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後半

夏休みはまた一年後にやって来る。

 だけど、今年のような充実した夏休みになるのだろうか?

 受験生だから、大学進学へと向けて準備のために塾に通うかもしれない。


 母さんは、ほぼ放任主義だ。

パートのくせに社内で古株、その上に残業までするから、家での食事はほとんどスーパーのお惣菜だ。

 父さんも、僕のことでとやかく言わない。


「自分が好きなことをすればいい」


 それは本当に正しいことなのだろうか?

 父さんの言うことは、あやふやで曖昧で、僕はクラクラしてしまう。


 それは、愛されているからだろうか?

 ただ、めんどくさいからか?


 一番悲しいのは、忘れられていることだろうけど。


 懐かしい面々。どれも、春に見たときより日焼けして、いや、前よりも大人になったように見える。

 武田なんか、かなり背も伸びた感じがする。は、髪が一段と短く刈りそろえいる。




 しばらくすると、前みたいな感じの教室に戻った。

 再会の喜びは本の束の間だった。

 というか、そうやってはしゃぐことで抜けきらない夏休みを抜いているのかもしれない。

 水谷京香は静かに本を読みふけっている。


 「部活動してないんだよね?」


 「部員が足りないんだよ……」


 「一緒に入らない? 天文部」


 「」


 星なんてとくに興味ない。

 綺麗だけど、やはり綺麗だで終わってしまう。


 それに部活動はやりたくない。

 人と関わるのは、これ以上ゴメンだ。


「ちょっと見学だけだから」



「先輩、友達ですか?」


「だといいですけど」


「あの子は、イヅルくん。一年生だよ。前に、武田くんがここに来て、彼のメガネを取り上げたから警戒してるんだと思う」


「先輩はいらないです。部長だけで十分です。先輩、星、興味ないですよね。例え、廃部になろうとも来年には蘇らせます」


「そうだね。僕はここにいるべきじゃないってわかってるよ。でも、楽しそうなアイツを見てると少し羨ましくて」



「やっぱり、天文部入らない」


「そうだと思ってたよ」





「彼女が出来たらさ、こういうふうに隣同士で座って見たいよね」


「ロマンチスト過ぎない?」


「そうだよね。」



「夢かぁ。ないよ」


「得意なことを、好きなことを仕事にしたいよね。でもさ、自分より上はいるんだよね。宇宙飛行士になりたいだなんて、小学生までの夢だったよ」


「星を発見して、名前をつけられたら」



「でも、いいよ。無理強いしないよ。でも、暇なときがあったらここに来ていいよ」 




後ろ姿を見つけた。それは確かにリアル。


太陽は眩しく、手をつねると痛い。すれ違う人はホンモノ。


友達と寄り添い、語らうその背中に手を伸ばす。


触れた。


彼女が振り返る。


しかし、その顔には全く覚えがなく、相手は僕を気味悪がった。


「人違いでした……すいません」


「あの人、なんか怖いね」


「そう? 優しそうな顔してたけどね。ていうかさ、この前のテストのさ……」



 そうだ、彼女はこちら側にいるはずがない。


忙しなく行き交う人の波に揉まれ、僕は歩いた。


誰かに肩がぶつかっても、謝る気にはなれなかった。例え、謝罪の言葉を投げかけられても僕は振り返らなかっただろう。


胸の奥を掻きむしりたくなるような衝動に僕はあえいだ。


気づけば、陽は傾き、僕はどこかの公園のベンチに寄りかかっていた。


死にたいと感じた。



自分が惨めに思えた。

どうして、こんなに惨めかと考えた。


僕は人が嫌いだ。なのに、どうして、他人を求めるのだろうか?



「何をしてるの?」


僕の正面に影がかかった。


顔を上げても、眩しくてその人物の姿が見えなかった。


でも、そのフォルム、髪型、凛としたよく聞く声を僕は知っていた。


「どうしようもなく、死にたい。生きていてこれから先、本当に楽しいのかな?」


「どうなんだろうね。わたしにも難しすぎてわからないよ」


「とても不安だ。こうやって、現実逃避をしているだけなんじゃないか? 僕はさっき恥ずかしかった。丘野なずながそこにいるって、本当に存在しているって思い込んで……」


「それで、いなかったって知ってしまった……」


「僕は自分が何をしたいかわからない、わからないまま生きてきた」


「わたしも、だよ。そんなせっぱつまって考えていると苦しいのに決まってるわ。だからね、もうさ、帰ろうか。わたしたちは惨めかもしれない。でも、こういう生き方しかまだ知らないじゃない」


「これから、後悔だってすると思う。でも、そうやって生きていく意味を知るんじゃないの?」


「曖昧すぎて、わからない」


 父さんの言うことみたいに曖昧だ。


「わたしだって、意味わかんないよ。だって生まれてまだ10数年しか経ってないもの」


「そうだね」



「でも、そんな弱いところがあったんだって知れてよかったよ。これでわたしたちの結束力はまた一段と高まった気がするわ」


「そうかな? 一緒に堕ちるとこまで堕ちていきそうだね」


「わたしは……いいよ。堕ちよう! どこまでも」


屈託のない満面の笑み。無邪気。その清々しいほどバカみたいな言葉に僕は吐き気のようなものを覚えながらも、吹き出すように笑った。







 秋が深まる頃、僕は図書室で昼寝をするのが癖になっていた。

 水谷が本を読む横で僕は眠りにつくのだ。

 でも、その日は眠気がすっ飛んでしまった。

 水谷の放った、ある言葉のせいだ。


「急にごめんなさい。あまりにも突然だけど、驚かないで聞いて欲しい。あなたに柚木薫として家に来て欲しい」


 それが彼女のお願いで、睡魔が退散した魔法の言葉だった。

 瞬きしながら聞き直しても、一字一句間違うことなく彼女はそう言った。

 なんということだろうか。

 僕は水谷家にお邪魔したことはこれまで一度もなかった。

 夏休み中はもっぱら外で彼女と会っていたから。

 彼女の家は田舎でなおかつ、かなりの山奥らしくバスで向かうことになった。

 車内で彼女は無口だった。


 とあるバス停で降りた。赤、黄、オレンジと色鮮やかに紅葉したの山が近くにある。

 途中から信号機が少なかった。田舎である証だろう。


 バス停からも少し移動しなければならないらしく、僕は水谷の後ろを付いていく。

「夏になるとこの辺は蛍が綺麗なの。田舎だけど、そんなところは好きよ」

 道路に落ちた枯葉を踏み鳴らしながら、水谷家へと足を運ぶ僕たち。

「京香ちゃん、ボーイフレンドかい?」


 小柄なおばさんが物珍しそうに声をかけてきた。


「まぁ、そんなところです」


 彼女は曖昧に答え、はにかんだ。こんな彼女は見たことはなかった。

 すれ違う人は、たぶん彼女の知り合いに違いない。水谷は慣れたように住民に挨拶をする。僕もぎこちなく会釈をした。

 とてつもない緊張感が押し寄せる。歩くだけなのに息が上がってしまいそうだ。


「あまり緊張しないでよ。ボロ出されると困るから。

 顔はマスクで隠して、なるべく柚木薫風に話して。

 姿も背丈も柚木薫に劣るけどたぶんバレないだろうし、君は私の柚木薫の設定を知っている唯一の人間だから、ね? 大丈夫よね?」


「それ難しいよ、こんなのやっぱりボロを出しに行ってるのも同然だよ」


「でも、二つ上のお姉ちゃんに馬鹿にされるのは耐えられないの。

 お父さんも嘘だろうと言いたげな顔するし……」


「信頼性のなさにびっくりするよ」


「そんなことないわ。ただ、『私に彼氏なんていない。できるはずがない』と家族は言うの。いると言うことを証明しないとこのまま馬鹿にされるのは耐えられない」


「とても悔しいじゃない」


 水谷はそう言って、黙った。まぁ、何かあるのはわかった。


 水谷家の屋根が見え始めたとき僕らは手を繋いだ。

 僕はいきなりに戸惑った。


 彼女が触れてきたこともあるが、その触れてきたヤツの家がバカにでかい。

 僕らはできるだけ恋人を装い、水谷家の前に来た。

 鉄柵のついた門を前にして、膝がガクガクと震える。

 小心者にこの状況は苦痛でしかない。いくら彼女の頼みと言えど、断るべきだったかもしれない。


「手が汗ばんでるから気持ち悪いわね」


「お互い様だよ。」


「耳たぶ触らないこと、しきりに姿勢を変えないこと、用意したような返答しないこと、話をすぐに終わらせようとしないこと!」


「わかったよ、気をつけてみる」


 ぎぃと重い音とともに、鉄柵が動く。僕らは足並みをそろえて、門をくぐると玄関に続く石の道を歩いた。

 左手には庭園があり、池ではニシキゴイが優雅に泳いでいる。


「わたしの家、地主なの」


 彼女は抑揚のない声で言った。


 

 ただいま、と家族に言う水谷に続いて、か細い声で、お邪魔しますと言う。

 外観は和風だったのに対し、中は洋風の趣があった。

 タイル張りの壁に、フローリング、壁にはよくわからない絵画が飾ってある。

 細長い廊下を進み、そのまま、僕らはリビングと思われる場所に入った。

 シンプルで家具の少ないのが印象的な、白が基調の部屋だった。


 そこにソファに座った中年の男性がいた。目が合う。

 これが水谷の父親か。

 目の下にはクマがある。それが彼女そっくりの白い肌のせいで病弱そうに見える。


「柚木くん。私の彼氏」


「どうも初めまして」


 かすれ声が出て、彼女が少し僕の背中を叩いた。

 ”気合を入れろ”彼女はそう言いたいに違いない。


「で、あそこに座ってるのは私のお父さん」


 軽く会釈され僕も軽く会釈をした。

 気まずい。ここに来て、挙動不審さを出してしまいそうだ。


「まぁ、柚木くん座ってくつろいで」


 水谷のお父さんに促されるがまま、ソファに座る。

 優しい声で囁くような聞き取りやすい声だ。表情も豊かだ。

 雰囲気も水谷とはだいぶ違う。それにしても顔が似ていない親子だ。

 母親似なのだろうか。

 そんなことをあれこれ考えていると僕の緊張は少しほぐれた。

 テーブルに茶の入った湯呑を置く水谷。

 それを見て、水谷の父は、


「茶菓子とかなかったっけ?」


 と言った。キッチンへと姿を消す水谷。

 しばらくして腕組みしながら戻ってきた。


「うーん、ないわね。近所の和菓子屋さんで買ってこようかしら?」


「金は私が出すから美味しそうなのを頼むよ。

 なんせ、京香が彼氏なんて連れてくるのは初めてだからな。

 それに客人は丁重にもてなさないといけないからね」


「でも……」


「いいよ。行ってきなよ」


 本心は行って欲しくないけど、たぶんこの人となら少しだけなら会話をうまくできるかもしれない。僕は水谷の目をじっと見た。大丈夫。

 どう伝わったのかはわからないけど、彼女は父親からお金を受け取るとリビングを出ていった。


「じゃ、行ってくるから」


 扉の閉まる音を聞いて、僕は、ふぅと息を吐いた。

 よし、頑張ろう。

 柚木薫として勤めあげてみよう。


「大学生なんだってね。娘から度々聞かされてるよ。どうだい? 勉強ははかどっているのかい?」


「学校での勉強はぼちぼちです。それよりも、今は家庭教師のバイトをしてまして、そこで教育の楽しみを実感しているところです。将来は教師になろうと思ってます」


 柚木薫は子供が好きだ。教えるのが好きだ。にこやかに丁寧に話す。


「そうか。それはいいことだ。サークル活動はしてないのかい?」


「バイトが今のところ、楽しいのでする気にはなりませんね。

 それにこれ以上やることを増やしたら、勉強も手につかなくなる気がして……」


「そうだね。若いうちは遊ぶのがいいかもしれないけど、確かにそれだけじゃダメだ。楽しいことと、勉強を両立してこそ、大人に近づけるんだ」


 水谷の父は湯呑に入ったお茶を飲み干すと、はぁとため息をついた。

 そのまま、下を向いて頭を抱えるような仕草をした。

 何か、癇に障ることをしたのだろうか? と心に不安が募りはじめる。静寂を破ったのは水谷父だった。


「ところで、あの子とキスはしたかね?」


 まさしく単刀直入。僕は少しむせながら答える。


「い、いえ……まだです。付き合って間もないんです。それに高校生ということは重々理解してますし……」


「いやぁ、健全な関係というのは感心だよ。

 でも、あの子に君のような存在はもったいないよ」


「京香さんみたいな子こそ、僕にはもったいない気がします」


「そうかな?」


 彼は、ははっと笑った。目尻ができる。いい人だ。

 彼女の父親と聞いて、どんなのだろうと身構えていたがそんなことをしなくともいい相手だった。

 そう思った。


「君が娘のことをどう思ってるかはわからない。

 でも、京香の嘘。君とあの子が付き合ってるということが嘘なのなら、早急にやめてほしい」


 唖然とした。僕は彼の顔を見た。笑顔だ。

 普通のさっきまでと変わらない。でも、目は泣いているように悲しんでいるように見えた。


「きみたちが来る様子を二階の窓から見てたよ。家が近づくと、とたんにくっついてたね。仲の良い素振りを、恋人だと見せようとしているみたいだった」


「娘は空想に浸りすぎるフシがあるよ。親のわたしでさえ、心の中がわからん」


「娘は以前――そう、中学生の頃に一度嘘をついている。

 彼氏がいるなどと言うくせに家にも連れてこない。

 問いただしても吐こうとしない。頑固さは私の小さい頃に似てるよ、まったく。」



お茶を吐き出したくなる空気のまずさ。僕は湯呑を見つめた。





「困ったあげく、強硬手段をとった。彼女の居ない間に、机の鍵をこじ開けたのさ。そしたら、出てくる。あの子は空想上の彼氏に恋をしていた。ノートに設定なんかを書いていた。まぁ、それが親だけで済んだらよかったものの、学校でもバレてしまって友達をなくしている、あの子にはそういう過去がある」


 時間が長く感じる。水谷本人じゃなく、自分に言われているように感じる。


「なんでそんな嘘をついたのかは分からないが、たぶん見栄だったのだろう」


 見栄。僕も、そうだ。


「その嘘で誰も傷つかないなんて思わないほうがいいんだ。その嘘が傷付けるのは自分自身だ。自分が一番傷つくのだから。あの子はそれを経験している、なのに何故まだこんなことをするのだろうか。それがさっぱりわからない」


「君が本当に付き合ってるのなら、この話はなかったことにしてほしい。私のただの勘違いなのだからね。失礼なことを口走っていたようだ」


「僕は!」


 ひと呼吸置く。胸が締め付けられた。声が出なかったから。


「僕は、彼女のことが好きなんです。僕みたい変なヤツに仲良くしてくれる京香さんが、好きなんです」


 ソファから腰が浮いていた。柚木薫の言葉を代弁したつもりだったのだろうか? まるで彼が乗り移ったかのように口が動いた。背中はじっとりと湿りきっている。


「自分を蔑むようなことは言わないほうがいい。

 聞いていて、こちらも気持ちよくない。

 君は、自分を蔑んだり、ネガティブな考えの持ち主に娘を預けたいと思うかい?」


「すいません……」


「君は君でいいんだ。あの子も、あの子でいい。

 でも、もう子供みたいなことは、卒業して欲しいんだ」


 子供みたいなこと……。

 水谷や僕がしていることは、イマジナリーフレンドに近いのだろう。それは、空想上の友人。前に何かで読んだ気がする。それは、対人関係に思い悩む子供のすることだ、と。


 玄関の扉の開く音がした。やがて水谷が袋を下げてリビングに入ってくる。うっすらと額に汗を浮かべていることから、心配して走って帰ってきたのだろう。平静をよそおっているが、肩で呼吸をしている。


「ただいまー。芋羊羹にしたけど、食べれるわよね? 柚木くん」


「うん、ありがとう」


 彼女の父は僕らを見て目を細め微笑んで言う。


「じゃあ、話は切り上げて芋羊羹でも食べよう。ウサギのぬいぐるみを抱いて眠ってる方が子供っぽいかな?」


「お父さん!」


「はは……」


 水谷京香はウサギのジュードがいないと、まともに寝付くことができないらしい。




 



 帰り道、またもバスに揺られる僕たち。

 エンジン音しか聞こえない。静かなのは僕と彼女だけ乗客だからだろう。


 心配でならないと言わんばかりの彼女の表情。

 きゅっと結ばれた口が開く。


「何を話していたの?」


 窓枠に肘を置く僕にたずねた。僕は話をしたくなかった。

 彼女の家を出たときにドッと疲れが出た。


「世間話ばかりでつまらないものだよ。ほとんど柚木薫についての話、あとは君の幼い頃の話を聞いていたよ」


「まさか、お父さん……」


「ウサギのジュ「黙りなさい。で、感想は?」


 脅すような目つきで、僕を睨む水谷。僕はふざけずに言う。


「優しそうな父親だね。君がいい家庭で育ったというのが伝わってくるようだった。最終的には、僕が君の恋人じゃないことがバレたかも……」


「うーん、そう……まぁ、最初から期待してなかったけど」


 期待されていなかったのか、僕は。意気消沈した。


「でも、まだ確信してはいないと思うわ。だって、ここまで手の込んだことをするなんて馬鹿らしいでしょ?」


 水谷はそう言って、膝の上にのせた手をギュッと握った。


「ぜったい、そのはずだわ」





「私、夢ができた」


 その日の帰りの電車で、丘野なずなは言った。

 両手をギュッと握り締めて、決意したような神妙な面持ちで僕に言った。


「そうなの? へぇー、聞かせてよ」


「パティシエになるんだ。

 それで君みたいに私のお菓子を食べて、『特別』だって、『幸せ』だって、思っ てくれる人を増やすんだよ」


「けっこう大変だって聞くよ。

 君、かなりドジだし、ケーキをぶちまけたりしないかこっちが不安になるよ」


「ドジは治らないかも……。

 でも、専門学校でお菓子作りのスキルを磨くんだ。

 留学なんかしちゃえたら……私はきっと今よりも幸せだよ」


「やりたいことがあることはいいことだよ。

 専門学校かぁ。パティシエなら本場に留学もありそうだね。英語勉強しないとね」


「勉強かぁ。でも、本場に行けたらかっこいいよね。

 何においてもあまり続いたりしない私だけどさ、頑張ってみたいんだよね。

 まずはお父さんを説き伏せなきゃ。思うんだけどさぁ、自分の夢を追うこと……親不孝かな、これって」


「好きなことをしないほうが、僕は親不孝だと思うよ。

 でも、それは僕の考えだ。もし、ご両親が頑なに君の夢を否定するなら僕も頭を下げるよ。

 一応、彼氏だしね。そうだ、勉強も手伝おうか? 英語は必要だろうし」


「英語はちょっと苦手だなぁ……」


 彼女の打ち明けてくれた夢は、とても彼女にお似合いだ。天職に違いないだろう。

 このまま、目指していってほしい。

 そして、いつか僕にその腕によりをかけたケーキを振舞って欲しい。

 僕だけに、特別のケーキを。




 もうすぐクリスマスだ。と同時に久々の長期連休の冬休みも始まる。

 そうなってくると自然と教室が活気づくのはどこの学校も同じだ。

 今日は、クリスマスの予定を二人に聞かれたけれど、彼女と過ごすと答えた。

 すると、嫉妬され、冗談で軽くビンタされた。なんだか、罪悪感を感じた。

 そうか、僕もいつもならその立場なんだ。


 昼休みになった、いつも通り図書室へ向かう。今日は当番だ。鍵を借りた水谷が言う。


「私はあまりスカートとかひらひらしたものが好きじゃないのよ」


「そういった女の子らしいものは君にはあまり似合わないね」


 僕は頷いた。彼女も少し嬉しそうだった。

 なんだ、みんなと違うという個性が嬉しいのか? 僕にはよくわからなかった。


 鍵を借り、図書室の扉を開ける。欠伸しながら、僕はカウンターに向かった。

 なぜか、カウンターの下のスペースにルービックキューブがあったので、それに ひたすら苦戦していると水谷が思い出したように言った。


「私、誕生日がクリスマスに近いからといって、ケーキを一つしか買ってもらえなかったの。でも、プレゼントはしっかりと二つ貰えた。

 それだけでケーキのことなんてどうでもよくなった。単純な子供だった」


「まぁ、ありそうなありふれた話だね」


「君は祝ってくれる?」


「え?」


「私の誕生日は12月の23日だからね」


 不意に言われた。彼女はどうやら祝ってほしいらしい。


「特製の手作りケーキをなずなに頼んでみるよ」


「ありがとう」


「どうせ、寂しいやつだ、と思ってるでしょう? ふふん、いいこと教えるわ。

 少しでも、彼に近づきたいから結構前に家庭教師のバイト始めた」


「バイト厳禁じゃないの?」


「近所の悪ガキの母親に迫られて、小遣いも兼ねて悪ガキに教えてるの。

 夏休みは小遣いが切れちゃったじゃない? お互い、遠出しすぎたから」


「まぁ、僕も節約したり、自転車移動で交通費をケチったり、いろいろとやりくりしてたからね」


「それでね、聞いてよ。教えるのって大変なの。

 あの子、樹って名前なんだけど。集中力が皆無で途中で投げ出しちゃうし、殴ってくるから。

 ……まぁ殴り返したら言うこと聞いてくれたけども」


「それはしちゃダメだろ……」


「でも、誕生日を祝ってくれるらしいの。それが嬉しい。

 モチベーション上がるわ。わかる? 君だけに祝われるんじゃないの。

 彼も祝ってくれる人物なのだから」


 そう言って、彼女は得意げな顔をした。何に勝ったというのだろうか?


 やがて、昼休みは終わりを迎える。

 当番というのもけっこう板について嫌だと思えなくなってきた。


「私、実は確信がなかった」


「え?」


「君の彼女が空想だってことに」


「じゃあ、君は僕にカマをかけてたの?」


「半分そう。もう半分は……勘かな。女の勘」


「嘘でしょ?」


「本当。でも良かった。こうして、君のような良き理解者に巡り会えたのだから。 なんでも話してみるもんだわ。

 あのとき、君の人生の終わりのような顔は傑作だったなぁ」


「酷い!」


「あはは、でもとてつもなく嬉しかったの。それは紛れもない本当の気持ちだわ」



 少し早めの雪が降っている。今年は寒くなりそうだ。

 みんな暖房の効いた部屋にいたいのだろうか? 

 誰のいない廊下で、僕らは雪が降り積もっていくさまを眺めた。



「いつか、この嘘がばれるとき、そんなとき私は本当に首を吊りそうだわ」


「僕もだよ」


 教室に向かいながら、僕はそう呟いた。





「クリスマスが楽しみだね。どこかに行く?」


「いや、二人でゆっくりと過ごしたいよ」


「私も同感。コタツでゴロゴロするのがやっぱり一番だよね」


「ケーキなんだけどさ。水谷さんに作ってもらえないかな。

 彼女、誕生日が12月23日なんだ」


「そうなの? 腕によりをかけないと。

 スウィートポテトは大好評だったんだよね。ほかに好物言ってた?」


「苺。彼女、ああ見えて苺が好きなんだ。意外だよね」


「そう? 女の子なら大半が苺好きだと思うけど」


「彼女が女の子だってことに今気づいたよ」


「確かに誰に対しても物怖じせずにサバサバしてるけどそれは失礼だよ。それに彼女……」


 丘野なずなは振り返る。上目遣いで僕を見上げる。じっとまっすぐに。

 いつしか、こんな風に見られたことがあった気がする。

 水谷にそんな風に見られたんだっけ? 半年くらい前かな? 

 あのときはびびったなぁ。

 透き通った綺麗な瞳、丘野なずなの黒目に僕の顔が映り込む。


「私ね。今、幸せだと感じてる」


「そう。僕も幸せだよ」


 降り積もる雪の中、二人で足跡を刻みながら歩く。

 僕らはこれからも一緒にいるつもりだ。



 クリスマス直前に彼女と夏の日に待ち合わせした喫茶店で誕生パーティーをすることにした。店長はケーキの持ち込みを快く承諾してくれた。苺のホールケーキに夢中になっていたのは水谷……ではなく、その教え子の樹くんだった。短いつんつんした髪の少し生意気そうな子供だった。


「マジすげえ。これ、泉さんが作ったんですか?」


 と、彼は僕のケーキを絶賛してくれた。腕によりをかけたし、材料費も高かった。お小遣い制の僕にとって痛い出費だったけど、こんなにもキラキラした瞳をして褒めてくれる人がいるとホント良かったと思える。


「先生は、女なのに暴力ばかり振るうんですよ。頬をこうやってつねるんだ」


 樹くんは頬をねじって、そのときを再現しながら話す。頬には白いクリームがついている。それを白い指が拭った。


「それは躾なの」


 コーヒーを啜りながら、水谷は彼を睨む。

 まるで喧嘩の絶えない――でも仲良しの兄弟のようだった。


「教師目指すなら、その言動はダメだと思うよ」


「同感です。もしかしてゴリラですか? 先生」


 拳が飛んで行く前に、樹くんはすっと赤い包みに入った箱を水谷に渡した。


「そんな先生にプレゼントです」


 水谷は姿勢を正して、包装を開け中身を見た。そこには雪のように白いシュシュがあった。水谷は微笑んで「ありがとう」と言い、髪に留めた。それは水谷のつややかな黒髪によく似合っていた。


「お母さんに選んでもらったんですよ。安物ですが、どうぞ」


「いいセンスしてるじゃないの。あなたのお母さんは」


 満足げに鼻を鳴らす水谷を見て、僕は笑った。


「これで僕の勉強も大目に見てくれませんか?」


「却下します」


 楽しかった。この時間は、こうやってパーティーを開くのは楽しいものだなと思った。三時間にも及ぶパーティだった。


 誕生日会にしては質素で人数の少ない寂しいものだったけど、水谷は喜んでくれた。


 この時間は本物だ。このプレゼントも、思い出も本物だ。


 でも、嘘は長続きしないんだ。

 それを戒めさせるように神様は残酷な終わり方を僕に。




 ではなくて、水谷京香にさせた。






 クリスマス、お正月が過ぎ、二月のある日のことだった。

 いつもと何も変わらない日常を送るのだろうと僕は暖房の効いた教室で机にもたれる。


 ふと気づく。水谷京香より早く教室に着いたことに。

 僕は変だなと思った。不思議だった。

 今まで、一緒に教室に着いたことはあったけどこんなことは一度もなかった。


 始業のチャイムが鳴ると同時に、彼女はようやくやってきた。

 眉根にしわを寄せて、くまのできた赤い目をしていた。

 白い肌はさらに白く雪のようで、髪は爆発しておりセットなどこれっぽっちもしていないようだった。

 誰の目から見ても死相が出ていると感じる、今日の水谷。

 悪い意味でクラス中の注目の的だった。

 委員長が彼女の異変に気づいて、まず駆け寄った。

 大丈夫、少し寝不足なのよ、と水谷は委員長の脇を抜けて、ふらつきながら着席した。


 授業が始まっても、彼女は呆けた顔をしていた。

 寝る生徒よりも、教材を出さずに、まっすぐ虚空を見つめる彼女は先生から奇妙な視線を向けられていた。

 休み時間、僕はそばに行った。行かざるを得なかった。


「水谷、おはよう。元気?」


「……。そう見える?」


「見えない、から来た」


「……。今はそっとしておいて」


 彼女はそう言ったまま、うんともすんとも言わなくなった。

 昼休みになってようやく、彼女は口をきいた。

 図書委員の当番をしているときだった。

 役立たず同然の水谷の代わりに忙しくしていた時だった。


 彼女は、僕の隣で告げた。


 彼は死んだ。あっけなく死んだ、と。


 家族に、一つ年上の姉に『柚木薫設定ノート』の山を庭で燃やされたあっけない最期だった、と。


「わたしの世界が終わったわ……」


 腫れぼったい目をして、彼女は力なく笑った。

 僕は本の貸出の作業を済ましながら、彼女の横で、何も言えなかった。

 同情しかできない。僕は慰めの言葉が見つからず、横に座り続けた。

 暖房が効いてる図書室で、彼女は冷え切ったような白い肌をしていた。


「もう妄想もほどほどにすることにするよ。私も受験生になるしね。親にはけっこう期待されてるんだ。将来きっと大物になるだろうから、サインもらうなら今のうちだからね」


 痛々しかった。弱々しかった。少し押したら倒れてしまいそうだった。

 強風が吹けば、飛んでいってしまいそうだった。

 無気力そのもので、自分の席からあまり動こうともしなかった。

 呆けた顔で授業を受ける彼女は、そこにいて、そこにいなかった。


 彼女は僕に接しなくなっていった。

 昼休みも図書室に一人で行って、僕がその隣に座っても声を掛けることがなくなった。


 そうだ、水野京香との接点がなくなってしまったんだ。

 『妄想の恋人』が僕らを繋げていた。でも、彼女にはもういない。

 柚木薫は死んでしまったんだ。


 彼女はやけを起こして僕の彼女が嘘だということを言いふらしたりすることは全くなかった。それはありがたかった。でも、ただ僕を避けるようになった。



 僕も声をたまにかけるくらいで、それ以外はしなくなった。

 会話もまったく続かない。僕が話して、必ず僕で終わる。

 会話のキャッチボールは続かない。彼女はグローブさえ付けていないのだ。



 関係が薄くなって、もう一週間が経つ。

 その日の帰りの電車で僕は空席に座ることなく、立ったまま車窓からの景色に目をやった。

 色とりどりのイルミネーションで明るく飾り付けられたお店が過ぎゆき、立ち並ぶマンションを追い越す。

 やがて、トンネルに差し掛かる。

 窓には僕のつまらなそうな顔がはっきりと映った。

 覇気のなさそうな、お世辞にもイケメンと言えない冴えない顔だ。

 その背後には携帯電話で友達にメールしている丘野なずながいる。


「今日は家でバレンタインの支度をするから。甘すぎないのがいいよね。

 ガトーショコラ好きだったし、ガトーショコラがいい? 

 それとも一味違ったチョコでも作ったほうがいいかな?」


「そういうなのって。本人に直接聞いちゃう?」


「その方が嬉しくないかな?

 必ず貰えるからその日が待ち遠しくなるし、こちらとしては苦手とか聞けるし、食べたいのとか聞けるしいいかなって……。

 それにせっかくのバレンタインじゃん、今までで一番って言ってもらえるようなチョコを君に食べて欲しいんだよね」


「ありがとう」


 彼女の口元がゆっくりと綻び、耐え切れないといったふうに彼女はニッと笑った。その表情がとてつもなく愛おしくて僕はその頬にそっと触れた。

 ほんのりと温かかった。彼女は少し冷たい、と呟き、照れくさそうに頬をほんのり染めた。電車は僕らを運んでいく。

 ごとんごとんと、がたんがたんと音を立てて。


 自然と涙が溢れた。とめどなく流れた。彼女と別れるハメにいつかなってしまうといったことが信じられなかった。水谷は、これ以上に苦しかったのだろう。


「君は存在しない。でもこうして僕の前にいる。

 君が消えたら僕はどれほど苦しむだろう。

 もう愛着が染み付いちゃって取れないんだ」


 窓に映る僕の顔はいつにも増してひどく不細工だった。

 迷子になった子供のように頼りなかった。


「お世辞にもイケメンとは言えないし、冴えない顔だ。

 性格も暗いし、たまに話すと噛んだりするし、冷や汗を掻いてしまう、そんな自分に嫌気がさして無性に死にたくなる。

 人が嫌いで、他人と関わることを避けてきたのに、君を作ってしまった。

 僕は寂しかったんだ。気づけば僕は、僕らはぬくもりを求めていたんだ。

 人が嫌いなのに人が欲しかった。誰かにそばで支えて欲しかった」


 背中に温もりを感じた。丘野なずなはダメな僕に体を寄せて、ただ頷いた。

 彼女は理想過ぎた。理想を省いたとて、理想だった。完璧に理想な彼女だった。 揺れる髪が、無邪気な笑顔が、ドジで忘れん坊なところが、おちゃめな仕草が、お菓子を作るときしか見せない真剣な顔が、何もかもが僕は好きだった。

 だから、嘘を吐き続けた。堪えきれずに嗚咽が漏れる。

 彼女が消失してしまうことを思う、すると耐え難い胸を引き裂かれる想いに駆られる。


「いいんだよ。それで君は救われたんでしょう?」


「そうだよ。君のおかげで、こんな僕にも、正面を向いて目と目を合わせて話せる人ができたんだ」


「うん、うん」


 小さな白い手が、僕の背中をゆっくりと優しくさすってくれる。その手が教えてくれる。僕は、しなくちゃいけないことがある。



 次の日、水谷京香は登校してこなかった。先生は不思議そうな顔をした。

 休み時間に先生に訊ねた。

 水谷京香は朝早くに家を出たらしい、彼女にメールでも送ってやってくれ、先生はそう言った。メール、電話はしていた。返信はなく、繋がりもしない。

 無遅刻無欠席の彼女が学校に来ない時点でそれはおかしいことなんだ。

 僕は彼女が家出したと知った。


 午前中のうちに、僕は学校を抜け出した。

 保健室に仮病で行ったが、ベットに寝かされただけで終わってしまった。

 僕は家に帰して欲しいと訴えたが、熱ないし元気じゃない、と言われた。

 僕は保健室を飛び出した。


 僕には思い当たる節がある。

 僕にしか伝えてない、水野京香と柚木薫の思い出の場所だ。

 



 校門を抜けて、商店街を抜けて、目の前にそびえる山を登った。勘だった。

 勘に頼るしかなかった。でも、歩くたびに彼女との思い出を浮かべるたびに、絶対的な自信のあるモノに変わっていくのがわかった。

 ちらちらと粉雪が降る山道を僕は必死で歩いた。

 雪があまり積もってないだけまだマシだ。

 氷が少し張っている階段をゆっくりと登って、たまに休憩して荒い呼吸を整える。ずいぶんと、足がたくましくなったものだ。

 鶏がらのようだったこのふくらはぎに筋肉が付いてきている。

 彼女の登山という趣味にずっと付き合っていた賜物だろう。


 肩で息をし、たどり着いた山頂には人影がなかった。

 平日だし当たり前かな、それに吹きすさぶような風でいくら何でも寒すぎる。

 それでも周囲に目を配る。


 観光双眼鏡の陰に隠れた水谷京香が、いた。

 目が合う。

 おかしいとも悲しいとも嬉しいとも恥ずかしいとも辛いとも言えぬ、彼女は一度も見せたことのない顔をした。ゆっくり、そばに近づく。


「首を吊ってないで良かったよ」


「吊らないわ。そんな度胸なんてないし、そんなことやっぱり馬鹿らしい」


 彼女は凍えていた。歯をカチカチと鳴らしている。

 長いまつげには白雪が積もっていた。

 ここでずっと、思い馳せていたのだろう。

 彼女に学生服を着せて休息所のベンチで、寄り添う。

 彼女の手はとても冷たくて、冷え切っていて、悲しくなった。

 僕は自動販売機で地上よりも値段の高いおしるこを買った。それで彼女の手を温めた。


「知ってた。来てくれるって知ってた」


「そう」


「私はこれからどうすればいいのかわからない。ふと気づいたら、山を登ってた」


「……ここは冷える。早めに下山しよう」


「私は嘘で自分の首を絞め続けていたんだ。いや、そうじゃないわ。

 絞首刑台の上にいて、すでに輪っかに首を通していたんだわ」


「僕もそうだ。でも、死ぬことはできない。嘘だからね。

 それも偽物なんだ。本当は胸をきつく縛られただけだ」


「私はそれを知っていた。昔味わっていた。

 なのに、私はまた繰り返したんだ。

 また、家族に嫌われて、情けない姿を見せた。みすぼらしい間抜けな姿を」


「僕の丘野なずなは消えていない、だから、君の気持ちの全ては分からない。

 丘野なずなはこれからも消えることなく僕のそばにいるかもしれない。

 でも、もし消えてしまったら、そんなときは今の君のように耐え難い苦しみに見舞われてしまうのだろうね、きっと。君の気持ちを僕は少しは理解している。

 だから、強がらず助けて欲しいと言ってもいいんだ。

 君は僕にとって特別なんだ」


「私、ずっとここで泣いてた。何もかもどうでもよくなって。

 私のあの人はいなくなった。心の一部と一緒にあっけなく消えちゃった。

 あのね、笑わないでね。私、あの人の灰を集めて埋めたの。

 ここにお墓を作ったの。小さいお墓を誰にも知られていない場所に。

 君にも教えるわ、彼のことを知っている私以外のただ一人なんだもの」


 僕らは一言も話さずに、寄り添い合い下山した。

 学校に着くと、授業をほっぽり出した僕は怒られた。

 水谷京香は、遅刻したことになった。放課後、彼女と一緒に下校した。

 ドーナツ店に寄り道して、笑いあった。




 季節は過ぎ去り、また始まる。


 春になり、僕らは晴れて三年生となった。恐ろしいことに受験の歳である。

 そして、僕の進路は未だ定まることを知らない。

 でも、僕の前には選択肢が無限に広がっているんだ。

 前向きに、もう少しポジティブになろう。

 お菓子作りの腕をさらに磨いて、丘野なずなのようにパティシエを目指すのも悪くない。

 水谷や、死んでしまった柚木薫さんのように小学校の教師を目指すのもいいだろう。

 僕がやりたいこと、それを見つければひたすら目指すのもいいことだ。

 まだ、僕は若いのだから。


 水谷と僕はまた同じクラスになった。

 運良く隣同士になれたので心底よかったと思った。

 現在の彼女は、まだ過去を少々引きずっているけどすっかり元気になっている。 気難しい彼女だけど、友達ができた。少ないが、彼女と親しげに語り合う仲になっている。

 そのことが、そばにいる身として嬉しかった。

 彼女を通じて、僕を通じて、友達の輪が広がった。

 彼女がクラスで浮くなんてことはなくなった。

 一緒に図書室でくつろぐことは減ってしまったけど、悪いことではない。

 僕らは少し成長した。背も伸びたし、体重も増えた、若干賢くなったかも。


 たまに不安になることがある。丘野なずながふと消えちゃうのではないか、と。 でも、僕のそばに丘野なずなはいる。彼女とはあいかわらず電車の中で出会う。 僕は彼女に手を振り笑いかける。

 そして、将来のこと、つまらない学校での出来事、最近のお菓子作りについて、たくさん語り合うのだ。忘れ物をするくせは相変わらず治っていないけど。


 朝早くの電車内で僕は彼女に言った。

 車窓から目の前を過ぎ行く町並みを眺めながら。

 初々しい学生たちで賑わうから、彼女の傍ではっきりと。


「僕、好きな人ができた」


 丘野なずなは、嬉しそうに手を合わせて微笑んだ。


「よかったじゃん! ねぇ、誰? 教えてよー」


「君も知ってるよ。水野京香さんだよ」


 水野京香。黒髪ショートのクールぶった馬鹿なやつで、僕の唯一無二の親友でもある彼女。僕は好きだ。とても。


「やっぱり好きだったんだね。薄々勘づいてたけどさ。

 そういうの早めに言わないといけないんじゃないの?」


「学校で一緒にいるとさ、なぜか好きだって気付ないんだよね」


「そういうものかな?」


「で、君に相談なんだけど……」


「決まってるじゃん、私に願ったように『僕と付き合ってください』って言うんだよ」


「なんでもお見通しだね。僕にはその言葉が言えそうにないんだよ」


 行きの電車の中、僕はうなだれる。この一言の重さは計り知れない。

 僕は言えるのだろうか? 水谷、君の前で言えるだろうか? 

 噛んでも笑って許してくれるよね。


 僕は、満開に咲き誇った桜並木を歩く。春風がちらちらと花を散らしてゆく。



 ゆっくり空を仰いでみる。

 この気持ちを伝えるのには絶好の日和だと僕は思った。

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