[序章1/2]田辺栄人の場合
びゅうびゅうと肌を刺す風が夜の街を泳ぐ。春が終わり、夏が近づき始めた時期であるが、まだもう少し夜の冷え込みは続きそうだ。
だというのに、田辺栄人は何の防寒対策もせず、黒色のTシャツ―胸元に大きな白文字で大した意味の込められていない英文が綴られている―に、黒色のデニム―両膝の部分には自分で切って作った穴がある―という簡素な服装でいた。案の定、田辺栄人の腕には鳥肌が立っていた。
今年で十四歳を迎えた田辺栄人は、幼いながらも既に社会に対して失望していた。
毎朝、父親の横で仕方なく見ているニュースには、芸能人のスキャンダルから政治家の汚職事件まで、社会の醜さが凝縮されて流されている。学校に行くと、知性が欠如した姿をした女子生徒が耳障りな声で、やれアイドルグループだ、やれサッカー部のキャプテンだのと、見た目通り頭の悪い会話をしている。当然、男子生徒も似たようなものだ。そんな連中に染まりたくない田辺栄人は、休憩時間になると決まって机に伏して寝たフリをするか、意味もなく校内をうろつくことにしていた。放課後になると、田辺栄人は寄り道をすることなく真っ直ぐと自分の家、正しくは自分の部屋に帰る。部活動なんて将来に何の役にも立たないことをする時間など、彼にはなかったのだ。部屋に帰ると、お気に入りの黒色のTシャツに着替え、最近ハマり始めた洋楽を大音量で流す。そして本棚に隠したノートを取り出してから机に座り、いつもの創作を始める。これが、田辺栄人の一日のスケジュールであった。
思えばくだらない人生だったな、と田辺栄人は悟ったように鼻で笑った。
つまらない両親を持ってしまい、つまらない環境に押し込められ、つまらない日々を送らされた。魔法や超能力も使えず、アニメや漫画の主人公、もしくはテレビに映る人間たちのような刺激に満ちた人生を送ることを許されなかった自分は、ただただ不幸であった。
だから、この世界と決別することを誓った。
自分は今日ここで身を投げる。しかし、それは彼の計画の始まりだった。
自分が死んだことで、明日からこの世界は騒がしくなるはずだ。
そうした世界の喧騒を尻目に、自分は生まれ変わるのだ。そう、今度こそ刺激で満ち溢れた日常を持つヒーローへと。
田辺栄人は、マンションの屋上から地上を見降ろしていた。こんなクソのような社会に何の疑問も持たずに生きて行く人々に嘲笑と、少しばかりの同情を送った。
屋上に来てから、二〇分ばかりの時間が過ぎた。自問自答を繰り返し、ようやく転落防止用のフェンスを掴むが、そこで田辺栄人は、震える自分の手を見てしまった。どうやら、まだこの世界に未練があるらしい。深呼吸を繰り返し、そっとフェンスから手を離した、そのとき、背後から「待って!」と女性の声が聞こえた。
数秒の思考のあと、それが自分に向けられたものだと理解した田辺栄人は声の方向へと、足元に広がる地上から目をそらすように振り向いた。
そこに居た女性は――美しかった。
「田辺栄人くん、でしょう?」
妙齢の女性が、息を切らしながら自分の名前を呼ぶ。それだけで田辺栄人の心は、すっかり彼女に奪われてしまった。
「お願い、早まらないで。……私の話を聞いてほしいの」
本当は既に身を投げ出す考えは消えていたが、田辺栄人は敢えて黙って頷いた。
「ありがとう……」
田辺栄人は自分の心臓が鷲掴みにされたような錯覚に陥った。自分の行動で、女性が笑顔になることが、こんなにも嬉しいことなのか!
女性はおもむろに乱れた息と髪を整えながら、田辺栄人の瞳に話しかけた。
「挨拶が遅れてごめんなさい。私は岡峰あずさ。誤解を覚悟で言わせてもらうけど、私はずっと貴方のことを見ていたの」
「ぼ、僕のことを?」
どうして、と問いたかったが、あまりの緊張に言葉が続かなかった。しかし、岡峰あずさと名乗った女性はそれを察し、田辺栄人の無言の問いに答えた。
「私は、ある組織に所属しているの。そして……ここからが本題なのだけれど、私は今、ある研究を行っているの。その研究に、どうしても貴方の力が必要なの」
「僕の、力が? ど、どうして?」
今度は、言えた。
「それは、貴方の『夢』が、私の研究のテーマだからよ」
田辺栄人は、衝撃を受けた。
自分の夢。それは、この腐った世界と決別すること。それは、誰にも理解出来るはずがないと思っていたこと。それは――
「僕が、生まれ変われるんですか!?」
岡峰あずさは、微笑みながら頷いた。
「田辺栄人くん。貴方ほどの男が、こんなつまらない世界に殺されるなんて勿体ないわ。どうせこの世界を見限るのなら……貴方に相応しい世界に行ってみない?」
田辺栄人は今度こそ何の逡巡もなく、岡峰あずさから差し出された手を取った。
これから、新しい人生が始まる。
突然降ってきた非日常に胸を弾ませながら、ふと振り向いた。
地上には、無数の光が輝いている。この腐った世界で、いつもと変わらぬ日常しか送れない人々に嘲笑と、少しばかりの同情を送った。
それから、どれだけの時間が流れただろうか。
田辺栄人は、暗闇の中で光を探し出すように、ゆっくりと瞼を開いた。
田辺栄人の前に広がっていた光景は、彼が長年夢見た異世界のそれであった。