終焉
ガタン
「お婆様!」
私が今はもう慣れたものとなった食事の支度をしていると、背後で何かが床に倒れるような音がしました。
なんだろうと振り返るとそこには床に伏したお婆様の姿がありました。
倒れたままで身じろぎひとつしない、お婆様を慌てて抱き起していると
「どうした!?」
家の外で作業をしていたスヴェン様が私の叫び声を聞いて飛び込んできました。
「お婆様が急に倒れて、動かないんです……」
「……そうか、とりあえずベッドに運ぼう」
私の話を聞いたスヴェン様は一瞬沈鬱な表情になると、私からお婆様を抱きとり、抱え上げるとベッドへと運んでいきました。
――その日より、お婆様がご自分の足で歩くことはありませんでした。
「ここに来てから半年と少しですか、我ながら長く持ちましたね」
「何を仰っているんですがお婆様。まだまだこれからじゃないですか」
横になったまま悟ったような事を仰るお婆様を窘めますが、内心では私も判っているのです。
元々、城でもあまり起き上がることが無くなっていたお婆様が、ここに来てから別人のように元気に動き回っていたのは体に残された力を燃やし尽くしていたのだと、そしてここにきて遂にそれが尽き果ててしまったことを……。
それでも、それでもなんとか少しでも長く生きて欲しいと願うのは浅ましい望みでしょうか?
「カミーラよ、最後にどこか行きたい場所は無いか?」
「な……」
そんな私の心の内を無視するかのような無遠慮な一言がスヴェン様の口から放たれました。
思わず絶句してしまう私とは対照的に、お婆様はその言葉を聞いて嬉し気に頬を緩めます。
「ふふ、そうですね……。それではいつか行ったあの湖にもう一度連れて言ってはくれませんか?」
「お安い御用だ。という訳だ、アリシア準備しろ」
「こ、こんな時に何を言っているんですか!」
「こんな時だからこそ、だ。今を逃して何時行くというのだ?」
「それは……」
それは確かにその通りです、まだお婆様は話すことも笑う事もできます。しかしそれもいつまで……。
「……わかりました。すぐに準備して向かいますのでスヴェン様はお婆様をお願いいたします」
「任せておけ」
スヴェン様はそういうと、お婆様をそっとベッドから毛布ごと抱き上げて連れて行きました。
私も用意をして急いで後を追いましょう……。
「オマエあんときの婆さんか、すっかり弱っちまったな……」
「またお会いできて嬉しいわ」
私が支度を整えて湖に駆け付けると、寝椅子の形に整えられた土の上に毛布をひき体を横たえているお婆様と、以前歌を歌っていたと思われるセイレーンが話をしているところでした。
「早かったな」
「お婆様を貴方だけにお任せするわけにはいきませんからね」
「そうか」
息を切らしながら答える私を微笑ましいものを見るような目でいるスヴェン様に何故だかちょっと胸の中がざわつきます。
「まあいいさ、今日はオマエのために歌ってやるからありがたく聴いていくんだな」
「ええ、ありがとうございます」
何故か捨て台詞のような口調でセイレーンは言うと、お気に入りの場所なのか岩場まで泳いでいき歌い始めます。
穏やかな歌声に耳を傾けつつ、私たちは湖畔での談笑を楽しみました。
そしてこれがお婆様の最後の外出となりました。
「……ここまでの、ようですね」
「そうか、人間は皆俺を置いて逝ってしまうんだな」
「ふふ、ごめんなさい……ね」
「いいさ、それが種の定めというものだろう」
湖畔へ出かけた日より、ひと月も経たないうちにお婆様はもう立ち上がる事はおろか、ベッドでその身を起こすこともできなくなってしまっていました。
「ほら、泣いてないでお前も」
少し離れた場所で、泣き腫らしていた私の背をスヴェン様が押してくれました。
「お婆様……」
「泣くのをお止め、アリシア。……貴女には渡しておくものがあります」
そう言ってお婆様は震える手で一通の手紙を私に差し出します。差出人は当然お婆様、宛名はお父様、つまり国王陛下となっていました。
「これをあの子に渡せば、貴女には何の咎めも、無いはずですよ」
こんな時まで私の身を案じてくれるお婆様のお心遣いに再び涙が溢れてきてしまいます。
「あ、ありがとうございます」
「貴女が付いてきてくれて助かりましたし、このくらいは祖母として当然ですよ」
「お婆様!」
私がこらえきれずに抱きつくとお婆様は優しく抱き返してくれました。
どれだけそうしていたでしょうか、私はもう一度だけお婆様を抱きしめる手に力を入れた後にベッドを離れてスヴェン様に場所を譲ります。
「スヴェン……。 私は、貴方のお蔭で、自分の役目を果たすことができました……」
「そうか、それは良かった」
「唯一心残りであったことも、貴方の方から来てくださり、約束を果たすことができました……」
「少々遅れてしまったが、こっちにも都合があってな、勘弁してくれ」
「ふふ、優しい人。……ああ、もう貴方が良く見えないわ……」
「俺はここだ、ここに居る」
スヴェン様が膝をついてお婆様の手を取ります。
「しあわせを……。ありが、とう……」
その手が、零れ落ちていきます……
「おやすみ、カミーラ……」
スヴェン様はお婆様の頬にそっと口づけすると、取り出したナイフで髪を一房だけ切り取り懐にしまいました。
「カミーラの体は人間が必要としているだろうから、返してやる。だけど今夜だけは2人にしておいてくれ」
そう仰るスヴェン様に私は頷くと、部屋を出ようと扉に手をかけます。
「すまんな」
「いえ、お婆様の望みをかなえてくださりありがとうございました」
恐らくあのまま城で暮らしていたならば、いましばらくの猶予はあったかもしれませんが、それよりも。……例えその命が短くなろうとも、人生の最後にご自分の好きに生きることができたのをお婆様はきっと後悔はしていないでしょう。
私は、そのことを、そして大切な人に見取ってもらえたことをとても羨ましく感じました。
その晩は、どこか遠くで飛竜の悲し気な鳴き声がしたような気がしました。