№1 ビールとスモークタン
――地球の都内某所にある住宅街。
今日も今日とて足を棒にしながら一日の仕事を終えた私は、愛しの我が家を目指して蛍光灯の白い光の下を歩いていた。
右肩にある通勤鞄に終わり切らなかった書類が詰まっていて疲れた体には重くてたまらないけど、今日は金曜日で土日はお休みと思えば頑張れるというもの。
なにより、左手には先ほどコンビニで発見した新商品のビールのロング缶とスモークタンが入った袋がある。一番好きなイカの一夜干しがなかったのは残念だが、私はビールがあれば大抵のことは許せる人種なので問題はない。
となると頭の中を占めることは一つ。
――夕飯は何にしようかな。
おつまみが肉系なので主菜は野菜か魚がいいけど、新商品のビールはホップ増量と書いてあったから恐らく苦みが際立つタイプだし……と考えたところで以前大量に作って冷凍しておいたちゃんちゃん焼きの存在を思い出したので、それと白米を解凍して食べようと心に決める。
鮭をもやしやキャベツなどたっぷりの野菜と炒めて、甘めの味噌ダレで濃い目に味付けたちゃんちゃん焼きはそのまま食べてもアレンジしても美味しいので、我が家の冷凍庫には大抵入っている。コーンとバターを足して味噌味のインスタントラーメンに載せれば豪華な一杯が出来上がるし、出汁と調味料を足せば即席味噌鍋にもなる。ビールに合うし、白米との相性も最高だ。
思い描いた夕飯にゴクリと喉を鳴らす。
ビールを冷凍庫で冷やしている間にレンジを回そう、と帰宅してからの計画を立てる。さらに、おかずが味噌味だからお湯を注ぐだけのわかめスープを付けよう、と決めれば口元は緩み、歩く速度も自ずと速くなるわけで。
住宅街をカツカツカツとヒールを鳴らしながら足早に進む私に声をかけてくる人はもちろんおらず、これがお一人様を邁進する原因だとなんとなくわかってはいるものの、改善する気は毛頭なかった。
今一つな料理をつまみながら缶の倍以上の値段がするビールを頼むよりも、帰路の心配をしなくていい自宅で自堕落な格好で誰に気兼ねすることなく呑む方が幸せだしね。
うら若き乙女としてはだいぶ失格なことを考えながら愛しの我が家へ一目散に帰る。それが就職して一人暮らしを始めてからの私の日常であり、これからも変わることはないと思っていた。
思っていたんだけれども『人生は小説よりも奇なり』とはよく言ったもので、私は自宅まであと数百メートルの距離を残したところで通りがかる小さな公園の中心でとんでもない光景が繰り広げられているのを目撃することとなる。
丁度私が公園の真横まで来たその時だった。
目に眩しいほどの光量を感じたので外灯が爆発するのかと驚愕した私は、逃げることも忘れて反射的に光源へ視線を向けた。
そうして見たのは、閑散とした住宅街の寂れた公園には似つかわしくないオーロラで。
――え。ちょ、なんで?
ありえないものに目を見開いていると、まるでカーテンを捲るようにオーロラの中から近所にある高校の学ランを着た男の子が出てて来た。
『私の世界を救ってくれて、ありがとう』
「いや。それよりも――は大丈夫なのか? ようやく魔王の呪縛から解放されて自由の身となったのに、俺を若返らせたり召喚前の時間に戻したりした所為でまた力が」
『貴方のお蔭で私の世界は正常に戻ったから、五年くらい眠れば大丈夫よ』
「そうか」
そして聞こえてきた鈴を振るような声ってこういうのを言うのねと感心させられる声音と、落ち着いた話し方をする男子高校生の会話。
――これはもしかしてライトノベルとかでよくある異世界召喚!?
しかも帰還時なのね、と得も言われぬ感動に浸りながら草陰に隠れて様子を窺うことしばし。
『本当にありがとう、ユウト』
「色々あったけど、俺も楽しかったよ」
『「またね(な)」』
オーロラの隙間から振られたたおやかな腕に男子高校生が爽やかな笑顔で応えれば、捲り上げられていた光のベールがスルリと落ちる。
女神様は立ち去ったのか、寂れた公園に得も言われない静寂が広がる。そんな中、ユウトという名の男子高校生は閉ざされた光のカーテンを感慨深そう目を細めながら数秒間見つめていたけど、やがてスッと背を向けて歩き出した。
誰もいなくなった公園の芝生の上で揺れるオーロラは少しずつ輝きを失い、薄くなっているみたいだったけれどとても綺麗で、私は猛烈に間近で見たい衝動に駆られる。
――もう少し側に行っても大丈夫だよね?
迷いはあった。
しかしこんな機会は二度とないと思うと、いても立ってもいられなくて。
仕事終わりの解放感と週末という高揚感も手伝って、私は気が付けば湧きあがる好奇心のまま公園の低い柵を乗り越えていた。
「……すごく綺麗」
日本ではまずお目に掛かれない光のベールのあまりの美しさに、珍しく乙女チックな声が出たなと頭の隅で考えながら魅入っていると人間とは不思議なもので、今度は触れてみたいという欲望がチラリと顔を覗かせる。
そしておもむろに手を伸ばしてみるも、さすがにそこまで馬鹿ではないわけで。
――いやいや。それはさすがに無謀すぎるでしょ。本気で異世界に行きたいと思うほど身も心も若くないし。
脳内で自ずと入った突っ込みに「ですよねー」と軽く返した私は、これ以上の冒険心が湧き出てくる前に帰ろうと手を下ろしてクルリと方向転換した。
したんだけど。
「なにをしてるんだ!」
丁度身を翻した瞬間に響いた怒声に驚いた私は仕事の疲労と荷物の重み、それからヒールという三拍子そろった悪条件に導かれるままバランスを崩し、あろうことか背中から倒れ込んだのだった。
***
幸か不幸か異世界トリップの瞬間を目撃した人はいなかったようで、芝生のような草の上に寝ころぶ私の周囲には誰もいない。遠くの喧騒がたまに風に乗って聞こえてくるもののいたって静かで、気温もぼんやりするのに丁度良かった。
そうしてどのくらい空を眺めていたのだろう。
青空に浮かぶオーロラも公園で見たものと同じように少しずつ薄くなっているみたいだったけど、緩やかに揺らめく光を見ているうちに眠気が襲ってきて段々瞼が重くなってくる。
帰ってちゃんちゃん焼きで一杯やるはずだったのに……。
ぼんやりそんなことを思えば、ぐぅぅと乙女にあるまじき音量でお腹の音が鳴り響いた。
――誰もいなくてよかった。
そう思う一方で、空腹が気になりはじめて上手く眠れない。我慢しきれなくなってムクリと起き上がった私の目に映ったのは、白いコンビニの袋から顔を覗かせるビールと『そのまま食べても美味しい』という 謳い文句が書かれたスモークタン。
「…………とりあえず、これでも食べようかな」
澄んだ青空と程よく体を温めてくれる陽光、柔らか感触の原っぱという風光明媚な場所に座り込んでコンビニの袋へ手を伸ばす。そして栄えある異世界での初行動がこれってどうなんだろうとぼんやり考えながら、おつまみの袋を開ける。
頬を撫でる心地よい風に目を細めながら噛みしめたスモークタンと続いて飲み込んだ生温いビールは想像通りほろ苦く、色んな意味で格別な味だった。