№10 フライパンカステラ 1
――クッキー生地の製作から一晩。
石窯を借りられるのは昼過ぎだというのに、待ちきれなかったのか早朝からやって来たレイスに朝食を振る舞ったあと、なんだかんだと本日分の仕事を手伝ってもらい終わらせたのが数時間前。
その後、フェザーさん宅で美味しい昼食をいただいた私とレイスは、カリーナさんの友人一家が経営しているというパン屋さんの厨房にお邪魔していた。
部屋の隅に積まれた小麦粉の袋や水が溜められた瓶。
中央に置かれたパン生地を捏ねるための大きな調理台。
壁際に設置された天井近くまである石窯。
ピールを携え、赤く燃える窯を覗き込む二人のパン職人。
絵画や物語の中でしか見られないような光景が広がる厨房に漂う空気は石窯の熱気で熱く、息を吸い込めば焼けた小麦と焦げた砂糖の芳香が肺を満たす。
「――いい匂い」
「ああ」
お昼を食べてきたばかりだというのにお腹を刺激するクッキーの香りに思わずそう零せば、隣にいるレイスも感嘆交じりに頷く。
しかしアンバーの瞳が私に向けられることはなく、その視線は石窯、正しくは現在焼成中のクッキーへと注がれていた。
釘付け、という言葉がぴったり当てはまる姿だ。相も変わらず無表情だけど、レイスがクッキーを楽しみにしていることが大変よく伝わってくる。
昨日の夜から楽しみで仕方なかったらしいレイスの姿に、無理せずクッキーの焼成を店主さん達に頼んでおいてよかったと思う。
石窯なんて使ったことないから、本当によかった……。
窯の中に真剣な眼差しを向けている店主のブールさんと、その娘であるロゼッタさんの背を眺めながら、快くクッキーの焼成を引き受けてくれたお二人に、心の中で感謝を捧げる。
今、下手に声をかけたら邪魔になっちゃうからね。
今回のクッキーの焼き時間は、百八十度で十二分から十五分。
見た目で言えば、生地の周囲と裏面は薄茶色に色づいているけど表側の中心は白いまま、という状態がベストである。
そう言葉にしてしまえば簡単な気がするけど、温度と時間を設定すれば焼いてくれるオーブンでさえ一台一台微妙なくせがあり、想像通りに仕上げるには何度も練習するしかない。
だというのに温度表示もタイマー機能もなく、薪や生地を置く位置などで焼き加減を調節しなければならない石窯で焼成など、その難しさは計り知れない。
オーブンしか使ったことのない私が、石窯でクッキーを焼くなど無謀極まりなく、きっと折角作った生地の大半を駄目にしてしまう。
そこで事前に相談してみたところ、目新しいお菓子に興味を持ったブールさんとロゼッタさんが代わりに焼いてくれることになったというわけだ。
石窯のレンタル料も焼き代も現物支給でいいと言ってくださったし……。
ロゼッタさんを紹介してくれたカリーナさんには、心から感謝している。
クッキーの美味しそうな香りに楽しみだな、と期待に胸を膨らませながら石窯の中を見張っているブールさん達を見つめていると黄金色のお団子頭が揺れ動いた。
「マリーちゃん。クッキーの中心は茶色くならなくてもいいのよね?」
「そうです!」
ロゼッタさんの言葉に力強く頷けば、白髪の頭を屈めて窯を覗き込んでいたブールさんから嬉しい報告が上がる。
「ならそろそろだな」
ブールさんのその台詞にレイスの喉がゴクッと鳴った。
そんな私達に構うことなく、ブールさんとロゼッタさんは順にピールの長い柄を軽やかに操り、石窯の中からクッキーを取り出す。
「そら、焼けたぞ」
そしてそっと優しい仕草で、キラキラ輝く砂糖に縁どられた黄金色のクッキーを調理台の上に広げたのだった。
***
――ディアマン風アーモンドクッキーの完成から一時間後。
私とレイスは泡立て器を受け取るため、アイザさんが経営する刃物屋さんへ向かった。
十日ぶりに訪れたお店に変化はなく。
待ってたぜ、と爽やかな笑みで出迎えてくれたアイザさんに先手必勝とばかりにクッキーを差し出せば、目を丸くして前回と同様に奥の部屋に案内された。
片手間に罠や小物づくりを引き受けているだけあって、アイザさんは新しいものや珍しいものがお好きらしく。私が注文した泡立て器そっちのけで、アーモンドクッキーの説明に耳を傾けていた。
「――んで、これがその菓子なのか。綺麗だな」
布を敷いた籠の中に並ぶクッキーをしげしげと眺めるアイザさんに、私は自信をもって頷く。
「そうです。少なくて申し訳ないんですが、さっき焼いてもらったばかりなので美味しいですよ」
「要らないならくれ」
まだ一口も食べてもいない相手にそう言い放ったレイスの目は真剣そのもので、アイザさんのクッキーに対する興味がより一層深まったようだった。
そしてついにアイザさんの手がクッキーへと伸びる。
歯を立ててサクッと半分ほど口に入れられたクッキーはカリカリと小気味いい音をたてながら噛み砕かれ、彼の胃の中へと消えて行く。残り半分どころか二枚目も間も置かずに口の中に放り込まれた辺り、アイザさんはこのアーモンドクッキーが気に入ったようだ。
残念そうに見ているレイスには悪いけど……。
クッキーの抜型やケーキ型など、アイザさんにはこれからも沢山お世話になる予定なので口に合ったならばなにより。ホッとした私は肩の力を抜きながら、口の中のものを味わっているアイザさんを待った。
パン屋さんで試食した際レイスはもちろん、ブールさんやロゼッタさんも絶賛してくれたのでお土産として悪くはないと思っていたけれど、実際にこうして美味しそうに食べてもられると嬉しい。
今回作ったディアマン風アーモンドクッキーは生地に加える糖分を蜂蜜にした分、重みのある食感になってしまっているけどより硬いアーモンドが入っていることで、そこまで気にはならない。また、生地に加えた蜂蜜の量が少ないためベースのクッキーだけでは物足りない味だけど、ディアマン風に砂糖をまぶしたことでカバーされている。
個人的な感想を言えば、バターや白砂糖をもっとふんだんに使ったリッチな味わいのクッキーの方が好みなんだけどね。使える材料が限られていることを考えれば、十分な味だ。
ようやく泡立て器も手に入るし、次は白くなるまでホイップしたバターを使うレシピを試してみたいところだ。他にも牛乳や卵を加えるレシピやフルーツピュレなど混ぜ込むもの、また包丁で切って整形するのではなく、型抜きするタイプや絞り出すタイプなどもある。
クッキーの種類は幅広く、アレンジする余地が沢山あるので飽きることはないだろう。
それにこれからはケーキ類も作れる――。
まだまだ材料は足りないし、道具もないものばかりだけど泡立て器の存在は大きい。石窯のハードルは高く、ブールさん達の協力が必要だしデコレーションケーキなどはまだ難しいけど、簡単なものなら作れるからね。
夢は膨らむばかりである。
ちなみに今晩は、カステラもどきを作る予定だ。
あれならフライパンで焼けるし、卵と蜂蜜、牛乳、小麦粉があれば作れるからね。
そうやって、泡立て器の完成まで指折り数えて待つ間に考えていたお菓子を思い浮かべてウキウキと心弾ませていたその時だった。
「――イイもん食ってるじゃねぇか、アイザ」
バリトンボイスが耳を打ったかと思えば太く筋張った腕が目の前を横切り、アイザさんの前に置いてあった籠の中からクッキーを二枚いっぺんに攫って行く。
「「!」」
目を見開いたアイザさんとレイスがガタッと動いた感じつつ、手が伸びてきた方を見やれば四十代くらいだろう黒髪の男前がいた。
しかもその男性は驚き固まる私に対し口端を上げると、流し目を寄越しながら新しいクッキーを口に入れ、最後に親指で唇を拭ってみせる。
その色っぽさたるや。
見た目は野生的な雰囲気漂う色男だが、私の心境は「なんだこいつは」である。
いつの間にか入って来て、これ見よがしな仕草。
第一声を思い出すかぎりアイザさんの知り合いのようだけど、なんだか軽そうな人だ。
この場合、私はどう反応するべきなのだろうか?
驚けばいいのか、照れればいいのか……。
私に一体どうしろというのか。
というかこのような人種にお目にかかったのは初めてなので対処法がわからない。
困り果ててアイザさんへ目をやれば、視界の端に色男が切れ長の瞳を見開いている姿が映っていたけど、あのような人物は私の許容外である。
「――ハハッ! 嬢ちゃん、いい対応すんなぁ」
吹き出すように笑い始めたアイザさんは大変愉快そうだけど欲しい答えは得られなかったので、次いでレイスに目を向ければ何故かまじまじと私を見下ろしている。
アイザさんといいレイスといい、どうしたのだろうか。
「レイス?」
「あれがベルクだ」
沈黙したレイスの名を呼べば、状況を思い出したのか私が抱いていた疑問へ答えてくれたのだが、あまりにもサラッとした回答に、一瞬ベルクって誰だっけと考える。
あれ? ベルクってたしか……。
「――レイスのお師匠様?」
思い出した記憶を頼りにそう尋ねれば、レイスは私の背後にいるだろうベルクさんへ一度視線をやったあと、少し嫌そうな様子で頷く。
「ああ」
「レイス。お前、そんな嫌そうに答えなくてもいいだろう?」
「マリーは相手にしなくていい」
「おい」
情けない声を出したベルクさんを無視して私に語りかけるレイスに、非難の籠った声が上がる。しかし笑いを収めたアイザさんから「妥当な判断だな」と言われてしまい、不服そうに目を細めた。
なんというか、ベルクさんは表情豊かな人である。表情筋が動かないレイスに慣れている所為か、その反応が大袈裟に思えるくらいだ。
「お前らがそんな態度だから、警戒されちまったじゃないか」
「「それは自業自得だ」」
ピタリとハモった台詞にベルクさんは不満そうな表情を浮べるが、レイスは慣れてるのか気にすることなく椅子に座り直し、アイザさんはさりげなくクッキーに布をかけ直して籠を回収する。
「というか、客居るのに乱入してくんなよ。休業中の看板出しておいただろ?」
そして籠を机の端に寄せると、そう言ってベルクさんに非難の籠った目を向けた。
至極もっともな意見である。
しかし叱られたベルクさんに堪えた様子はなく。
「レイスに仕事持ってきてやったんだよ。あとは噂のマリーちゃんに会いにな」
得意げに笑ながらそう言うと、私へウインクを一つ。
次いで片膝ついて座っている私と目線を合わせながら名乗ると、流れるように手を取りそのまま唇を寄せた。
「俺はベルク。艶やかなブルネットが美しい、噂以上に可愛らしいお嬢さんだ。マリーと呼んでも?」




