[第壱章]エピソード・エイト1/3 ―開幕、セイクリッド・ファンタジー―
「う……ん」
今まで感じたことがないほど、強烈に身体がダルかった。このダルさは、朝に起きたときに感じるものを、更に強くしたようなものだった。だから僕は二度寝をしようと布団を手探りし――ここで、違和感に気が付いた。
背中がゴツゴツする。嗅いだことのない臭いがする。生温かい風が肌にあたっている。風に揺られる水の音がする。どう考えても、僕の部屋にあるはずのない感覚が、僕の目覚めを誘う。僕は目を開ける。
そこに広がっていたのは――夢のような光景だった。
目の前に広がる、緑と青。見たことのない動物が草原を駆けまわり、空を見上げるとドラゴンが誇り高げに飛んでいる。
「ここは……異世界?」
まさか、いや、そんな……。突然の出来事に頭が追い付かない。混乱しすぎて頭がオーバーヒートしたのか、急に喉が渇いた。どこかに水道でもないかと歩き始めると、運の良いことにすぐに大きくて綺麗な泉を見つけられた。僕は一目散に泉に駆け寄り、そのまま泉に顔をつけた。
「ぷはぁっ、生き返る~!」
生水なんて飲んだことはなかったけど、コンビニで売っているミネラルウオーターなんかよりずっと美味しくてビックリした。
「ついでに、顔も洗っておくか……」
喉が潤って少し気持ちにゆとりが出来たのかもしれない。今度はゆっくりと泉に顔を近づけ――ぴたり、と僕は動きを止めた。いや、動けなかったのだ。
水面に浮かぶ自分の顔を見てしまったから。
揺れる水面には、漫画やアニメを見るたびにずっと夢見ていた、理想の姿が浮かんでいた。
僕はあまりの驚きに、飛び跳ねるように泉から身体を離した。そして、顔を始め全身をくまなく触りまくる。枯れ枝のような腕は適度に筋肉のついた腕に、水死体のように膨らんだお腹はシックスパックになっていた。
僕は再び、恐る恐る泉に顔を近付けた。見間違いだったのかもしれない、そんな僕の不安を――水面に浮かぶ顔は、否定してくれた。
「は……はは……はははは! や、やった、やったぞ! 僕は遂に夢を叶えたんだ! この世界、この姿、間違いない。僕は、僕は、あの腐った世界とは別の世界で生まれ変わったんだ!」
僕は喜びを隠しきれず、踊る心を抑えきれず、その場でジャンプした。
強い風の中、僕は先ほど空を飛んでいたドラゴンと目があった。ドラゴンは突然現れた僕に驚いたのだろう。僕の姿を見たドラゴンは、文字通り尻尾を巻いて逃げ出した。
……うん? 空を飛んでいるドラゴンと目があった?
僕はちらりと足元を覗く。すると、地上がとても小さく見えた。多分、二〇メートルくらい飛んでいる気がする。血の気が引くというのは、まさに今の僕の状態を指す言葉だろう。
「え? え、は? な、なんで僕こんなに高く……うああああ!」
自分の置かれた状況を理解したときには、既に落下が始まっていた。悲鳴をあげながらバタバタと藻掻くように手足を動かす僕の姿は、傍から見たら相当情けないだろうなと思った。命の危機にありながら、何故か達観したような気分になるのは、既に心の底では死を覚悟したからかもしれない。時間にしたら一瞬、しかし僕の中では永遠に誓い時間が流れ――遂に地面に激突した。
「あ、あいたた……」
僕は地面に激突した際に打った頭を擦りながら、立ち上がった。……ん?
「あれ……? なんともない?」
先ほどの同じように自分の身体をくまなく触りまくる。……なんともない。僕には医学知識なんてこれっぽっちもないけど、普通の人間は二〇メートルの高さから、それも頭から落ちたらグチャグチャになって死ぬんじゃないだろうか。だけど、この身体はグチャグチャになるどころか、擦り傷すらない。二〇メートルの高さから、何の受け身も取らず、頭から落ちても、無傷で済んだ。その事実は、僕に自信と確信を与えるのには十分すぎるものだった。
「はは、ただ身体が変わっただけじゃない、こんな超人的な力まで身に付いただなんて……ははは、ははは! すごいや、本当に夢みたいだ!」
僕はまたもや笑いを堪えきれず、柄にもなく興奮してしまった。だけど、これがどうして笑いを堪えられるものか! 僕は喉が枯れるまで、腹の底からずっと笑っていた。こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。
ようやく興奮から醒めた僕は、再びこの草原を歩き始めた。行く当てのない旅の始まりだけど、あれだけ超人的な力を手に入れたんだ、僕に不安は欠片もなかった。
そして、それから数時間ほど歩き、そろそろ休憩を取ろうとした矢先、それは起こった。
「きゃー!」
女性の悲鳴だ。僕は疲れた身体に鞭を打ち、声の元へと走って行った。
そこにいたのは、とても可愛らしい女の子だった。ピンクの髪をポニーテールにまとめ、白のワンピースを着た、清純という言葉がぴったりの女の子だった。
自分の理想がそのまま形になったような、そんな美少女に目を奪われていたが、はっと後ろから少女を追う異形の生物に気が付いた。
人間と同じように二本の手足を持つが、その皮膚は腐った土のような色をしていて、顔の半分を覆うほどの大きな鼻と、口から出ている大きな牙を見れば、あれが人間ではなく魔物であるということは一目瞭然だった。
「誰か、誰か助けて!」
女の子は息を切らしながら、絞り出すように助けを求める声をあげる。
少し前の僕なら、女の子のためとはいえ、あんな訳の分からない魔物に立ち向かうことなんて絶対にしなかっただろう。
だけど、今は違う。
生まれ変わった僕なら、女の子を助けるために戦えるんだ!
僕は足に力を入れ、思い切り地面を踏み抜いた。
すると、自分でも驚くほどの―まるで弾丸のような―スピードで、女のこと魔物の間に飛び込むことが出来た。
「え……」
背後で女の子の驚く声が聞こえるけれど、今は振り返る余裕はない。僕は拳を固め、自分を奮い立たせるために啖呵を切った。
「さあ、来い! 僕が相手だ!」
僕の啖呵を合図に、戦闘は始まった。
魔物の数は三匹。魔物たちは連携の取れた動きで、僕に接近する。たったそれだけの動きで、僕は早くも自分と魔物たちとの力の差を感じ取った。
「――遅いよ」
景気づけに、最も僕に近かった魔物をパンチで瞬殺する。あまりの脆さに、豆腐を殴ったような錯覚に陥ってしまった。拳が返り血で染まってしまったけど、戦闘ではよくあることだと、気にしないようにした。
「どうしたの? 早くかかってきなよ」
すっかり怯えてしまった二匹の魔物に、僕は返り血で染まった手で手招きをする。
すると二匹の魔物は怒り狂い、奇声をあげながら僕に突進してきた。その動きに、さっきのような連帯感はない。
(フン、あんな安っぽい挑発に乗るなんて、ザコめ)
二匹の魔物のあまりにも滑稽な姿に噴き出すのを我慢しながら、僕は再び拳を構えた。
一匹目の魔物が牙を向けてきた。僕はその牙を裏拳で粉砕し、もう片方の手で顔面を殴った。すると今度は魔物の顔が水風船のように破裂した。やれやれ、力を入れすぎてしまったようだ。力を調節するために肩を回すと、肘に何かが当たった。振り返ると、残りの一匹が、腹に穴が開いた状態で死んでいた。
「ふう、肩慣らしにもならなかったな」
生まれて初めて魔物と戦ったけど、余りに呆気なく終わってしまい、いまいち戦闘に勝利したという実感が生まれなかった。力が強すぎるというのも問題だな。
「あ、あの……!」
「ああ、大丈夫だった?」
「は、はい。ありがとうございました。貴方がいなければ、今頃私はゴブリンたちの餌になっていたと思います」
「へぇ、あれがゴブリンなんだ」
ゴブリンといえば、ゲームでは定番の雑魚モンスターだ。通りで、手ごたえがなかったはずだ。
「それにしても、とてもお強いんですね。私、ゴブリンをあんなに簡単に倒せる方って、初めて見ました。えっと……」
「あ、僕は田辺……」本名を名乗ろうとして、僕は考える。生まれ変わった僕に、あんなつまらない苗字など必要ない。「……いや、栄人。僕の名前は栄人」
「エイト様……エイト様! まあ、なんと素敵なお名前なんでしょう! あ、も、申し遅れました、私はエルフィーリア・イルヤスカン。町のみんなからはエルフィーと呼ばれています」
にっこりと笑うエルフィーに、僕はすっかり心を奪われた。でも、それを彼女に知られるのが恥ずかしかったから、僕は彼女にバレないよう精一杯表情を崩さないように気を付けた。
「あ、そうです!」何かを思いついたようにエルフィーはポンと両手を叩いて「エイトさん、これから私の家に来ませんか? 何かお礼をさせて欲しいんです!」
「お礼なんて、別に良いよ。当然のことをしたまでさ」
「それでは私の気が済まないんです。さあさあ、善は急げといいますよ、ね!」
エルフィーは僕の返事を聞かず、僕の手を引っ張って歩き始めた。最初はお淑やかな子だと思ったけど、この様子を見るに、実は活発な子なのかもしれない。
この出会いが、この世界の終わりの始まりだということを、このときの僕は知らなかった。