深夜の来訪者
月のないその夜、私はかすかに重たげな翼の羽ばたく音を聞いたような気がして目を覚ました。
しばらくしてその音は聞こえなくなりましたが、どうにも気になって仕方なくなり、音の行く先を調べようと思い立ちます。
就寝着の上に薄物を羽織り、天蓋付のベッドから抜け出て深夜の廊下へとそっと出ると、隣室であるお婆様の寝室からわずかに話し声が漏れているのに気が付きました。
じっと耳を澄ますとお婆様の声の他に男性の声が聞こえますが、穏やかに話すお婆様の調子からして狼藉者の類ではなさそうだと感じて体の力が抜けました。どうも知らずに緊張していたようです。
すると今度はこんな時間に誰と何を話しているのかという好奇心が湧き上がってきます。
私は足音を立てないように気を付けてお婆様の寝室の扉へと忍び寄り、――そして扉に耳を付けた瞬間に聞こえてきた言葉に心臓が止まりそうになりました。
「おや、お客さんが扉の前まで来たようだ」
その声にびくりと体を震わせて思わず大きな音を立ててしまいます、そして追い打ちをかけるように
「誰ですか、お入りになさい」
敬愛するお婆様にそう言われて進退窮まり、観念して扉を開けます。
「アリシアでしたか、盗み聞きとは感心しませんね」
ばつの悪い様子で部屋に入った私を見て、ベッドに横になったままのお婆様がいたずらっ子を見つけたような様子で私を諭します。
「お前の孫か?」
「ええ、アリシアという名で、今年で16歳になります」
「やはりそうか、髪の色は違うが面差しが昔のお前を思い出させるな」
私を見てそんな風に交わされた、お婆様と年のころが30前後に見える茶色がかった黒髪の男の会話にかっとなり
「お婆様に対して『お前』とは何ごとですか! この方はこの国の……」
「良いのですよアリシア。この方は良いのです」
言いつのろうとする私を穏やかに、だが断固とした調子でお婆様が止めます。
「すまんな、怒らせるつもりは無かったんだがな。――これ以上居ても騒ぎになりそうだ、今日のところはこれで退散することにしよう。それじゃあカミーラ、5日後に迎えに来る」
「はい、それまでになすべきことを片付けてお待ちしています」
男は私に軽く頭を下げるとお婆様にそう言い残してテラスへと向かって歩いていきました。
何をするつもりかと見ている前で、男がバルコニーへ出ると空から黒い巨大な何かが静かに降りてきます。
「飛竜……」
私が絵本の挿絵でしか見たことのない飛竜を目の当たりにして驚愕していると、男は降りてきた飛竜の背に設置された鞍に飛び乗ります。そしてお婆様に軽く手を振ると飛竜と共に空へと瞬く間に飛び去っていきました。
何かしらの魔法的な力が働いているのでしょうか、巨大な飛竜とは思えないほどの小さな羽ばたきの音でした。先ほど私が聞いたのはこの音だったのでしょうか……。――それはともかく!
「い、今のはなんだったのですか? それにあの方は?」
男と飛竜が飛び去った空をどれだけ見つめていたのでしょうか、ふと我に返りお婆様に勢い込んで訊ねます。
お婆様は私がそのような質問をするのが分かっていたというように頷くと
「少し長い話になりますよ? それでもいいならお聞きなさい」
「是非お聞かせください」
眠気など完全にどこかに行ってしまった私は、ベッドの傍の椅子に腰かけるとお婆様の話に耳を傾けました。
「あれはもう……55年前にもなります、私は16歳――ちょうど今の貴女と同じ歳でしたね」
お婆様は起こしていた上半身を再びベッドに横たえ、天蓋の――もしかしたそのずっと先を見つめながら遠い昔を思い出すように話し始めます。
「その年にかねてから険悪な仲となっていた隣国である帝国が我が国に攻め入ってきました。敵は大軍であり、我が国の兵士たちは勇敢に戦いましたが多勢に無勢、次々と砦や城が落とされ、反攻を期した平原の決戦で敗れた後はもう止めるすべもなく、敵軍は王都に流れ込んできました。そして王族は城から落ち延びることができた私を除いて皆殺しになりました」
そのあたりの話は家庭教師より教わっており、当時の隣国は大陸に覇を唱える強大な帝国で四方の国々に戦いを挑んでいたのでした。
「普通は攻め落とされた国などそのまま歴史の中に消え去るのですが、かの国は拡大する戦線を維持するために過酷な徴兵、課税や課役を行い、それにより民衆の間では王国の再興を願う声が上がるようになりました」
多くの働き手を兵士として徴用しておきながら5割を超えるという重い税、その上たびたび労働力の供出をもとめられ、多くの国民はすぐに耐えることができなくなったといいます。
「そして唯一の王族の生き残りであったお婆様を旗印にして侵攻軍を打倒し、国の再興を成されたのですよね」
「そうですね、反攻の機運が高まるまでに2年、そして実際に打って出てから3年の足かけ5年間でした」
私が教わった内容では旧王国軍の生き残りと義勇兵が各地で蜂起して、それに守備側で徴兵されていた人たちが呼応して最終的に城を攻め落として王権を取り戻したとなっています。
そうでしたよね、お婆様に言うと。
「それは大筋としては間違っていませんが、一つの要素が抜けているのです。今となっては名も伝わっていない一人の人物が大きく関わっていたのですよ。彼は強力なゴーレムを操り、敵兵の立てこもる砦や、城の城門を次々にこじ開けていきました。そして最後にはこの王城の城門もまたゴーレムを破城槌として打ち破ったのです」
「本当ですか? そのような話は聞いたことありません。それにそのような方が居れば救国の英雄として語り継がれるのではないのでしょうか?」
驚く私にお婆様は微笑む。
「ええ、本当です。そして彼の名前が歴史に埋もれた……、いえ意図的に消し去ったのは彼が人間では無かったからです。人ならざる者の手を借りて国を取り戻したとなればその後の国政にも影響しますからね」
「そんなまさか……」
栄光ある故国戦争を信じていた私は、お婆様の言葉が俄かには信じられませんでしたが、まさかお婆様がそのようなことで嘘をつくはずもなく、戸惑ってしまいます。
「そのことは別に良いのです。彼も英雄と祭り上げられることなど望んでおりませんでした。それに彼の望みは別にありました」
「その方の望みはどのようなものだったのですか?」
俄然興味をひかれた私が椅子から身を乗り出すようにして訊ねると、お婆様は懐かしそうに答えてくれます。
「彼の望み、いえ、契約の代償は私よ」
「……え? それはどういう?」
「ふふ、それはね……」
それから長く、しかし興味深いお婆様の若かりし日のお話が始まりました。