[最終章]世界は回る
「『拡大知覚』という言葉はご存知ですか?」
「……いえ、恥ずかしながら」
「専門家が言うには、超感覚的知覚、つまり超能力みたいなモノらしいです。通常の知覚が一つの『刺激』を一つの『情報』へと変換するのに対し、拡大知覚は理論上は一つの『刺激』を一〇の『情報』へ変換し、更にそこから一〇〇通りの『未来を予測する』ことが出来ると言われています」
「その拡大知覚とは、未来予知の一種だということですか?」
「『予知』ではなく『予測』です。でも、困ったことにこの拡大知覚っていうのは万能ではないんです。先程も言ったように、未来から情報を引き出す予知とは違い、飽くまで現在の情報から未来に起こるであろう結果を予測するだけですから、その精度は本人の情報処理能力に大きく左右されます。だから慣れない内は、得た情報を自分の都合の良いように解釈してしまい、ありもしない未来を予測することがあるんですよ。私も最初は、予測した未来が現実か妄想か判断するのに苦労しました」
十時二八分。
八建市に潜伏していたノープス真命会元幹部、岡峰あずさ容疑者他ノープス真命会構成員を逮捕。
警察によって保護された田辺栄人は、すぐさま八建市立総合病院に搬送された。
病院から十分ほど歩くと、八建湖の展望公園がある。悠馬は湖に面した柵に体重を預け、消沈しきった表情で揺れる水面を眺めていた。
「悠馬」
克己は痛切な面持ちで、親友の背中に語りかける。
「今、田辺栄人くんの死亡が確認された」
悠馬は重たくなった頭を、なんとか持ちあげる。
「……ご両親は?」
「まだ、姿が見えない。連絡が取れないんだ」
「救われねぇな……」
悠馬は、田辺栄人と対面した時の様子を思い出すように、天を仰いだ。
「あの時、アイツは確かに俺の言葉に応えたんだ」
「ああ。その時点では彼は生きていたからな」克己もまた悠馬と同じように視線を空に向ける。「そして、笑っていた」
あの時、悠馬は『ホープ』から田辺栄人を救出するのと同時に克己の電話番号を呼び出した。
それからの流れはあっという間であった。
悠馬からの着信をワンコールで取った克己は、すぐさま隣に控えていた歩智に、研究所への突入を署長に要請するよう指示。それから一分も経たぬ内に、署長から突入命令が下り、研究所周囲に待機していた警察官が一斉に行動を開始。電光石火の勢いで、岡峰あずさを含むノープス真命会のメンバーを確保したのだった。
克己が、田辺栄人と対面したのは、全ての決着が付いた直後であった。
一週間、何も口にすることなく機械に閉じ込められていたため、全身に皮疹が広がっており、また一切処理されていなかった排泄物による異臭に、克己は顔をしかめた。
だが、その全身状態の悲惨さとは裏腹に、田辺栄人の表情はとても安らかなものであった。その異様な光景に、克己を始めとする多くの警察官が生理的嫌悪感を抱いてしまった。
だからこそだろう。そんな田辺栄人の状態に脇目を振らず、ただ彼の無事を祈り呼びかける悠馬に、誰一人として声をかけることが出来なかった。
「悠馬、どうして私の忠告を無視して、単身で研究所に乗り込んだ?」
「そりゃ、『さがしや』の……」
「まさか、『さがしや』としてのプライドのために、あんな無茶なことをしでかしたとは言ってくれるなよ」
「……なんつーか、田辺栄人のことを調べてる内に、他人事じゃ思えなくなっちまった俺がいたんだよ。真弥さんの言葉を借りるんなら、俺と田辺栄人は本質が似た者同士だったのかもな」
「お前と田辺栄人くんが似ている?」
悠馬の独白にも似た言葉に克己は眉をひそめた。少なくとも、克己の知る悠馬と田辺栄人の間には、生い立ちから何まで共通点は一つもなかったはずだが。強いて言うならば、ゲームの好みが似ているくらいか。しかし、たったそれだけの共通点で「本質が似ている」という言葉は出てこないだろう。
「とはいえ、意気込んで乗り込んだものの、結局あいつを助けてやることは出来なかった。慣れることはするもんじゃねぇな……まったく」
あの時、悠馬は自分の声に応えた田辺栄人の瞳を確かに見た。僅かでもいい。あの瞬きの間の邂逅で、彼が何かを感じてくれたのなら、自分の行動に意味を持たせることが出来るのだが……悠馬は被りを振った。自己満足のために、田辺栄人を利用しようとする浅ましさに自己嫌悪した。
それから二人は言葉を交わすことなく、ただ八建湖を見つめていた。
着信音が静寂を破る。
それがどちらの携帯電話の着信音か悠馬が判断するよりも早く克己は電話を取った。
「……ああ、分かった。わざわざすまなかったな、犬飼くん」
「例の後輩ちゃんか。なんだって?」
「ご両親が到着したようだ。私は病院に戻るが、お前はどうする」
悠馬はしばらくの逡巡のあと、無言で首を横に振った。その資格がないと考えたからだ。克己は悠馬の心中を酌み、何も言わず――一度、悠馬の肩を叩いて――病院へと踵を返した。
八建警察署署長室に二人はいた。
「医師、先程はご連絡ありがとうございました。今、担当の者を向かわせましたので……ええ、はい、そうです、よろしくお願いします」
彼女は携帯電話を机に置くと、机を挟んで直立する副所長に視線を戻した。
「話を中断して、ごめんなさい」
「いいえ、お構いなく」
副所長は直立姿勢のまま言葉を返した。
副所長は岩のような男であった。田辺栄人の死亡報告を受けたときも微動だしなかった。その鉄仮面の下では、もうじき始まる記者会見に向け、田辺栄人の死を絡めた台本が練り上げられているだろうことを、彼女は察した。
「ところで、署長。先ほどの『拡大知覚』のことですが、署長は田辺栄人少年もそうであったとお考えなのですか?」
「考えている、ではなく、事実ですよ」署長は画像データを呼び出したパソコンのモニターを副署長に向けた。「病院から送られてきた彼の頭部CT画像です。見てください、前頭葉と頭頂葉が異常に肥大化しています。恐らく拘束されていた機械から特殊な電波を受け続けたことで、脳神経細胞が異常増殖した結果、こうなったのでしょう」
「つまり、田辺栄人少年は『死によって、自らの潜在能力を引き出す』というノープス真命会の教義の体現者となったということですね」
副所長は、ノープス真命会の矛盾した教義の犠牲になった田辺栄人に同情した。もっとも、それを顔に出すことはなかったが。
「せめて、彼が最後に見た夢が、彼にとって幸せなものであったことを祈ります」
そのために、『さがしや』を彼の元へと導いたのだから。
「さて、そろそろ記者会見のお時間です。今日ばかりは、署長も出て頂きますよ」
「やっぱり、出なくちゃダメですか?」
署長は不快感を隠そうともせず、顔を歪めた。
「当然です。就任式の欠席から始まり、今日まで一度たりとも、マスコミはおろか署員の前にすら顔を出さないなど前代未聞です。署長について尾ひれはひれの付いた噂が広まっていることをご存知ですか?」
「だって、正体を隠していた方が動きやすいですし……」
署長は、主人に叱られた犬のようにしゅんとした。
「とにかく、今回の記者会見には必ず出て頂きます。分かりましたね?」
「はぁーい」
犬飼歩智は、唇を尖らせながら、渋々と手を挙げた。
悠馬が投げた石が、湖に小さな飛沫を立てる。
克己から田辺栄人の死亡報告を聞いたとき、心に積もっていた後悔の念がすっと消えていき、肩の荷が降りた気がした。諦念が心を支配したのだ。
昔から、失敗したときはいつもこうだった。
どうしようもない無力感に襲われ、世界から否定されたような錯覚に陥る。恐らく、田辺栄人もそうだったのだろう。
(いっそのこと、この湖に飛び込んだら頭が冷えるかもな)
破滅的な選択が悠馬の頭を過った。しかし直後に、その行動の無意味さに思い至り、悠馬は自分の愚かさを鼻で笑った。
「悠馬さん」
その声は背後から聞こえた。思いふけていたところに声をかけられたため、悠馬は姿勢を崩し、危うく湖に落下しそうになった。柵を持つ両腕に力を込め、なんとか体を支えることに成功する。そして呼吸を整え、ようやく声のした方向へと振り向いた。
「真弥さん? 学校に行ったはずじゃ……」
ここに居るはずのない真弥の姿に、悠馬は目を丸くした。もしや学校が終わる時間になるまで思いふけていたのかと時計を見るが、時計は十三時五分を示していた。まだ、学校が終わるには少し早い時間だ。ならば何故、真弥がここに? 疲れた悠馬の頭では、現状把握が追い付かず、頭が真っ白になった。
混乱のあまり固まってしまった悠馬の緊張を解そうと、真弥は悠馬の手を優しく握りしめた。悠馬は真弥の体温が、握られた手から全身へと伝わっていくのを感じた。そして、少しばかり落ち着きを取り戻した悠馬は、改めて真弥の顔を見つめた。すると真弥は、ぺろりと舌を出した。
「実はわたし、早退してきたんです」
「そ、早退? どこか具合が悪いのか!?」
「いいえ、わたしは今日も元気いっぱいです」
「じゃあ、どうし……もしかして、俺のために?」
真弥はこくりと頷いた。そして、悠馬の腕を引っ張り、近くにあったベンチへと腰を下ろした。悠馬もそれに続く。
ぴゅう、と風が悠馬の頬を撫でた。
克己のときとは違い、沈黙に居心地の悪さを感じた悠馬が口を開こうとした。それに重なり真弥が喋り始めた。
「悠馬さん、お疲れ様でした」
「……疲れただけで、何も残せなかったけどな」
「わたしは、そうは思いません」真弥は悠馬に手を重ねると、彼の瞳を見据えた。「人のために傷付くことが出来る。わたしは、それはとても尊いことだと思います」
「でも、俺はあいつを救えなかった!」
悠馬は声を荒げて真弥の言葉を否定した。諦念によって消えたはずの後悔の念が、再び悠馬の心を蝕んだ。
「あいつの目を見たとき、分かったんだよ。あいつが本当に求めていたのは、賞賛ではなく、人の温もりなんだって。ただ、心の底から信頼し合える仲間が欲しかったんだ。……あいつは真弥さんに出会う前の俺だったんだ。自分が本当に必要としているものが分からなくて、力があればそれを見つけられると勘違いして、ただ強くなることだけを考えていた昔の俺と同じだったんだよ。……自分の本心に気付けないまま逝っちまうなんて、そんなのないだろ」
「悠馬さん、手を広げてください」
悠馬は首を傾げながらも、言われるがままに、真弥に右手を開いた。すると真弥はその手に方位輝石を乗せた。
「真弥さん、これは一体?」
「そのまま方位輝石を握ってください。これより、ペンデュラムの力を使用します」
真弥は、方位輝石を握る悠馬の右手を、両手で祈るように包み込む。二人の指の隙間から青色の光が漏れる。その眩い光に内側から押されるように二人が手を開くと、方位輝石は落下することなく、そのまま宙に留まった。そして、全方位に放たれていた光は収束し、一筋の光がまるで悠馬を導くように、空に、星に、宇宙に伸びていった。
悠馬の頭に、今は亡き田辺栄人の心が流れ込む。
彼は常に一人ぼっちであった。
元々、人付き合いが苦手であったことに加え、冷え切った家族関係によって、自分は誰からも愛されない存在だと思い違いをしてしまった。
始めは、そんな彼を不憫だと思い救いの手を差し伸べる人間もいた。
しかし、自らを孤独な存在だと思い込んだ田辺栄人は、その手に、あるはずのない悪意を見てしまい拒絶していった。
そんな人間を誰が好きになるだろうか。
結果、彼は本当に孤独になってしまった。
田辺栄人は、空想の中で全能感に浸ることで、孤独を忘れようとした。だが、それも叶わなかった。
田辺栄人が本当に欲していたものは、全能の力でもなければ、ただ自分だけを肯定してくれる美少女でもない。ただ、共に笑い合える友人だったのだ。それに自分で気付けずにいたからこそ、どれだけ妄想に浸かっても彼の心が癒えることがなかったのだ。
だが、八建科学研究所での悠馬との邂逅により、彼は最後に自分の心に向き合うことが出来た。
だから、彼は笑った。最後に自分の本心に気付かせてくれ、そして誰からも愛されないと思っていた自分のために力を尽くしてくれた青年に感謝を伝えるために。
―― あ り が と う ――
悠馬と真弥の指の隙間から零れる光が徐々に薄くなっていく。そして、光が消えたのと同時に悠馬の頬に涙が伝った。
「……そうか。あいつ、ちゃんと自分の心に気付けたんだな」
「はい。悠馬さんが田辺栄人さんを迎えに行かなければ、あの方は最後まで自分が本当に望んでいたものに気付けなかったでしょう。悠馬さんの行動は、無意味じゃなかったんですよ」
「ありがとな、真弥さん。でも、情けねぇな。真弥さんにペンデュラムの力を使わせてまで慰めてもらっちまうなんてな」
「気にしないでください。わたしたちは婚約者なんですから、助け合うのは当然じゃないですか」
悠馬は照れ臭くなり、真弥から顔を背け涙を拭い……その時、一つの疑問が彼の頭に生まれた。
(どうして、真弥さんが田辺栄人の死を知っている?)
田辺栄人が死亡したことを、悠馬は真弥に伝えていない。マスコミにも発表されていないので、真弥が彼の死を知る機会はないはずだ。
そもそも、彼女の行動の時系列がおかしい。
真弥は、田辺栄人の死について落ち込む悠馬を気遣い、この公園に来たという。
真弥の通う小学校から、この公園に来るまでには何本もバスを乗り継ぐ必要がある。
しかし、田辺栄人の死が確認されたのは、今から二十分ほど前だ。
田辺栄人の死を知り、早退の手続きを行い、悠馬の居場所を特定し、バスを乗り継ぎこの公園に向かう。これは、二十分で行えるスケジュールではない。
それに、先程のペンデュラムもそうだ。ペンデュラムは、物事の本質を探る力。当然、それは探るべき対象が現実に存在していなければ使えない。故に、死んだ田辺栄人の心を探ることは、いくら真弥でも不可能なのだ。
では今、真弥が悠馬に見せたビジョンは一体何なのか。
(方位輝石が放った青色の光。あれは真弥さんが田辺栄人の本質を探った時と同じ光だ。あのあと真弥さんは力が暴走して、危うく田辺栄人の心に呑み込まれかけた……まさか)
悠馬は、ある仮説に思い至った。だが、その恐ろしい内容に悠馬は首筋に刃物を押し付けられたような錯覚に陥った。
(もしかして、あのとき真弥さんは田辺栄人の未来まで探し当ててしまったんじゃないか。……真弥さんは、田辺栄人が死ぬことを知っていたんじゃないか?)
過去と現在の事象を把握することで、未来は予測できる。
真弥は、ペンデュラムの力により、ノープス真命会と田辺栄人の本質を知った。つまり、この二つの過去と現在の事象を把握したのだ。その精度の高さは、ノープス真命会の拠点を割り出した事実が証明している。
(今朝の真弥さんの取り乱し様。あれは、田辺栄人の心に呑まれかけていたからだけじゃない。田辺栄人の未来を知っちまったから、必死になったんだ)悠馬は気付かれないように真弥を横目で見る。(あのビジョンは、昨日、真弥さんが見たもので間違いない。ってことは、俺が研究所に行くことも、そこであいつを救えなかったことに悔いることも、真弥さんは全部分かってたってのか)
「悠馬さん、凄い汗ですけど、大丈夫ですか?」
真弥は心配そうな面持ちで、悠馬にハンカチを手渡した。悠馬は、誤魔化すように受け取ったハンカチで大袈裟に額を拭った。
「あ、ああ、今になって緊張の糸が切れちまったのかもな」
「ふふ、本当にお疲れ様でした、悠馬さん」
真弥は悠馬を労うように、彼にニコリと微笑んだ。
しかし、その瞳が『いつ』の自分を見ているのか、悠馬には分からなかった。
ノープス真命会のメンバーの逮捕と、田辺栄人の死から五日が過ぎていた。
かつて日本中を震撼させたカルト教団と、その犠牲になった悲劇の少年という物語性の高い話題は、瞬く間に世間を賑わせた。しかし、有名芸能人のスキャンダルが発覚すると、人々の興味はそちらに映り、今では彼らの話題を口にするものは殆どいなかった。
「ノープス真命会がこの町に居たって知ったときは倒れるかと思ったけど、捕まって本当に良かったわぁ」
『さがしや』事務所で、真弥に心底安心した様子で話しているのは、谷林伸子だった。悠馬からは『クレームババア』と煙たがられているほど彼女であるが、真弥の前であの苛烈さを見せることはない。というよりも、今の様子こそが彼女の本来の姿であるのだ。
「実は私ね、一〇年前に高校生だった息子をノープス真命会に殺されているのよ。もし、息子が生きていたら、丁度、悠馬くんくらいの歳になるのよね」
「それが、悠馬さんを気にされる理由だったのですか?」
「死んだ子の歳を数えても仕方ないんだけどね。でも、どうしても息子の姿を彼に重ねてしまってねぇ……」
「……悠馬さんは、あげませんよ?」
「あはは! 悠馬くんは幸せ者だねぇ。大丈夫、大丈夫。ウチにはどうしようもないグータラ亭主がいるからさ」
その後も二人は次々と話題の変えながら話を弾ませた。そして、手持ちの話題の底が見え始めたことで、会話のペースが落ちてきたとき、伸子はふとある事を思い出し、手を叩いた。
「そうそう、田辺栄人くんのご両親のこと、知りたがっていたでしょう?」
真弥は強く頷きながら、身を乗り出す。しかし、その表情は不安に満ちていた。家族関係が冷え切っていたとはいえ、実の子を亡くしたのだ。田辺栄人の両親がどれほどの悲しみを味わったか、想像に難くない。依頼とは関係のない人間にペンデュラムの力は使えないため、真弥は伸子に彼らの様子を探るようお願いしていたのだ。
「それがねぇ、全然平気そう……というか、むしろ前より元気になっているのよ」
「え?」
予想だにしない答えに、真弥は驚きを隠せなかった。
「あの夫婦の仲は近所でも有名だったのよ。いつ離婚するかなんて話で盛り上がっていた時期もあったんだけど、それが今じゃ二人とも別人のように仲睦まじくてねぇ。近所の人たちに心配をかけないよう、空元気を使っているのかもね」
「そうなのでしょうか……」
二人は揃って不思議そうに首を傾げた。
田辺夫婦の関係修復の本当の理由が、息子を失った悲劇の親として世間に注目されたことだということは、二人が知る由もなかった。
「真弥さん、帰ったぞー」
「お帰りなさい、悠馬さん」
真弥は掃除の手を止め、ぱたぱたと悠馬の元へと駆け寄った。
「先程まで、おばさまがいらっしゃっていたんですよ」
「げ、あのクレームババア、また来てたのか。真弥さん、何もされなかったか?」
「もう、悠馬さん。そういう言い方はやめるよう、約束したじゃないですか」
「あー、悪い悪い。コンゴハキヲツケマス」
まったく誠意のない謝罪に、真弥は困ったようにため息を付いた。優しい悠馬のことだ。伸子の本心を知れば、彼女への態度を改めるだろうが、伸子の方が本心を明かす気がない以上、悠馬が彼女の本心に気付くのは、夢のまた夢だろう。
「ところで聞いてくれよ、真弥さん。克己のヤツ、今すげーことになってるんだよ」
悠馬は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「凄いこと、ですか?」
「あいつ、少し前から後輩の指導役を任されてたんだけどよ。その後輩が、なんと八建警察署の署長だったんだよ。なんでも正体を隠して一警察官として振るまっていたんだってよ」
「まあ」
「それを知った署員はてんやわんやの大騒ぎ。特に指導役だった克己は、出世に響くとかどうとかで、ここ数日ロクに眠れてないんだとさ」
悠馬はここに居ない克己の姿を想像し、からからと笑った。その姿に、先日の陰りは見えなかった。この五日間で気持ちの整理を付けたようだ。
悠馬が掛け時計を確認すると、二本の針は六時を示していた。
「おっと、もうこんな時間か。真弥さん。今日の夕飯はどうする?」
「あ、わたし、久しぶりにオムライスが食べたいです!」
「了解だ。腕によりをかけて作るから、楽しみにしてくれよな」
「やった! あ、では宿題をしてきますね!」
真弥は鼻歌を歌いながら、軽い足取りで自室へと向かった。真弥の日常もこの五日間で元に戻り始めていた。
悠馬は、ちらりと仕事机に視線を向けた。そこには「いつまでも過ぎたことに心を痛めている暇はないぞ」と言わんばかりの量の書類が山積みにされていた。全て、次の依頼に必要な資料であった。
あの事件の翌日、休むも間もなく二人の元へ次の依頼が舞い込んできた。しかも、今度の依頼は今までの依頼とは比べ物にならないほど大きな依頼であった。そのため悠馬は連日、依頼の準備に追われていた。
田辺栄人がいなくても、世界は変わらず回る。
そんな冷たい世界で、悠馬と真弥は今日も生きて行く。
そこにある確かな人の温もりを二人は知っているからだ。
悠馬はワインレッドのシャツの袖をまくり、頭を切り替える。
ひとまず、次の依頼のことは忘れよう。今から取り掛かるミッションは、片手間に遂行出来るものではない。
「さーて、待ってろよ、真弥さん。最高のオムライスをご馳走してやるからな!」
そして、今日も『さがしや』の一日が終わろうとしていた。