人間万事塞翁が馬(3)(4)
豪太の才能が開花したその日の夜、宗弌は一人図書室に篭っていた。
最終的に昼を挟んで半日中は常に訓練場にいた一日は、宗弌にとっても相当疲弊を味あわせるスケジュールだった。痛いし怠いし、豪太たちと同じように眠れば良かったとも思う。
この一室に時計がないことは確認済みだから、区切りが良くなったらさっさと帰ろう。
「……と、思ってたけど。そんな暇ねぇな」
黒兎に続き、豪太も才能を入手した。取り残されたのは自分だ。現状、宗弌だけがテスティアの神秘を手に入れていない。二人と距離が開いているのは明白な事実だった。
「才能が手に入らないことも考慮して、先に技巧に手を出すべきか……」
だが、それにはリスクがある。技巧を会得した人間は、才能を必要とする場面に出くわしにくい。困難な逆境でも才能ではなく予め会得した技巧が解決してしまうからだ。
考えが早計か。しかし、差を縮めるにはこれしかない。だが、それだと最終的にはまた差が広がるのではないか? 自力で見つからない問が次々と浮かぶ。
「まだ寝ていないのか?」
どのくらい時間が経ったのだろう。気が付けば本を読むことに没頭していた宗弌は、唐突に背後から掛けられた声に「はっ!?」と声を上げる。
「勤勉なのは構わんが、身体は大切にな」
一周回って眠気が消え去ったのか、今はやけに頭が冴えている。レイチェルの言葉を心に仕舞い込んだ宗弌は、丁度良いと思い、今の自分の悩みを彼女に打ち明けることにした。
「あの、レイ先生。少し相談があるのですが」
「ふむ。可愛い生徒のためだ、何だって聞いてやる」
できれば聞くだけでなく答えでも欲しいが……なんて下らないことを言っている場合ではない。手元に乱雑に置かれた本を整理し、机に腕を置いて口を開く。
「今の内に、技巧を学んでも良いでしょうか?」
その一言で心情を察してくれたのか、レイチェルは暫し間を開けて、言う。
「才能の開花を待つことはできないのか?」
「待てます……が、待ちたくないです。これ以上、差が広がるのは……」
耐え切れない。その一言は口には出さなかったが、多分気づかれただろう。
「……よし、分かった。なら私はこれから君に、一つの技巧を教えよう」
思わぬ返答に宗弌は嬉しさ半分、驚き半分といった具合に顔を染める。
「迷宮探索の際に必須と呼ばれる技巧だ。以前、君たちに見せたものでもある」
机の上から技巧辞典を取り、レイチェルは目当てのページを開いて宗弌に見せる。そこに書かれているのは灯火の技巧。見学の時、彼女が指先に灯した炎の神秘だ。
「基本技巧だからな。神素の扱いもそれほど難しくない、試しにやってみろ」
神素とは、この世界の神秘を引き起こすために必要な燃料だ。ゲームに例えれば、マジックポイントやスキルポイントなどが近い。超自然的なエネルギーといったところだ。
不可視の粒子を指先一点に集中させるイメージを練る。すると、指先に仄かな熱を感じた。
血流が集中したような奇妙な感覚に、宗弌は神素が集う手応えを憶える。
「――《灯火》」
脳内で練り上げた炎がそのまま現実に転写される。小さく、音すら立てない炎は、数時間前に見た豪太の才能と比べると明らかに劣るものの、宗弌の胸を占めるのは感動だった。
「……すげぇ」
初めて使用したテスティアの神秘――技巧に、全身から興奮が湧き上がる。火薬も、摩擦も使っていない、神秘とか言い様のない目の前の現象。それを引き起こしたのは紛れもない自分だ。疲労感が吹き飛び、叫び踊りたい気分になる。
「おめでとう。これでテスティアの神秘を一つ、学んだな」
「はい。ありがとうございます!」
「なら今日はもう寝ることだ。技巧だって無尽蔵に使えるわけではないぞ」
「あ、いや。その前にもう一つだけお願いします!」
図書室から出ようとするレイチェルを、宗弌は立ち上がって制止する。昂揚した気分を落ち着かせるために軽く深呼吸し、続けざまに声を発した。
「レイ先生が今日見せたあの壁みたいな技、教えて下さい」
豪太の才能から宗弌を守った、あの真紅の壁。実際にこの目で見たからか、今は技巧辞典に書かれたどの技巧よりもあの壁を使ってみたかった。
「障壁の技巧か。構わないが、あれは術式改編を学ばないと効果が十全に発揮されないぞ?」
「じゃあ、その術式改編ってのも教えて下さい」
図々しさとかはもう考えないようにする。今はどれだけ貪欲に知識を取り込めるかだ。
そうでもしないと、才能持ちのあの二人に差を開かれてしまう。
「分かった。だがその代わりに、無茶はしないと約束してくれ」
「……分かりました」
不自然な間を置いて返答した宗弌に、レイチェルは暫し黙り込んだ。
その時の彼女の視線は、どうして鋭かったのか。それは疑うというよりも、頑なに姿勢を変えない子供に対して苛立ちを覚えているようであったが……宗弌は、気付かなかった。
◆
アスティアでの生活も、残り三日となった。
それまで何をしていたかと言えば、ひたすら訓練場で模擬戦である。時折他の教室の生徒と交代することもあったが、その時は庭で基礎トレーニングだ。その度に黒兎は嫌そうな顔をするが、最近は張り合う意思が芽生えてきたのか、あまり弱音を吐くことはなくなった。
朝食と夕食だけは施設内の全員が一度に行うため、同じ学園の初等部を受験する亮と雪の話も聞くことができる。年の差もあってか、二人は基礎トレーニングが中心らしく、いつも庭で走り回っているらしい。亮が「宮月兄ちゃんには勝てそうだな」と言っていたことは記憶に新しい。思えば黒兎がそう簡単にへこたれなくなったのはあれ以降だ。
本日もまた、ここ数日と同じく訓練場で模擬戦が行われる。
今は豪太と黒兎が、レイチェルの部下である男性騎士と戦っていた。
「だ、か、ら! 雁内殿、頼むから炎を制御してくれ! 模擬戦で人殺しは犯罪だぞ!」
「すみません本当もうすみません! でもこれ、何か勝手に大きく……うわ、やべぇ!?」
「げぇ!? お、おい止めろ雁内! 貴様何こっちに向かってきてるんだ!」
「ヘルプ! 黒兎ヘループ!」
お祭り騒ぎのようだが、一応ちゃんとした模擬戦だ。
見かねたレイチェルが顔を顰めながら、消火活動に入った。
「――真面目にやれ」
三人揃って頭を下げる一同。
ストレスを口から息として吐き出し、レイチェルは仕切り直しを宣言した。
「今度はこっちから行くぞッ!」
黒兎が騎士に向かって腕を突き出す。二日目と違い、その手に持っているのは木刀ではなく杖。ついに念願の武器を手に入れた黒兎は、その性質を思う存分発揮した。
「吹き飛べ、《風球》!」
黒兎の手に持つ杖から、小さな衝撃波が放たれる。不可視の一撃は肉眼で捉えることができず、加えて疾い。騎士がそれをいとも容易く避けれるのは、経験がモノを言っていた。
回避行動からの迅速な攻撃への手の回し。黒兎はそれを――宙に跳ぶことで避ける。
「それは悪手だ!」
騎士が黒兎の過ちを指摘すると同時に、身体を捻りながらの蹴りを繰り出す。空中にいることで身動きの取れない黒兎は、それを甘んじて受け入れるしかない。だが、
「――なら、貴様も浮けッ!」
騎士の蹴りが黒兎の頭上を通過する。舌打ちする彼の両足は、比喩表現無しに地に付いていない。黒兎の才能――《Free Float》が発動されたのだ。
互いに宙に浮く二人。だがその中で有利なのは、意外にも騎士の方だ。
「浮かせて終わりか? ――詰めが甘いぞ!」
袈裟斬りが決まり、黒兎が白い床に落下する。術者である黒兎だが、その才能を開花させたのはほんの数日前だ。空中戦に慣れている筈もなく、そして同じ立場にいるのならば地力の高い方が勝つのは当然。黒兎とあの騎士だと、鍛えた年季がまるで違う。
「しかし……宮月殿が空中に慣れたら、かなり化けるかもな」
倒れ伏す黒兎に対し、騎士は宗弌の知る中で初めて褒め言葉を口にした。
「俺は!?」
「君はまず炎を制御することからだ」
ちぇー、と悔しそうに口を尖らせる豪太。豪太の才能――《Brave Flame》は確かに強力だが、まだ制御が上手く出来ていないらしい。才能が覚醒後、制御が難しいのは良くあることだとレイチェルは言っていたが、それにしても時間がかかる。
これはもしや過剰反応か、と彼女は言っていたが、詳しい話は聞いていない。
「よし、ではもう一度だ!」
二人の生徒の予想以上の成長に、ご機嫌なレイチェルが模擬戦の再開を命ずる。黒兎も豪太も疲労しているのは間違いなかったが、それでも嬉しそうに「はい!」と返事をした。
「……」
そんな光景を訓練場の端から見ていた宗弌は……吐き捨てるように舌打ちをかまし、誰にも気づかれることなく訓練場を後にした。
◇
「――やってらんねぇ」
あれから技巧も幾つか会得した。灯火だって初日と比べると随分自由に操作できるようになった。だが、駄目だ。才能持ちの二人とは明らかに違う領域にいる。目の前で模擬戦をしていたあの騎士は、自分と戦う時はあのように活き活きとしていなかった。
手加減されている事実に腹が立つ。手加減される実力しかない自分に腹が立つ。
「俺、素質ねぇのかな……」
沸騰しそうな怒りを収めるために宗弌が足を向けたのは、アスティアの外。見学の際に一通り見て回った城下町である。しかしそこに護衛はおらず、当然許可なんて貰っていない。
無断で施設を抜け出した以上、後で叱られる覚悟は持っておく。後ろ向きなのか前向きなのか分からない自分の思考に嘲笑を浮かべながら、石畳を歩いた。ここは王都、国の中で最も大きく人口密度の高い都市だ。治安もそれ程悪くないだろう。
「って、アホか。この前泥棒に会ったばかりじゃねぇか」
ということは、今の自分は同じ轍を踏んでいることになる。魔物に殺されかけたのはつい最近だ。あの時、この世界がどれだけ危険が身を持って知った筈なのに。
しかし今更引き返すのは心理的に難しい。
こうなれば行けるところまで行ってみよう、と開き直った。
この辺りは込み入った区画でもなく、宗弌は方向音痴なわけでもない。なんて強気になる理由にはならないのだが、勝手に足が進んでしまう。
割りと長い間、城下町を闊歩した。
「大体、俺ってそんな慎重な柄じゃ……何だあれ?」
小洒落た店が軒を連ねる住宅街と隣接する一角。そこに、あまりにも町並みに似合わない服装をした金髪の少女が横切った。純白の綺麗なドレスを地面に掠らせ、躓きそうになりながらも駆け抜ける。宗弌も通行人も、突然の出来事に目を瞬いた。
人目で分かる整った目鼻立ちを持つ少女は、やけに汗を垂らしていた。そのまま店と店の間を通り、路地裏の方へと向かう。
「……トイレか?」
いや、そのくらいなら店の中で済ませればいい。それとも高潔そうな人種だったから、プライドが邪魔したのだろうか。
「おぉ?」
と、今度は薄汚れた上着を羽織った二人組の男が、先程美少女の通った路地裏へと足を踏み入れた。ボソボソと怪しげに会話する二人に、好奇心が引き寄せられる。
格好は珍しいものではない。この世界では身体全体を覆う外套を着る者をよく見る。ゲームで見る魔法使いの服装だが、中に何か隠し持っているようで正直好きではない。先の二人組も似たような格好で、不審な点があるとすれば二人共顔を隠していることだ。
どうせ行く宛も無いのだし、行ってみるか。
そんな楽観的思考で宗弌も路地裏へ突入する。目撃者多数の上、あくまでこっそりと覗き見るだけだ。何かあればすぐに逃げればいいし、周囲にはそれなりの人通りもある。
挙動不審になると逆に目立つと思い、さも平然と前の二人組を追う。向こうはまだこちらに気づいていない。ギリギリで視界に入る距離を保ち、慎重に角を曲がる。道幅が狭くて服が引っかかるが、気配を悟られないように静かに対処した。
徐々に表通りの賑わいが遠ざかっていく。日光は左右の壁に阻まれ、届かなくなった。気温の変化に寒気を覚えた宗弌は、ここで一度立ち止まる。思ったより、路地裏が長い。まだ続くようならば、次の角かその次で引き返そう。
「――――!」
「――!」
撤退の決意を胸に誓い、次の角を曲がる。
同時に、悲鳴と怒声の向き合った喧騒が聞こえた。
運がいいのか悪いのか、路地裏はここが最奥らしい。二人組の男も、彼らの先に入った少女もそこにいる。仮に二人の男が少女を追っていたとすると、やけに落ち着いて歩いていたのはこの路地裏が一方通行だと知っていたからだろう。
などと冷静に状況分析していると、金髪碧眼の少女がか細い声でこう言った。
「誰か……助けて……」
どうやら痴情のもつれ話ではないみたいだ。
明確に聞き取ることの出来た少女の言葉に、宗弌はフル回転で思考を巡らせる。まずい、これ、絶対首を突っ込むべきじゃない。バレるな、すぐに逃げろ。
何もせずにとっととずらかることが最善策だと判断する。助けたいという気持ちもあるが、一部始終を見ていない自分はどちらが被害者か分からない。見てくれだけで判別していいものか。このまま事の顛末を眺めていれば発覚するだろうが……それには自分が危険過ぎる。
今すぐ表通りに戻って助けを呼んで来よう。
音を立てずに踵を返し、できる限り忍び足で走ろうとしたが――。
「……」
「……」
目が、目が合ってしまった。
懇願するような、切望するような潤んだ瞳が向けられる。宗弌は世界の終わりを目の当たりにしたような表情で、少女を見た。髪を掴まれ顎を上げている少女は、それでも宗弌から目を離さない。その目は確かにこう言っている。助けて、と。
伸ばした片手を左右に揺らし、自分では役不足だと少女に伝える。少女は絶望しきった顔で首を横に振った。大丈夫、逃げるわけじゃない。今すぐ助けを呼んでくるから。
「――そこのあなた! 助けて下さい!」
透き通るような美しい声色が、路地裏に響いた。
その悲痛に叫ぶ顔が微かに笑う。まるで宗弌に「逃がすもんか」と言いたげに。
「い、いいい、言いやがったなこの野郎……!」
グルリと身体を回転させて宗弌の方を向く男たち。何も喋らず、ただ無言で一歩、一歩と近づいて来る。極度の緊張に鼓動が鳴り止まない。
慌てて方向転換し、すぐに逃走しようとするが、
「ん?」
逃げようと踵を返した自分の目の前から声が聞こえた。
宗弌が通った一本道の向こうから、男たちと同じように目元を隠した人間がやって来る。これはもしや挟み撃ちか。……いや、そう考えるのはまだ早い。目の前の男が背後の二人組の仲間ではないことを祈り、宗弌は極めて普通に通り抜けようとした。
「よぉ、コイツ殺しといた方がいいか?」
「ああ。目撃者だ」
片手で遮られる。十中八九、仲間だ。
どうする? 逃げ道は完全に閉ざされてしまった。敵は三人、声色からして恐らく全員が男性だろう。乱暴に扱われている少女や会話の内容から察するに、平気で物騒なことをしでかす輩である可能性が高い。何の気なしに人を殺せそうだ。
「女には手を出すな。殺るのは男だけだ」
そして何故か、三人の視線が全て宗弌に集結する。完全なる四面楚歌。囚われの姫はどう考えても味方として戦力にならないので、やはり四面楚歌。
だらだらと背筋に冷や汗を垂らしながら、宗弌は苦し紛れの一言を放つ。
「……お、俺よりもそこの女の方が、殺しがいあると思うぜ?」
「あ、ああ、あなた、なんて事を――!?」
最低である。最低であるが、命には変えられない。というかこの少女が宗弌を巻き込んだのだから、このくらい言う資格はある。不用心に足を突っ込んだ宗弌にも責任はあるが。
フードの影から男の瞳が浮かぶ。睨んでも、苛立っているわけでもない。淡々と作業をこなす時のような、何の感情も篭っていない目。人を人と見ていないその瞳は、敵意を剥き出しにしたものよりもかえって恐ろしく感じた。
「――っ!」
転がるように、大きく横へ跳躍する。手に触れる冷たい感触は、先程視界の片隅で捉えた、細長い鉄パイプ。重いし硬いし握りづらいが、なんとか棍として扱えそうだ。
「張り切っちゃってるとこ悪いけどさ」
その男にとって、宗弌は威勢のいい餓鬼にしか見えないのか。口元が弧を描く。残る二人もニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべるだけだった。
歩み寄る足を止め、何やら懐に手を突っ込んだ男を宗弌は眼前に見据える。何を取り出すつもりかは知らないが――出させる前に、決める!
「おおおお――ッ!」
力一杯の声を腹から吐き出し、鉄パイプを地面に擦らしながら駆ける。この体格差、人数差で初めから勝てるとは思っていない。逃げ場がない以上、どうにか隙を作り、そこを突いて逃走するしか助かる術はないだろう。囚われの少女の存在が脳裏を掠めるが……今は無視。下手に欲張れば二人揃ってお陀仏だ。二兎を追うつもりはない。
短く持った鉄パイプを、男の即答部目掛けて横薙ぎ――と見せかけて足払い。狙うはくるぶしの下。相手の体勢を崩し、隙を生み出すことだけに意識を傾ける。
下がるか? それとも――よし、跳んだ!
黒兎のような才能でもない限り、空中では身動きが取れない。生み出した好機に飛びつくように、身体を回転させる。そしてそのまま鉄パイプを振りかぶり――
「――ぐあっ!?」
顔を上げた直後、男の靴の裏が視界一杯に広がっていた。跳ぶと同時に蹴りを放ったのだろう。後方に転がりながら宗弌は男が何をしたのか理解する。体勢を整えると、口元に液体が付着していることに気づいた。鼻血だ。刺激された涙腺からは僅かに涙も漏れ出ている。
「こちとら仕事の早さが売りなんでな、そろそろ終わらせてもらうぞ」
雇われ者か。しかし、今はそんなことどうでもいい。最後の手段として大声を上げようと試みるが、男が懐から取り出した物を見て止まる。鈍色の金属の塊――銃だ。
咄嗟に手元の鉄パイプを構え直すが……すぐに下ろす。こんなもので銃相手にどう戦えばいいのか。同じ鈍色の金属どうしでも、明らかに不利だ。
「……ふざけんな」
まだ何もしていない。
まだ何も成し遂げていない。
剣と魔法の世界の、一割も堪能していない。
こんな道半ばで――死にたくねぇ!
「じゃあな」
サイレンサーでも着けているのだろう、随分と小さく、人を殺すとは思えない程軽快な音が路地裏に鳴った。数秒後の未来を想定して顔を背けた少女、酷薄な笑みを浮かべる男たち、銃声と同時に光る銃口。それら全てを一度に視界に入れる。
高速回転しながら自らの額に迫ってくる銃弾を、宗弌はまるで他人事のように眺めていた。見える筈もない銃弾の軌道を双眸に捉えつつ、体中の気力を抜く。
スローモーションになっていく世界で、宗弌は自分が世界から切り離されていくように感じる。徐々に色彩を失っていく視界は、やがて白と黒以外の色を捉えられなくなった。
(……ああ、そうか。これが、死か)
脳裏に過る過去の思い出。走馬灯というものを初めて体験する。時の流れにつれて築かれていく人脈。そして大人になっていく周囲の人たち。未だ夢を一つも抱いていないのは自分だけだという不安、恐怖。がむしゃらに突き進んだだけの、空っぽの人生。
それなりに楽しかったが、納得のいく人生ではなかった。そのために足を踏み入れた新天地も……今、幕を下ろそうとしている。
銃弾が近づく。未練の山が押し寄せてくる。豪太と黒兎について行けなかった自分への怒りを皮切りに、良くしてくれたレイチェルや、騎士の皆。そして、未だ影すら捉えていない妹の存在。出会い、期待してくれた人たちを裏切ってしまったことが、何より悔やまれる。
(……にしても、遅くないか?)
目測で、銃弾は走馬灯を眺める前と比べて一メートル近く進んでいる。全てがスローモーションと化したこの世界では、それが速いか遅いかは分からない。銃弾だから遅いということはないだろう。死を間際にして、自分がおかしくなっただけだ。
だんだんと、宗弌は自分が焦らされているような気がしてきた。いつまでも白黒の世界を眺めていたところで、何も面白くない。銃弾を見るのも飽きてきた。
のろのろと行進する銃弾に、宗弌は「頑張れ頑張れ」とエールを贈る。
最早銃弾は、宗弌の中では蝸牛として扱われていた。
(――って、まだかよ)
流石に限界である。死を望んでいるわけではないが、こうも焦れったいと「いっそ早く殺せ」と言いたくなるのも仕方ない。例えそれが体感時間であったとしても、こうも長いと避けてしまおうかとすら考えてしまう。マイペースすぎる銃弾に宗弌は欠伸をした。
(いっそ、避けてやろうか)
白黒の世界で薄っぺらく笑う宗弌。そんな自身の考えに対して「んなアホな」とツッコミを入れる。ご丁寧に自分で自分の頭を叩き……あれ? と違和感を覚えた。
何故、身体が動く。
(……あれ? これ、本当に避けれるんじゃね?)
そう思った直後、宗弌は身体を動かしていた。
「は?」
そこにいる誰もが、愕然としていた。目を背けていた少女は振り返るなり驚き、下卑た笑みを浮かべていた男たちの表情も一転する。
「お、おい……どうなってんだ今の?」
「外した……?」
「馬鹿言うなっ! 外しちゃいねえよ!」
途端に言い争いを始める三人の男。その原因である宗弌は……誰よりも驚きに染まった表情で己の無事を確認した。隣を過ぎて背後に鳴り響いた金属音が、その実感を沸き立てる。
銃弾は、確かに宗弌の額に命中する筈だった。
宗弌は間違いなく死ぬ筈だった。
なのに、どうして宗弌は生きているのか。
――宗弌が、銃弾を避けたからだ。
「これが、才能……」
根拠のない確信が、直感を頼りに生まれる。
感極まろうと感情に身を委ねようとする……が、今はそれどころではない。
茫然とした少女に、宗弌は視線で意思疎通を試みた。今度は少女も首を横に振ることなく、すぐに承諾する。男たちが狼狽している今こそ、包囲網を抜ける最大のチャンスだ――!
「――おらっ!」
「が……くそっ!?」
鉄パイプを背後の男に投げつける。当たり所が悪かったのか、逃亡路を塞いていたその男は呻き声を上げて蹲った。その隙に、少女がこちらに駆け寄る。
「お前はこっちだ!」
「なっ!?」
少女が路地へ入った後、宗弌は蹲った男の髪を掴んでそのまま少女の後を追った。
「動くな、撃つぞ!」
「お仲間さんが死んでもいいならどーぞ!」
「ちッ――!」
この狭い路地の中、一人だけを狙うのは厳しい。宗弌と少女より大きな体格を持つ男は銃弾を防ぐ盾となる。宗弌は抵抗しようとする男の頭を押さえつけ、引きずるように先へ進んだ。
「お役目ご苦労!」
角を曲がったと同時に、宗弌は優秀な盾を切り捨てる。顔面へのパンチという報酬を強制的に与えて、即座に出口に向かった。全力疾走する宗弌は、目の前に少女の背中を見る。華やかな白のドレスは走る度に薄汚れていき、少女はあちこちに身体をぶつけながらも懸命に足を動かしていた。それを見ながら宗弌は、脇に置いてある障害物を片っ端からなぎ倒し、男たちの進路を阻む。屈めば銃弾を遮る壁にもなるだろう。
「はぁ、はぁ……撒け……た、か?」
ここまで来れば大通りの誰かに声を届かせることもできる。それでも振り返ることなく、最後の一歩を踏み出した。
全身を照らす真昼間の陽光。聞こえてくる客寄せの声。
漸く、宗弌は心の底から胸を撫で下ろした。
「……あ」
先に走っていた少女が、すぐ傍で地べたに腰を下ろして宗弌を見ていた。無事に生還した宗弌を確認した彼女は、深い安堵の息を吐いた。
「あ、あの……怪我とか、ないですか……?」
軽く全身を見渡すが、幸い目立った怪我はない。服に垂れる赤い染みは、顔面に強烈な蹴りを食らった際に生じた鼻血の跡だ。汗と混ざって流れたのか、今は顔についていない。
「無い、みたいだな」
「そ、そうですか……本当に、良かった」
緊張や恐怖から一気に解放された反動か、少女の微笑みには涙が含まれていた。彼女の目尻から溢れ出すそれに、宗弌は終わりよければ全て良しという言葉を思い出す。
奇異の視線に晒されながらも、宗弌は一先ず場所を変えようと少女に手を伸ばす。
「――貴様ぁ!」
直後、宗弌の首筋を銀の煌きが掠る。
ポタポタと石畳に赤い液体が垂れ落ちた。出処は宗弌の首……そこには、何かに斬られたような一本の赤い傷。解放されたと思いきや、再び恐怖に身を包まれる宗弌。文字通り首の皮一枚で助かった現実に、戦慄せざるを得ない。
「ユーフェ様! こちらに退避を!」
「ふぇっ!? シ、シャバン? あなた一体何を……?」
現れた男……というよりも老人は、一方的に宗弌を敵視していた。
少女は老人を知っている態度だ。しかし、今自分が何かしらアクションを起こせば即座に首を跳ねられる。離れているにも関わらず、老人の殺気には逆らえない。
「ユーフェ様に手をかけた罪……命を持って償わせてやるわい!」
「ち、違うのシャバン! そうじゃなくって――」
「問答無用ッ!」
老人の姿が霧散する。少女が慌てて弁明を述べようとしているのを傍目に、宗弌は後頭部に強烈な衝撃を感じた。鈍い音とともに、回転する視界。地面に顔を打ち付ける直前、少女が可愛らしい声で「えーい!」と老人にタックルする姿が見えた。




