置を変えながら底にある生地を上に掬い出すように混ぜていく感じ。
生地をフライパンに流し入れてトントン叩き、表面が平らになったら蓋をして、底に火が触れるか触れないかというくらいの弱火で三十分焼いたら完成である。
「焼くのか?」
「そう」
レイスの視線の先に注意しながら時間を計るため、時計を確認する。カステラもどきは白ご飯と一緒で、途中で蓋を開けるのは厳禁だからね。
ベルクさんのお蔭で蜂蜜をふんだんに使うことができたし、焼き上がりが楽しみだわ――。
カリカリに焼けた茶色い皮とふわふわしたひよこ色のスポンジは、私に優しい甘さと幸せな時間を提供してくれるに違いない。
魔石コンロの小さな火がチリチリと微かな音を奏でるのを聞きながら、蓋の下で少しずつ膨らんでいるだろうカステラに想いを馳せていると、目の端で栗毛が揺れる。
「マリーは、」
レイスの口から不意に漏れた声は、お菓子の完成を待っているというのにどこか悲しげな響きを含んでいて。
耳を打つその音に何事かと目を瞬かせながら顔を上げれば揺らめくアンバーの瞳が在った。
「俺の知らないことを沢山知っているんだな」
レイスが零したその言葉は、私に問いかけているようであり、彼が抱いた感想を口にしただけのようであった。
しかし彼の瞳に不安や恐れ、それから微かな期待が浮かんでいる気がして。
踏み込んでいいか、と聞かれている気がした。
どこから来たのか。
どうやって生きてきたのか。
レイスが私に尋ねたことはない。
それは、私が失くした故郷や家族を想って悲しまないよう慮ってくれているからだ。
フェザーさんやカリーナさんやアイザさん、今日会ったばかりのベルクさんも同じ。皆、私に聞きたいことがありそうな様子を見せながらも、誰一人踏み込んでこない。
お蔭ですごく助かってる。
しかし、その反面すごく苦しい。
いっそのこと詰問してくれれば、観念して白状し楽になれる気もするけど、このまま何も聞かずにぬるま湯に浸らせてほしいとも思う。
――ここは、居心地がいいから。
短い付き合いだからと切り捨て、心を閉ざすことが出来なくなってきている。彼らについてもっと知りたいし、私のことを理解してほしいと思い始めてる。
でもすべてを打ち明けられるほど、彼らを信用できない。
だからこうして踏み込みたいのだと示されても、私は中途半端な答えしか出せなくて。
「オリュゾンとは違う、遠いところから来たからね」
フライパンに目を落とす振りをして視線から逃げた私を、レイスはどう思ったのだろうか。
「そうか」
返ってきた相槌は短すぎて、すべて私の気の所為でレイスはなんとも思っていないのか、拒絶されたと悲しんでいるのか、臆病だと思い呆れているのか判断できない。
気になる。
けれども私は、もう一度アンバーの瞳を見上げる勇気を持てなかった。




