№6 レイス視点 2
『……生まれ持ったもんはそう簡単には変えられん。欲張ると長生きできねぇぞ』
ここ一か月の俺の変化に気が付いたのか、突然そんなことを言い出した爺さんの言葉が耳の奥で木霊する。
とその時だった。
物置の外に人の気配がしたかと思えば、ギィと扉が開き軽い足音が響く。
――まずい。
慌てて木材の後ろに身を隠して様子を窺えば入ってきたのは頭一つ分小さい少女で、俺でも簡単に抑え込むことができた。
……しかしどうしたものか。
人を呼ばれてはまずいと思い捕らえたものの、ここからどうするべきか。正直この少女を攫って逃げる体力はないので、連れ帰って売ったりはできない。縛って逃げるか。
そう考えて少女を見下ろした俺は、そこではじめて彼女が顔面蒼白で震えていることに気が付く。そして涙を零すことも忘れて死の恐怖に怯える彼女の姿に、在りし日の己を見た。
『んなとこに座り込んでても食い物は手に入らないぞ。死にたくねぇならついてこい。ゴミの漁り方を教えてやる』
空腹で朦朧とする意識の中で力が抜けていく己の体が恐ろしくて、しかしどうしたらいいのかもわからなくてただ腕や足を抱きしめるように座り込んでいた俺に、爺さんはそう言って地を這い生きる方法を教えてくれた。
そしてここに来る前にも。
『死にかけても座り込むしかできねぇお前にゃ向かねぇからやめておけ。どれほど人生を悲観して自暴自棄になったとしても、お前は人の道を外れて生きることなんざできねぇよ』
――ああ。あんたの言うとおりだった。
犯罪者にとってなんの抵抗もできず怯えるだけの少女などいいカモだというのに、腕の中で震える彼女が哀れで俺は持て余している。俺のこんな弱さを見透かしていたからこそ爺さんは止めてくれたのだろうに、それを変に強がって。なにやってんだか。
情けない己に気落ちした俺は、とりあえず少女の拘束を解いた。
さすがに貧相な俺でも、抵抗さえ満足にできない少女から逃げることはできるからな。筋肉はほとんどなく、戦うことなど知らなそうな柔い体つきの彼女に自由を与えたところでどうってことない。
そうして逃げる算段を立てるために物置の周辺に人がいないことを少女に確認しようとしたわけなのだが、俺は彼女の口から出た言葉に逃げることさえ忘れてただただ驚く。
なんと彼女は家畜の餌である米を食べるというのだ。
俺とて食うに困って川辺に自生しているのをむしって砕き口入れたことはあるが、あれは到底食べれたものではなくすぐさま吐き出したことを覚えている。爺さんや他の連中もあれはまずくて食えないと言っていた。
しかしそれを彼女は美味しいという。
あんなものが美味しいわけがないという思いと、小綺麗な格好している彼女が米をわざわざ口にしているという驚きから俺は目の前の少女を凝視する。そこでようやく俺は彼女の髪色がこの辺りでは見かけないブルネットであることに気が付いた。
――ここの娘かと思っていたが、もしや彼女は最近また増えた移住者なのか。
ここは鳥小屋の中でも古株。ブルネットなんて珍しい色の娘がいたのならばとっくの昔にその手の奴らの間で攫って売る対象として噂に上がり、俺の耳にも入っていたはず。なのに今まで少女の噂を聞いたことがなかったということは、そういうことなのだろう。
身一つで移り住んで来ただろう少女が、家畜の餌で食いつなぎながらこうしてまっとうに働き生きているというのに、俺は一体なにをしようとしていたのか。
考えれば考えるほど己が情けない。俺には人心を捨て犯罪者になる勇気もなければ、彼女のように米を食べてでも生きるという覚悟もなかった。そんな中等半端な人間に現状を覆すなどできるはずがない。当然だ。
生まれ持ったものはそう簡単には変えられない。
その言葉の意味を俺は、身をもって知った。
そうして完全に心折れた俺は彼女に促されるまま盗んだ鳥達を返し、その後マリーと名乗った少女の寝床にて何故か飯を御馳走になった。
マリーが調理した米は白くふっくらとしていて噛みしめるほど甘く、川辺でむしって食べたものと同じだとは信じられないほど美味くて。その上マリーは、蜂蜜やショーユといった貴重な調味料を俺のために沢山使って卵と鳥を調理してくれた。
自身だって余裕はないだろうに、ご馳走すると言ったからといって。
そうして出来上がった料理は、あの日かぶりついた焼いた鳥肉よりもずっと贅沢な味だった。
しかし俺に食べさせるために作ったというマリーの料理はスルリと喉を通り、一口ごとにあの日空いた心の穴を満たしてくれた気がした。
だから俺も頑張ってみようと思ったんだ――。
あの日踏み出せなかった光に満ちた町中を歩きながら想うのは、マリーの笑顔で。
服は鳥小屋の奥さんのおさがりで、小屋の中にあるのは借り物や分け与えられたものばかりで己の物はほとんどないと言う彼女はそれでもまっとうな場所で一生懸命働いて、いつか自分で借りた家でお腹いっぱい美味しいものを食べるのだと言って笑っていた。
与えられなかったことばかりを嘆きやけを起こそうとした俺とは大違いだと落ち込むと同時に、マリーのように強くなりたいと思った。
……喜んでくれるといいんだが。
腕に抱えた秤が入った箱にチラリと視線と落とし、二人で市場を回った時のことを思い出す。口に出して言われたわけではないので少し不安だが、瞳を輝かせながらジッと見つめていたので欲しかったのだと思う。
金を稼ぐ術を手に入れられたのも、
家を借りることができたのも、
こうして陽の下を歩ける今の生活も、
すべてマリーとの出会いがあったから得ることができたんだ。
感謝している。
だからと言ってなんだが、彼女の顔に笑みが浮かぶよう努力したいと思う。
マリーに諭されお腹と心を満たしてもらった俺は、その足で鳥小屋の主人に謝罪しに行った。
そうしてひと騒ぎあったものの、彼女が一生懸命庇ってくれたこともあって罪人として突き出すのは見送ってくれることとなり、それどころかご主人に昔は俺と同じく裏路地を漁って生活していたという男を紹介してもらった。
その男は現在、山や森に入って食材や獣を狩ることを生業にしているらしく、俺はこの三か月間その知識や技術を学び屋根のある生活を手に入れることができたというわけだ。
苦労や危険もそれなりにあるが、犯罪よりもずっと俺の性に合っていたのだろう。順調に稼ぎを増やしていく俺を爺さんもマリーも喜んでくれるし、あの時思い留まって本当によかったと思う。
そして今日は大物を仕留めることに成功し、マリーへの贈り物を買うことができた。
秤などなにに使うのかわからないが、『秤があればケーキが食べられる……』と呟いていたので、これがあればなにか美味しいものが食べられるのだろう。マリーは節約のためか珍しい食材を使うことがあるが、出来上がるものは魔法をかけたように美味しいので楽しみだ。
彼女の喜ぶ顔を思い浮かべれば歩調は自然と早まり、ふわふわとした感情が胸に満ちる。
どこか温かいこの感情の名を俺は知らない。
師にあたるベルクも爺さんも己で考えろと言って教えてくれなかったからな。
そのことをもどかしく思うも、鳥小屋の夫婦やマリーには不思議と聞こうとは思わなかった。
何故だろうか?
わからない。
しかしいつの日か、胸に広がるこの感情の意味を知ることができたなら。
――君に聞いてほしいんだ、マリー。
なぜそんなことを思うのかもわからぬまま。
俺は軽い足取りで、温かいご飯を用意してくれているだろう彼女の元に急いだのだった。




