招待状(4)
二人分の足音が、狭い路地裏の中で響く。
夕方になり、陽も沈み始めた今、路地裏は薄闇に包まれていた。
「念の為にお尋ねしますが、この件については誰にも言っていませんね?」
フィリスが足を止め、宗弌に振り返って言う。
ほんの数分前までの挙動不審な態度も、今では落ち着きを取り戻したらしい。
「あ、はい。他言無用と書いてあったので、誰にも伝えていません」
招待状には、ここに記されていることは他言無用と注釈が入っていた。例外として豪太には話してしまったが、同じ境遇なので大丈夫だろう。というか、あれは状況的に仕方ない。
「正確には、テスターが正体を晒してもいいのは同じテスターのみとなります。一般人が異世界を認識するにはまだ時期が早いですし、現地側の人間が異世界人だからといって通常とは違う対応をされても困りますしね」
後者の方は、実際に異世界へ訪れた際のことだ。
正体を晒すと言っても、「俺、実は異世界のテスターに選ばれたんだぜ!」なんて荒唐無稽なことを言ったところで、誰も信じてはくれないだろう。それどころか、頭の異常と見なされて病院に連れて行かれるかもしれない。
黙っていた方がこちらにとっても都合がいい。
と、ここでふと宗弌は考える。今までの話だと、まるでテスターがこちらの世界からのみ選ばれているようにも聞こえるが、近い将来起こる大混乱はこちらの世界の住人も被害者となりうるのだ。ならば、こちらから異世界、という一方的な流れはおかしい。
「もしかして、こちらの世界にもテスターがいるんですか?」
「察しが良いですね。勿論、こちらの世界にも異世界人が紛れ込んでいます。彼らもまた、御嵩さん同様にテスターとして選ばれた者です」
宗弌の予想は正しかった。秘密裏に互いの世界の住人をテスターとして招き入れている。それがこの世界と異世界の今の関係なのだ。
全く気がつかなかった。普段の有り触れた日常生活の中で、まさか異世界人が紛れ込んでいるなんて思いもしなかった。それほどまでに、この計画は厳重に内密とされているのだ。
「さて、ここが目的地です」
フィリスが路地裏の端により、宗弌に向かって言う。
成人男性の半身分見通しの良くなったその光景に、宗弌は面食らった。
「……何も、ないんですが」
それどころか、ここは路地裏の終着点ですらない。ただの狭い道だ。
「そう、一般人には決して見えないもの。しかし今、私の隣には確かに扉が存在します。知らない者には見えない扉、それが二つの世界を繋ぐ特異点です」
まるで馬鹿には見えない服があると言われているようだった。だが、小一時間前から理解を超える話を延々と聞かされた今の宗弌は、その服の存在すら認めてしまうほどに理解力が麻痺している。見えないけれど、あると言うのだからきっとあるのだろう……。
「さあ、ではこちらへどうぞ」
フィリスが宗弌には見えない扉を開ける。宗弌の目には、フィリスがプロのパントマイム師お手上げの演技をしているようにしか見えなかった。
手招きされ、宗弌は足を前に進める。
一歩、一歩と歩んでいくその途中。妙な違和感を覚えた。
目の前に、透明な膜のような存在を感じた。薄い玻璃が遮っているような、それでいて手を伸ばせばシャボン玉のように弾けてしまいそうな脆い膜。簡単にすり抜けられそうな、しかし明らかに何かと何かの狭間にある境界。
無意識に、宗弌は足を一歩前に進めた。
つま先から、自分の居場所が切り替わる奇妙な感覚。
膝、腕、太腿……そして身体全体が、透明な膜を超える。
一瞬の眩い光に目を塞いだ宗弌が次に見た光景は――
「…………」
草木が繁栄した大自然。踏みしめる大地は茂る緑に覆われて、目の前には遥か先へと連なる木々が幾重にも重なって見える。周囲は薄暗く、今は夜なのかと上を仰ぎ見れば、無数の枝葉が形作った天蓋がここら一帯を覆っていた。その合間から微かに溢れる白い光が額を照らす。
おとぎ話の魔女が好みそうな、人が好んで寄り付きそうにない深い森。
安全を保障されていない、本物の大自然がそこはあった。
ここが――異世界。
「……はっ!?」
人間、本気で驚くと息すら忘れてしまうらしい。
慌てて咳き込みながら息をする。濃い緑の匂いと、僅かな土の香りが鼻腔を刺激した。
「ようこそ、異世界テスティアへ」
背後から聞こえるフィリスの声に振り返った宗弌は、白く、円形の幾何学模様が浮かんでいるのを見た。煌々と輝くその円は、中心に先程まで宗弌が立っていた路地裏を映し出す。
フィリスの言っていた扉だ。これが世界を繋ぐ境界の正体なのだ。
「これであなたは異世界を知りました。以降、その瞳は扉を認識するようになるでしょう」
扉である円形の陣が、その中心を濁し始めた。フィリスがこちらに歩み寄り、宗弌の隣に立つ頃には、何も映っていないただの白い円になる。
「すっげぇ……」
正直、半信半疑なところが多かった。
しかし、実際に目で見て耳で聞いて鼻で臭えば、その認識も変わる。頬を抓ると、当たり前のように痛みを感じた。足元の草木に触れると、ひんやりとした感触があった。
本当だったんだ。本当に、ここは異世界なんだ……。
抑えきれない興奮が、濁流となって湧き上がる。自分がここまで非日常に憧憬していたなんて、今初めて知った事実だ。子供のようなキラキラとした瞳で、宗弌はあちこちを見渡す。
「では、一先ず移動しましょうか」
落ち着きのない宗弌に埒があかないと判断したのか、フィリスが大きめの声量で言った。
先導するフィリスに従い、宗弌はキョロキョロと首を動かしながら着いていく。
「どこに向かってるんですか?」
「最寄りの都市です」
「都市?」
当然のことながら、宗弌とてこの森が異世界の全てだとは思っていない。
辺り一面を見渡して分かったが、倒れた植物や意図的に折られた枝など、あちこちに人が通った痕跡が残っている。この場は通過点でしかないらしい。
「ええ。特異点……つまり先程の扉のあった場所ですが、それがあるこの森と最寄りの都市は結構離れていますので、移動手段の確保やその他の事前準備を行うためにも、簡単な手続きを済ませようというわけです。毎回扉を通ってから要請するのは時間がかかりますので」
宗弌が子供の頃に見ていたアニメの中に、行きたい場所へ自由に行くことのできる「どこへでもドア」なる扉が存在したのだが、どうやら異世界への扉はそこまで融通の効くものではないらしい。出入り口が完全に固定されているようだ。
「移動手段の確保もそうですが、事前準備っていうのはどんなことをするんですか?」
「そうですね……危険性の排除とかでしょうか。移動手段は行ってみれば分かりますよ」
バイオレンスなことを聞いた気がした。考えてみれば、ここは大自然の一角。宗弌のいた世界なら、獰猛な野生動物が襲ってきてもおかしくはない。一向に自分たち以外の動く気配を感じないのは、その事前準備とやらが今回は行われているからだろう。
「この道を真っ直ぐ進めば小屋があります。そこにいる鎧を着た人に招待状を見せれば、引き続き案内を行ってくれますので」
「フィリスさんは?」
「他の任も受け持っていますので、そちらに回ります。では、どうかお元気で」
「あ、はい。案内ありがとうございました」
笑顔で来た道を戻るフィリス。丁寧な説明とここまでの案内をしてくれた上に、まだ他の仕事があるらしい。仕事に追われる大人の姿は、どちらの世界でも同じようだ。
コンクリートで舗装された道ではなく、土で固められただけの道を歩く。
道があるとは言え、街灯も無ければ人々の話し声も聞こえない。高度な文明の中を生きてきた宗弌にとって、静けさと薄暗さが相まったこの森は不気味だった。フィリスの言うとおりだと、今後もこの道を通ることになる。慣れていくしかない。
道に沿って歩いていたら、その脇に小屋が見つかった。小屋というには規模が大きく、薄闇を照らす光が窓から漏れている。小屋の隣には薙ぎ倒された木々が転がっており、何やら荷車のような車体が幾つか格納されていた。
「お、やっと来たか宗弌!」
宗弌が小屋の扉を開くと、真っ先に聞き慣れた声が飛んで来た。
「豪太もここに案内されたんだな」
小屋の中には宗弌と豪太の他にも、十人近く人数がいる。フィリスのようにスーツを纏った成人男性や、三十路を超えた女性。小学生らしき子供や大学生らしき青年、老人までもいた。彼らも宗弌と同じように、異世界に招待されたようだ。
その中に、銀甲冑を纏った赤髪の若い女性がいた。鎧というには軽装で、上半身は肩と肘と胸、下半身は膝しか守っていない。その下には髪と同じ赤い外套と、動物の毛皮で作ったらしい茶色のズボンが見える。ただの革鎧にしては高潔だ。
「すまない、君は異世界人だな?」
赤髪の女性が宗弌に声をかける。
宗弌は頷きながら、制服のポケットから招待状を取り出した。
「ふむ、確認した。御嵩宗弌、と言うのだな。私はレイチェル・カーミナーと言う。これから暫くは顔を合わせるだろうから、覚えてくれれば幸いだ」
レイチェルが招待状を見ながら言う。はっきりとした口調に、人の目を見て逸らさないその瞳。頼もしく、強かな女性だと宗弌はレイチェルに印象を抱いた。
「ところで、君の案内人はどうした?」
フィリスのことを聞かれていると知り、宗弌は口を開いた。
「道に出てすぐ、他の仕事と言って別れました」
「こちらに顔を見せてから去る決まりだが……誰だか知らんが、無責任なやつだ」
あの丁寧な物腰のフィリスが、責務を放棄するような人柄には思えない。何か事情があったのだろうか。宗弌は「はぁ」と適当に相槌を打って、渡した招待状を受け取ろうとする。
「……ん? 何だこの文字は」
レイチェルが招待状を目元まで持っていく。彼女が見つめるのは、炙り出しのように浮かび出た、宗弌の妹が記したメッセージの部分だ。
「妹が書いたみたいです。最初は空白で何も書かれていませんでした」
一応、宗弌の口からも説明しておく。
その時、豪太が座っていた椅子から跳ぶように立ち上がった。
「そ、宗弌! お前、妹見つかったのか!?」
「見つかったと言っても、この世界のどこかって話だけどな」
それでも宗弌は嬉しそうに話す。豪太もまた、喜びに満ちた笑みを浮かべた。
妹を一緒に探してくれた人の中でも特に、豪太は協力的だった。宗弌が深く落ち込んでいたときには、懸命に励ましてくれたこともある。あの馬鹿がどこにいるかは知らねぇが、見つけたら豪太に顔を見せないとな、と宗弌は密かに決心した。
「詳しい事情は知らないが、二人は御嵩殿の妹を探しているんだな。よし、暇があれば私も捜索に協力しよう」
「あ、ありがとうございます」
唐突な協力発言に、宗弌は少し驚いて礼をする。レイチェルは頼もしく真剣な表情で、宗弌の妹が記したメッセージを一文一文読んでいった。
ふと、レイチェルの瞳が一点に留まる。
「お、御嵩……彩莉……だと?」
わなわなと震え、レイチェルは明らかに動揺していた。数時間前、宗弌がフィリスに御嵩彩莉の名を告げたときと同じような反応だ。
「そうか……いや、聞き覚えがあるとは思っていたが、これで納得した。君は、あの御嵩彩莉の兄で間違いないんだな?」
「は、はい。そうですけど……」
あのって何だよ、あのって。
妹の名を不穏に呼ぶレイチェルに、宗弌は不安を抱いた。あの妹の成すことは自分でも想像がつかない。天真爛漫の域を超えたその行動は、宗弌もかつて苦しんだことだ。
「どうにかして、あのじゃじゃ馬娘の手綱を握って貰わないと……いや、しかし立場上の問題が……」
先程までの頼もしさはどこに行ったのか。レイチェルは色を失った瞳で招待状から目を離さない。時折聞こえてくる独り言は、宗弌には意味が分からなかった。
「その……何と言えばいいのか。彩莉殿はこちらの世界では一部で有名なんだ。しかし、彼女については知っているのだが、居場所となると力になれそうにない。何分、一箇所に留まる性格ではないと言うか……多分、国内だとは思うんだが……」
「い、いえ。それだけで十分です。ありがとうございます」
額に手を当て、深く嘆息するレイチェル。良く分からないが、深く追求するのは止めるべきだと宗弌は判断した。元々、そう簡単に見つかるとは思っていない。
とは言え、流石に不安になってきた宗弌。一体、何をやらかせばこんな反応をされるのか。
隣の豪太を見ると、何故か納得したような顔でうんうんと頷いていた。
「彩莉ちゃんも、宗弌の妹ってことだよ……」
「どういう意味だ」
まるで「その苦しみは俺にも良く分かるぜ、だって俺も日々経験してるからな」とでも言いたげだ。その全てを悟ったような瞳に、どういうわけか宗弌は腹が立った。
暫く取り乱したレイチェルは、周りの視線に気づいて態とらしく咳をする。誤魔化し方が完全にフィリスと同じだ。異世界ではこれが共通なのだろうか、と宗弌は口の中だけで呟く。
「それでは、これより都市に向かう準備をする。全員、着いて来てくれ」
半開きの小屋の扉を開き、レイチェルが出て行った。
そしてそのまま小屋の裏側に回り、荷車の格納庫へ入る。外で待つ宗弌たちにレイチェルが中から引いてきたのは、丁度この場の全員が入れそうな大きな車体だった。薄い布でできた屋根があり、レイチェルが一歩進む度にゴトンと揺れる音がする。
女の腕で引けるものではない。見かけに寄らず車体が軽いのか、或いはレイチェルが怪力なのか。心優しい青年がレイチェルを手伝おうとしたが、あっさりと断られて戻ってきた。
汗一つ掻かずに車体を引くレイチェル。それを道のすぐ傍にまで持っていき、
「ふむ、この大きさだと……コックポゥンか」
などと口にして再び小屋の裏へと回る。
また何か持ってくるのか。身構える一同。そして現れたのが――
『ブモォォォォォ――!』
でっかい、牛だった。
「「牛ぃぃぃーーーー!」」
この中でも特に年齢層が低い二人の子供が、一目散に牛らしき動物に駆け寄った。しかし、牛にしては大きすぎる。四本足に細長い尻尾という特徴は同じだが、その毛むくじゃらの体躯は象と同じがそれ以上の大きさだった。
よじ登ったり、蹴飛ばしたりして牛(?)と戯れる子供。
その一方で、宗弌たちは茫然と立ち尽くしていた。
「コックポゥンという魔物だ。今回はこの子に車体を引かせて都市まで行こうと思っている。なあに、安心しろ。温厚な性格ゆえ、少し騒がしくしたところで問題ない」
宗弌の隣で、豪太が挙手をして発言する。
「あの、魔物って何ですか?」
「そちらの世界で言う動物と同じようなものだ」
創作物によく出てくる単語だ。
慣れた手つきで車体とコックポゥンと呼ばれた魔物を連結させるレイチェル。魔物の巨躯は一度たりとも抵抗を見せず、大人しくレイチェルの作業が終わるのを待っていた。
「では、行こうか。目指すは王都ラスカスだ」