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前半

 人を好きになり、永久に愛し続けることは不可能だと僕は思う。

 人間とは気持ちの移ろいやすい生き物で、同時に思い出を忘れてしまう生き物だからだ。


 現に今の時代では、結婚しても離婚してしまうカップルは3割いるというじゃないか。


 永遠の愛を誓う?

 結婚式での誓いとはただの口約束だったのか?

 何が誓いのくちづけだ。ほんとにつまらないよ。


 もし仮に、子供を授かったとする。生まれてまもなく離婚してしまうとどうなる?

 そしたら、その子は、不幸だ。

 支えてくれる家族が居れば、まだ救いはあるかもしれない。


 でも、親がいないことで、片親であることで、その子は一度や二度、必ず傷つくことがある。


 それに結婚式なんて、離婚してしまえば、ただのヤな思い出でしかないだろう。

 そんなものは、彼彼女ら、その周りの人物を盲目にさせるだけの儀式だ。

 場の軽いノリに揉まれて、『幸せ』であると錯覚させられる、まったく。

 その先に、別離があることもつゆ知らず。



 『壊れやすい愛』は、僕にはいらない。



 至極普通のただの一般人に比べて、僕はかけがえのない宝に出会えた。

 僕は無償の愛を彼女に捧げる。


 透き通るような清い付き合いができるから愛し続けれる。

 愛し続けることができる最大の理由、それは、


 『彼女は裏切らない』


 ほら、今日も僕の前で振り返って微笑んでる。

 桜並木の道、その木漏れ日の下で。

 そっと、僕にまぶしいほどの笑顔を向けている。


 丘野なずな。僕は、君と、『恋人』だ。





 丘野なずなのことを話すと三日ほどかかる。

 でも、仕方ない、簡単に話すよ。

 僕が彼女に出会ったのは一学期のある日の夕方。

 町中が赤に染められ綺麗だったのを覚えてる。

 夕日の差し込む混雑した電車の中で、まぶしくて眉をしかめてたのも覚えてる。

 扉が開く。そして、閉じた。

 と思ったら、また開いた。駆け込み乗車するバカがいたからだ。

 女だった。県内有数の進学校の制服に身を包んで、肩で息をしていた。

 彼女は人ごみを掻き分けて、奥へと進んでいった。

 混雑する車内で迷惑なことをするもんだ、と思って、僕は彼女の行動をじっと見つめた。


 すると彼女、何かに気づいたように慌てはじめた。

 僕はじっと睨みすぎてたか、と思って視線をそらしたけど、どうやらそうじゃなかった。

 彼女は何かを落としたみたいだった。

 しきりにポケットや鞄の中を手でまさぐっている。

 その顔には苦笑いが浮かんでいた。


『まいったなぁ……』っていまにも聞こえそうだった。


「なにをしてるんだか……」


 僕は嘲笑ってやった。電車が揺れ、右足が何かに触れた。

 

 足元を見ると桃色のケースに入った電車の定期券が落ちていた。


「なくちゃ困るよな」

 

 良心がある僕は電車が止まり乗客が降りていくのを見計らい、丘野なずなにそれを差し出した。

 彼女はとても白い肌をしていた。西洋人形のような長いまつ毛の奥、純粋な感謝のこもった茶色い瞳で僕をまっすぐに見つめていた。

 それから、口の端をきゅっとあげて安堵し、礼を言って何度も頭を下げて、肩まで伸びた茶色がかった髪を揺らした。

 進学校の制服に身を包んだ彼女は、クラスメイトの誰よりも素敵だった。綺麗だった。


 今までしたことないからわかんなかったけど、どくんと胸が高鳴ったから気づいた。

 ――僕はその瞬間、一目惚れをしたんだ。


「あのぅ? まだ何か?」


 彼女はフリーズした僕を不思議そうに見つめた。


 ハッとした。落し物を渡し終えた僕はもう用済みなのだ。

 そそくさと僕は距離を置いた。


 しばらく呆けていると、気まずそうにした丘野なずなが僕の隣に来た。

 そして、握った手を差し出した。

 その握りこぶしから、飴玉が落ちてきた。

 彼女は、僕にイチゴ味の飴玉をくれた。

 僕は口にそれを放り込むと、ごちゃごちゃした心に均整を取り戻した。


「すいません、なにか気に障ること、しちゃいましたか?」


 おずおずと訊ねてくるその姿が愛おしかった。イチゴの味と彼女のやさしさに笑みがこぼれてしまう。


「いつもこの電車なの?」


「え……まぁ、はい」


 知らぬ間に口が開いた。そして、とまらなくなった。つなぎとめなくては、もう会えないかもしれないから。


 他愛のない話をした。でも、僕には一つ一つが大事だった。

 天気の話だとか、僕の学校の話、たまに彼女の学校の話も聞いた。

 彼女は話し上手だ。

 聞く側の僕にとってはありがたかったし、何よりも彼女の話は面白おかしかった。


 残念なことに、彼女は僕の降りる駅の二駅前で降りていった。

 丘野なずなは、微笑みながら手を振って見送ってくれたけど、僕の前に自分の傘を忘れていった。

 青いの中に白い水玉が混じった柄の、持ち手がフック型の……そんな可愛らしい傘が壁に寄りかかっていた。

 まったく、ドジなやつだなぁと思いつつ、また会えるだろうからそのときに渡そうと傘は持って帰ることにしたんだ。



 次の日の学校帰りに、また丘野なずなに出会した。

 僕は生まれて初めて神様はいるんじゃないかと思った。

 正直な話、彼女に出会うまで晴れた日にも傘を持ち続けるというのもおかしなことだし、早々に彼女にまた会えてよかったと思った。


 僕は軽く会釈して、彼女に傘を返した。

 彼女は目を大きく見開いて頭の後ろをさすり、申し訳なさそうに頭を下げた。

 また他愛のない話をした。

 水玉の傘は彼女のお気に入りで、母にもらった中学生の頃から愛用しているものだったらしい。

 彼女はほっとした表情で、話している間中にも大事そうに傘を抱えていた。

 丘野なずなは食べ物、主に甘味が好きなようで何度も駅前のスイーツ店やドーナツ店の話をしていた。

 僕も甘いものは好きだから、話はよく弾んだ。


「今日は……じゃなくて、今日も昨日もありがとう」


 マイペースで穏やかな口調、口元の笑窪が憎らしいほど彼女の魅力を引き立てているんだ。

 おっとりとした話し方なのに、おしゃべりで明るい女の子。

 僕は彼女に見つめられると、そっと視線を外した。


「気を付けなよ。物を失ったら、僕が拾っているなんて思わないように」


「あはは、ごめんね。今度なにか奢るよー」


 彼女が傘を持った手を小さく振った。僕は笑って頷いた。







「ああ!聞いてらんねぇ!!」

 



 僕は学校の帰り道、クラスメイトに馴れ初めを聞かせていた。

 彼らは耳を傾け、僕の話に夢中になっている。

 野球部の苗村が悔しさのあまりに坊主頭をかきむしっている。

 ところどころ端折っているし、もちろん僕の心模様は伝えてない。


 ようするに、電車で落し物を拾って、渡して、丘野なずなと仲良くなった。


 「俺、今日から電車通学に変えよっかなぁ……」


 沢田くんがぽつりと呟く。彼は生まれてこの方、女の子にモテたことがない。

 女の子がそばにいるとアガってしまってうまく話せないから、変な人と思われてしまうらしい。


 「沢田は地元じゃねえか! ていうか、彼女の前にあがり症をなおせよ!」


 「そうだよね。まずそこからか……」


 友人の会話を気にしつつ、僕は額を拭う。

 恋愛について、彼らは経験値が乏しい。

 だからか、すんなり信じてくれたようだった。


 僕は安心した。僕は脳裏に思い描く。


 ・ 丘野なずなは、方向音痴で時間にけっこうルーズなので、待ち合わせには絶対に10分は遅れる。

 ・ 動物の中で犬が大好きだけど、家族に犬を飼うことを反対されて困っている。

 ・ 趣味はお菓子作りだ。

 ・ でも、僕は味見役として使われるからはっきり言って困ったもんだ。

 ・ 昨日は砂糖をまぶしただけのプレーンドーナツを作ってくれたけど、焦げたのが混じってた。味は美味しかったけどさ。

 ・ 彼女のお菓子作りの腕は日々上達している。それは味見役の僕がよく知っている。

 ・ この前のガトーショコラは甘すぎず苦すぎず、口どけなめらかで今までで一番の傑作だった。

 彼女はそれに気を良くして、ガトーショコラは月に一度は絶対に作っている。



 自慢の彼女とのエピソードを語りながら、僕は駅前のどこかの有名な美術家の作った時計台を見た。

 僕にはただのガラクタに時計がへばりついたようにしか見えないが、時計としては立派に機能している。

 はぁ、もうこんな時間だ……少し話しすぎた気がする。


「俺ら、少しだけゲーセン寄っていくけど……泉はどうする? 来るか?」


 友人の一人、サッカー部の武田が僕の肩に馴れ馴れしく手を回す。

 誘ってくれるのはありがたいことだ。

 でも僕はできるだけ、早くここを離れたかった。


 だから、武田の腕を振りほどくと、


「彼女と帰り道で待ち合わせてるからさ。ごめん、悪いけどまた今度誘ってよ」と言った。


 友人たちはとたんに理解したようで、にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべた。


「じゃあ、仕方ないな。この彼女持ちめが!」


 と武田は声を大にして言い、僕の肩を軽く小突く。

 彼らは手を振って、駅前のゲームセンターへと入っていった。

 僕は彼らの後ろ姿に手を振り、姿が見えなくなると足早に駅に向かった。

 そのまま改札を抜けて、電車に揺られる。

 少しうつらうつらと睡魔に襲われながらも、自分の一番使用する駅で降車する。


 コンビニに入って漫画を立ち読みし、チョコレートを買って店を出る。

 そして、自宅近くの公園で音楽聴いてくつろぐ。

 手には最近読みふけっている雑誌がある。

 読み終えると夕暮れが迫っていた。イヤホンを外し、明かりの灯った自宅に帰る。

 家族と夕食を済ませ、風呂に入り、予習にと英単語の暗記をする。


 疲れてきたら、背伸びしてベットに横たわる。

 ネットゲームをしながら、カバンから付箋のついた雑誌を取り出す。

 

 自宅で簡単にできるお菓子のレシピ集だ。


 付箋の貼ったページで特に気に入ったものを、今日のお菓子に選んだ。

 そのレシピをノートに書き出す。

 工程、分量、要所要所にあるポイント、感想。

 めんどくさいが、もうノートは半分ほど黒で埋め尽くされている。


 そして、みんなが寝静まった夜に、僕はこそりと起き出す。

 レシピ集を元にチョコクッキーを作るためだ。

 お菓子作りをしていることはあまり家族に知られたくない。


 だって、おかしくないか?

 男の僕がこんな乙女チックなことしていたら、どう思われるだろう。

 焼きあがった出来立てを一つ食べた。うん。我ながら上出来だ。

 出来上がったクッキーにラッピングを施して、洗い物をして、後片付けを入念にし、僕は自室に入る。

 鞄の中にそれを詰め込んで、僕はもう一度瞼を閉じた。


 まぁ、匂いでバレてるかもしれないけど……。

 家族に見られるのは、僕はまだ我慢できる。



 次の日の昼休み、僕は弁当を食べた後、そのラッピングしたチョコクッキーを学生鞄から取り出した。

 それを一人でもぐもぐと食べていると、仲の良いクラスメイトたちがにたにたと好奇心に満ちた目で僕に近づいてきた。

 彼らはこのクッキーの出処をどうやら知りたいらしい、そうに決まってる。


「それ、彼女のお手製だろ? いいなぁ! 羨ましいなぁ!」


 案の定その通りだった。僕はチョコクッキーを一枚つまみ上げた。


「まぁ、そうだけど。一枚食う?」


 丸刈りの苗村は少したじろいだ。遠慮しているのだろう。


「いいのかよ。お前が食べきるべきなんじゃないのか?」


「おい。そんなこと言ってるけど、一番ノリノリだったのお前だったじゃん。

 さっき、あー食いてー、って言ってたじゃん」


 サッカー部のFWを務めている武田は、ちゃかすように言う。僕はそんな武田にもクッキーを差し出した。


「食べていいよ。感想聞かせて欲しいから。彼女、人に食べてもらうのが好きなんだよ」


 僕は次から次へと手を伸ばすクラスメイトたちに感想を求めた。

 「まぁ及第点」だとか、「チョー美味い」だとか、「羨ましい限り」だとかそんな感想をもらって僕はうんうんと頷いた。

 今回の出来は、僕以外のやつが食べてもおいしいと言ってもらえるほどよかったと見える。レシピ帳を開くと僕は端っこに二重丸を印した。


 僕はその後何事もなく授業を終え、放課後を迎えた。

 今日もクラスメイトの誘いを「彼女と待合わせてるから」と断って、僕はゆうゆうと教室を出た。

 そのまま、駅に向かい電車に乗り、古書店で軽く本を読んで、コンビニでバターを買って、自宅へと帰った。


 山の向こうへと消えていく夕日を見送りながら、僕はため息を吐く。

 足取りは軽やかだ。自宅でゆっくり休めるから。

 だけど、気分は最悪だ。

 気疲れする。疲れるには、それなりの理由がある。



 僕は嘘をついているのだ。

 丘野なずなは、架空の人物だ。


 僕が作り上げた嘘なんだ。姿も形も存在しない。

 僕は彼女を作ったことを後悔しつつも、その状況に喜びを感じている。


 僕は待ち合わせなんてしていない。

 そして、丘野なずなに会って、話なんてしない。

 手を繋ぎながらデートもしないし、映画館にも行く予定がない。

 ただ、家に帰って一人で勉強したり、ベットで横たわり一人でネットゲームに興ずる。

 深夜になったら親にバレないようにお菓子を作ってみたりする。


 でも、時間が空くとふと彼女の、丘野なずなのことを考え、悩み、最後には必ず落ち込む。




 彼女を生み出そうとしたのは、ふとしたときだった。

 あれはそう、一ヶ月前だった。

 僕は新学期早々、クラス替えしたから周りと馴染むのに精一杯だった。

 もちろん、今は高校二年生だし一年生の頃の友達もいた。

 でも、ある日を境に友達付きあいのしんどさが張り詰めてしまった。

 会話をする度に、

 笑い合う度に、

 顔を見合わす度に、

 自分の居場所のなさというか自分の立場に違和感を覚えた。


 楽しくなかった。

 どんな自慢話も、下らない笑い話も、世間話も、あいつは誰々が好きだとか……。

 どうでもいいし、苦痛だった。


 僕は、一人になりたかった。

 でも、一人は、孤独は辛いものだということを小学校のときに味わっていた。

 小学生の頃の僕はいじめられていたから。

 

 それが僕をがんじがらめにする。矛盾した感情が僕を変に歪めていくんだ。


 人は嫌いだ。

 自分の思うようには動かないから。

 人は苦手だ。

 傷つけあうから……。


 教室掃除をしていると肩をがしりと掴まれて、遊びのお誘いがかかってしまったのだ。

 その日の僕はお気に入りのDVDを家で堪能する予定だったのだ。

 だからか、僕はとんでもないことを発言してしまった。

 口が勝手に動いた、

 と言いたいけど、動かしたのは僕の意思だ。


「ごめん。今日は彼女とデートする予定なんだ」


 悪気はなかった、ちょっとした好奇心とかプライドとかそんなのが、僕の背中を押したんだ。


 冷や汗をかいたのを今でもよく覚えている。

 僕はあのとき、どうかしていたんだ。

 でも、仕方ないだろう? もう過ぎてしまったことだ。

 誰も流してもくれないし、消えない過去のことだ。

 本当に信じてくれるとは思わなかったけど、その日の僕はなぜか気分が清々しかった。一人になれたからかもしれない。


 でも、その日から僕は誰も傷つけない、自分には彼女がいるということ真っ赤な嘘をつき続けないといけなくなった。

 その情報は一日でクラス中に知れ渡ったからだ。

 噂の一人歩きってやつ。



 最初の一ヶ月は過酷だった。

 なんせ、急に彼女がいると嘘をついてしまったんだ。

 急いで彼女の設定を練り上げた。なるべく、優しいだとか、愛嬌があるだとか性格面から作り上げていった。

 住所は把握できないように遠い場所にして、すぐに特定されそうな情報はあまり口にしないようにした。

 口は災いのもととはよく言ったもので、僕は現在それを痛感しているのでそこらへんには気をつけている。


 あの日に彼女に会わせてくれ、だとか言われたら、スケジュールを彼女にメールで確認するフリをして、「塾と部活を掛け持ちしてるから当分無理そうだよ」と項垂れながら断る。

 メールや電話をするふりは毎回ヒヤヒヤする。画面を覗かれたり、奪われたりしたら大変だ。


 日毎に増える彼女の設定は携帯のメモ帳機能に書き込み続ける。

 いつしかその量は莫大に膨れ上がって、読みきるのにだいぶ時間がかかる。

 それでも彼女の存在を証明するにはまだ足りない。

 血液型やら誕生日、家族構成、好きな芸能人、マイブーム……。

 必死に彼女を練り上げる。自分の中で彼女を細部まで思い描く。



 彼女に隙を作るわけにはいかない。

 彼女が好きな店にはなるべく立ち寄り、調べ上げ、彼女の思い出の地にも足を運んだりした。


 嬉しいことに、彼女がいることでメリットはたくさんあった。


 まず、友人らにできる誘いを断る立派な(?)言い訳ができた。

 同じ言い逃れも難しくなっていた状況が、彼女関係だとすんなり許可される。

 いつまでも続くとなんだか、それはそれでおかしいと察知されるかもしれないのでたまに遊ぶ程度にとどめておく。

 なので放課後、最近の僕はその開放感にウキウキしてしまう、胸が高鳴るんだ。


 次に、男子生徒には尊敬された。

 彼女がいることがステータスなんだと思ってるやつは思いの外多くて、仲の良い友人なんかにはよく恋愛相談なんかを持ちかけられるようになった。

 適当に悩みを聞いてやって、聞く側に回り続けていただけなのになんと一人の恋が成就してしまった。

 すると厄介の連鎖だった。次の相談者が来るんだ。

 次第に『恋愛マスター』と、僕は友人らからもてはやされた。

 恋愛相談をされただけなのにたまったもんじゃない。

 沢田くんは僕を『神』と言い崇めた。それにいたってはさらに困惑した。



 最後に度重なるお菓子作りで、料理の腕が上がってしまったことだ。

 喜ばしいことだ。

 でも、作るお菓子もできるだけ女子力というものが垣間見えるようにしなければならない。それが面倒でならない。 

 例えば、ラッピング。ただ袋に詰めるだけじゃない。

 お菓子の飾りつけなんかもそうだ。

 シンプルすぎるとかえって怪しまれる可能性がある。

 彼女がお菓子作りが好きなら出来栄えも良いものじゃないと不自然だ。

 致命的に料理ができないならともかく、僕は『お菓子』という形があるものに頼って、彼女の存在を示すのは有効な手段だと踏んでいる。

 考え過ぎかもしれないけど、お菓子の存在でクラスメイトはさらに信じて疑わなかった。


 僕は昼休みに携帯電話のメモ帳機能を使った、『丘野なずなの設定帳』を流し読みする。

 復習といったところだろうか。

 丘野なずなの情報に欠けがあるのは致命的だ。

 勉強に関してもだけど、僕は予習復習を怠らないタイプだ。


 しばらくその作業をしていると、目の前に影がかかった。

 僕は端末から顔を上げた。

 凛とした佇まい、黒髪のショートヘアーが揺れる。

 陽気な丘野なずなとは正反対な女。

 一匹狼で無口な水谷京香さんだ。

 彼女は胸の前で腕を組むと、僕に向かって気だるげに口を開いた。


「放課後の図書委員のことなのだけど……少し相談があるのよ」


「ああ、そのことならすまないけど、僕は少し用事があって行けそうにないんだよねー」


「どういった用事なの? けっこう大事な用事かしら」


 彼女の言い方はどことなく威圧的でしつこいと感じる。

 だいたい、今日はそんな会議に顔なんて出したい気分じゃないんだ。

 それくらい君一人で何とかして欲しい。二人行っても無駄でしかないだろう。

 でも、そういった言葉は僕は言わないし、言えない。

 そういうやつなんだ、僕は。


「帰り道に彼女と待ち合わせてるんだよ」


「じゃあ、キャンセルしてよ。私は、放課後にデートの予定があるの」


 そうか、そういうことか。

 そもそも図書委員会に出席するか聞いてくるなんて考えてみるとおかしなものだ。

 彼女も用事があって、僕に必ず出て欲しいんだ。

 それにしてもずいぶんと強引だな。

 まぁ、ここは任されよう。

 僕には彼女が存在しないのだから。

 それに誰か一人、二人のうち一人は出席しないと、図書委員長から白い目で見られ、当番も多く回ってくることになるだろう。

 それだけは避けたいものだ。


「……わかったよ。僕が出席するよ……。彼とのデート、楽しんできてね」


 言葉とは裏腹に、僕は心の中で『魔女め!』と罵った。

 人を見下したような態度、病的に白い肌、生気のない目。

 彼女は魔女の子孫に違いない。


「そう? ありがとう。

 無理じゃないかと思ってたけど、やけに引き際がいいのね。

 優しい親切な人なんだ、泉くんは」


 言動からは僕の好感度が上がったようにも、ただ皮肉のようにも聞こえるけど、彼女の表情は無表情。

 本心から言っているのかどうかはよくわからない。

 たぶん、九割ほどでお世辞だろう。

 こんな彼女に彼氏がいるだなんて、僕には想像がつかない。

 彼女には性格面において、あまり可愛げがないから。


「まぁ……彼女のいる身からすると、デートの重要さはわかってるから」


「今度、重要な用事があるなら私が代わってあげるから」


 そう言うと、彼女は制服のスカートを翻して右手をひらひら振って、僕の席の前からいなくなった。

 いなくなったといっても自席に戻っただけだ。

 水谷京香は昼休みに静かにおとなしく本を読んでいる。

 彼女はかなりの読書家である。

 図書委員になったのも本が好きだからかもしれない。

 でも、僕は読書家なんかじゃない。


「僕はただ、暇そうな委員会に入ったつもりだったのに……」


 なのに、こんな目に遭うなんて……想像もしていなかった。

 当番など好きなやつが暇なやつがすればいいものの……。

 それにしても、億劫だ。なんの興味もない会議に時間を割くなんて……。



 思ったとおりで放課後は苦痛でしかなかった。

 当番制についての説明を受けてから、オススメの本の感想を書けと言われた。

 感想は図書室脇の掲示板に貼りだすらしい。

 メガネ委員長の顔面をなぐりたい衝動に駆られた。

 僕はなるべくページの少ない読んだことのある本の感想をいち早く書き上げた。あまりにも早すぎて委員長にしかめっ面されたけど、そんなことより何よりも僕は自宅に帰りたかった。


 でも、僕はその足で駅近辺のデパート内にあるドーナツ店に向かった。

 部活動も何もしてないけど、委員会で頭を使ったから腹が減った。

 それにお菓子作りの参考にもなる。

 先日、球体状の、サーターアンダギーのようなドーナツを作ったことがあった。

 結果は生焼けで、噛み付くとドロリと半生の生地が出てくる失敗作だった。

 そこで僕は軽く勉強した。

 ドーナツは、穴が空いている。

 それには熱をまんべんなく通わせるためにあるらしい、という情報を僕は昨日知った。

 ドーナツの穴に理由があるとは驚いた。

 指を突っ込んだりして遊ぶ、出店で輪投げ、などという理由ではないんだ。

 僕はそんな先日を思い出しながら、ガラス越しに綺麗に並ぶドーナツたちを見て唸る。


「この中でどれが一番美味いのだろう……?」


 後ろがつっかえてしまうのでしぶしぶながら、適当に三個選んで、隅っこの丸テーブルに持っていき一つずつ頬張る。


 まぁ、どれも美味しかった。

 今度は食べた中でも一番美味しかったチュロスを作ろう、と決意した。

 チュロスの形にも理由がある。

 表面積を大きくし、油から素早く熱を伝えるためだ。

 そうすることで、より均等に固まりやすくし、効率よく生地外へ水分を蒸発させ、膨張を回避しているのである。

 ちなみに、丸いと爆発するらしい。これも先日の勉強の成果である。


 糖分を摂っていい気分になった僕はドーナツ店から出ると、見知った制服の後ろ姿を見た。

 つややかな黒髪のショートヘアーが揺れる。立ち姿が驚くほど美しい。その二点から、間違いはないと思うけど。

 あれは、


「水谷さんかな……?」


 いや、彼女は放課後デートと言っていたはずだ。

 デート帰りだろうか? 

 でも、彼女の手にはここのデパートの書店の紙袋が握られている。

 僕が悩みながら目を落としているうちに、もう他の客の陰か、どこかに隠れてしまった。平日の夕方は賑やかで、ほんとに人が多い。


 僕ははっとした。

 そうだ、何か引っかかっていたんだ。


 僕はデパートで、ハチミツとココアを購入して帰路に着いた。

 足取りは自然と軽くなる。


 今夜、がんばってチュロスを作るのだ。




 毎日生活していくにつれて、丘野なずなは肉付けされていく。

 その工程は粘土細工を作るのに似ている。

 土台。彼女の環境。

 骨組み。彼女の中身。つまりは性格、内面だ。

 肉付け。彼女の姿。これは、女体そのものだ。彼女らしさのある肉体を作る。

 足の指先からつむじまで。


 彼女が生まれてから早一ヶ月半。

 僕は暇があれば必ず設定を作る、そして矛盾がないかを徹底的に調べる。

 その作業は苦ではなかったし、お菓子作りも少し楽しくなってきたのを感じている。

 僕のメモ帳は、『丘野なずな設定集』は今や五万字を超えた。

 すべて、丘野なずなの血となり肉となり、形になる。

 これがもし消えてしまったらと思うと、ゾッとする。

 でもそのときはもう潔く諦めるつもりだ。

 やっぱり嘘をつくのは難しいから。

 彼女とは別れた、そういうことにしてしまうんだ。

 でも、自分から削除はできそうにない。

 僕は根っからの小心者だ。


 六月のはじめ、梅雨に入り朝からずっと雨降りのジメジメとしたその日。

 僕らのクラスについに図書委員の当番が回ってきた。

 やれやれ、面倒くさいと頭を抱えながら昼食を済ますと、僕は水谷京香の机に向かった。

 彼女は一人で弁当を食べている。

 『いつも一人』

 そんな印象がある彼女は、親の愛情を感じられる弁当から唐揚げを箸でつまみ上げてもぐもぐと噛み締めていた。

 口を休むことなく動かしながら、彼女はじろりと僕を見た。

 あいかわらずの無表情。


「ちょっと待ってて、もう食べ終わるから」


 僕は黙って頷くと、机の上にあったパンフレットに目をやった。

 隣県の有名な大学のパンフレットだ。

 表紙では笑顔の眩しい大学生たちがキャンパスライフを楽しんでいる。僕とは違ってキラキラとした夢見る少年のような目をしていた。

 微笑ましい。


「暇だったらどうぞ」


 水谷京香からパンフレットを受け取る。

 そういや、僕らは高校二年生だ。

 進路もそろそろ決めなければならない。

 ある程度、目処を立てることで、三年生になったとき少しは楽になるだろう。 だけど僕にはそんな見通しも、夢もなかった。

 この高校へもなんとなく進学した。

 このまま、なんとなく進路を決めて、なんとなく大学に行って、なんとなく就職して……僕はどうなるのだろうか? 

 進路については度々不安になるから、予習復習をすることで程よい成績をキープしている。

 クラスの上位五人の中には絶対に入るようにしている。

 そもそもそんな賢い学校ではないから、そんなに自慢にもならない。

 上には上がいるということは自覚している。

 だから、キープしかしない。


 そういえば、彼女なら、もし『丘野なずな』なら、どのような進路を選ぶのだろう。

 彼女の進路の設定もまだきちんと決まっていない。

 それは僕が、進路のことについて苦手としているからかもしれない。

 

 肉付けがまだ足りないか……。

 

 水谷京香が弁当を片付けると、僕は手に持ったパンフレットを返した。

 彼女はお茶をごくごくと飲みながら黙って受け取る。

 そして、鞄にしまうと僕の顔をじっと見つめた。


「浮かない顔してどうしたの? 浮かないというか苦々しげというか……」


「いや、水谷さんは進路のことしっかり考えてるんだなって思ったんだ。

 僕はこの時期になってもまだ進路決めてないから……」


「進路? ……いや、私はあんまり……言うほど考えてないわ」


 早めに昼食を終えた僕と彼女は職員室で先生から鍵を借り、並んで図書室への廊下を歩いた。

 会話はとくになく、気をそらすように窓の外を見る。

 土砂降りとはいかないけど、ザーザーと雨が降っている。

 中庭には綺麗な紫陽花が咲いていた。校長先生が手塩にかけて育てた紫陽花は雨粒を載せてきらめいている。

 図書室前にはまだ誰も来ていなかった。切れかかった蛍光灯が図書室へ来る者を遠ざけているみたいに見えてならなかった。

 まぁ、そもそも、そんなに生徒から必要があるとは思えないけど。


「いつ来ても暗くて、寂しい光景だわ」


 呟きながら水谷京香は鍵を回す。

 扉を開けて本独特の匂いを嗅ぎながら、僕は電気を点けた。

 そして、カウンターに一足早く座った彼女の横の席に腰掛けた。

 この一週間は、嫌でも彼女とこうして肩を並べなければならない。

 そう思うと先が思いやられるというか、マジでしんどい。

 でも、そうだな……教室で友人たちと語らうのよりは、まだマシかもしれない。


 会話も特になく、時間を無駄に過ごす。うん、けっこうな贅沢。


「きみは男だから、その本を片付けてよ」


 カウンターの端には、前の当番が本棚に返し忘れたのだろうか、山積みの本が屹立している。

 その量の多さに僕はげんなりとした。

 そして、『魔女めが!』と小さく悪態をついた。


 なかなか生徒は来ない。

 それがこの学校の図書室の特徴だ。

 狭い上に、日当たりの悪い場所にあるので昼間でも不気味だ。

 蔵書数はそんなに多くないし、椅子や机が古いせいか少し汚い。

 そんな図書室を革命しようと、委員会では貸出数を増やそうとポスターを作らされたり、オススメの本の紹介文を作ったりした。

 でも、来る生徒は未だに少ないらしい。


 当たり前だ。静かだが、ずっとここに居たいと思えないし、ここは静かすぎる。


 ゆっくりと時が流れていく平和な図書室で、

 今日は、と水谷さんが口を開いた。


「今日は、彼女のお手製のクッキーなんかは持ってないのね」


 水谷がそのことを知ってるとは思いもしなかったけど、クラスメイトが騒いでいたから自然と耳に入っていたのかもしれない。

 昨日はテレビで放送していたホラー映画に夢中になってしまって、その後すぐに寝てしまった。

 おかげでゾンビに追いかけられるなんていう、ありがちで恐ろしい悪夢を見てしまった。空想上の彼女なんかに作ってもらえるわけはないのだ。 


「ああ。彼女は菓子作り好きだけど、毎日クッキー焼いてるわけじゃないからね」


 ふーん、と興味なさそうに言い、水谷さんはカウンターで物憂げな顔して頬杖をついた。


「……暇だから、味見してやっても良かったんだけどなぁ」


 水谷京香、彼女は謎のベールに包まれている。

 外見が微妙にいいからか、仲良くしたいといったやつもかなりいたけど、彼女の真面目さと、何でもずばずばと言う物怖じしない態度や、サバサバした性格からか、彼女の周りには人はいない。

 僕も自分から声を掛けようだなんてあまり思わない。

 そもそも、声を掛けたところでそこからの話題はないんだ。

 彼女の私生活は謎に満ちている。


 髪の毛を手グシでとく彼女を横目で見ながら思う。

 白い肌に黒のショートヘアーが似合っている。

 そうか、ショートヘアーが彼女の中性的さを引き立てているのかもしれない。


「何か用なの?」


「別に、なにも」


「視線を感じるって、本当はないことだと思うの。実際は誰かの目を見てしまって、自分を見たにちがいない、と思いこむことなのよね」


(何言ってんだ? このくそばばあは……)


 彼女は頬杖をついたまま、僕を品定めするかのように眺めた。


 「視線、感じてた?」


 「何のことだよ……」


 僕はぶん殴りたくなる衝動を抑え、傷ついた本のお手入れに励んだ。

 それを水谷京香は愉しげに手伝ってくる。

 この図書室という空間の持つ邪悪なエネルギーが彼女を操っているにちがいない。僕は、僕と水谷の間に本でビルを建設した。


 ポツリ、ポツリと図書室へ生徒がやって来る。

 たまにわいわいと騒がしい生徒が来たり不良を気取ったヤツが来たりする。

 そういうときには読書人、水谷京香の一睨みでそそくさと退散してしまう。

 まったくもって恐ろしい。

 彼女には怖いものがないのだろうか? もしくは、メデューサか何か怪異的なモノの親戚なのかもしれない。 

 ぺらりぺらりとページを捲る音を聞きながら、僕はきのこ図鑑なんかを読んで時間を過ごす。僕はしいたけに詳しくなった。


 昼休みも後半にさしかかり、僕は返却された本の山を元の場所へと戻す作業に没頭した。

 彼女の隣ずっと座っているのはなんだか不安だった。

 何を考えているのか不明だし、当番の仕事はこなすけどずっと本を読んでいるし、そうかと思えばたまに声をかけてくるし……。

 

 僕は重い腰を上げ、ふたたび本を持ち上げる。


 誰かが国語の授業で使用したのだろうかと思しき、分厚くて重い辞書を本棚に押し込んでいると、その向こう側に人影がよぎった。

 と思ったら、ぴたりと止まったまま動かなくなった。

 

 本棚を挟んでいるが、僕と得体の知れない『人影』はとても近い距離にいる。

 お化けでないのが、制服を着込んでいるのでわかる。


 なぜか、その顔が見たくなった。

 少し腰を落とす。


 すると、目があった。

 見開かれた両目がそこにあった。

 ぞっとした。後悔した。肝が冷えた。


 彼女は水谷京香だった。

 何よりも驚いたのは彼女が視線を一切そらさず、にたにたと気味の悪い笑みを浮かべていることだった。

 図書室の照明の薄暗さが彼女の不気味さをより一層引き立てていた。

 思わず、ごくりと息を呑む。蛇に睨まれたカエルはこんな気分なのだろうか?


「きみは嘘をついている、よね?」


 嘘? 顔から血の気が引いていく。

 鼻から上は並んだ本で見えないとて、彼女が発した声だとしっかりとわかる。

 それが僕に向けられていることも。


「はぁ、カウンターに戻ってていいよ。力仕事は男の仕事だからね」


「話を反らさないの」


 瞬きしないその瞳が怖い。


「……嘘ってなんのこと?」


 思わず、声が上ずる。脳内で警報が鳴り響いた気がした。

 僕の声にかぶせるように、


「きみには彼女なんて存在しない、ってことかしら?」


 水谷京香は食い気味に、でも淡々と言った。


「どうして……?」


 雨音が聞こえるほど静かな図書室で僕らは向かい合い続ける。

 本棚を一つ挟んで、視線を交わせる。

 まだ彼女はうすら笑いを浮かべている。

 教室で一度も見たことがない表情だ。

 身体が強ばって言うことを聞かない。

 自分の身体じゃないみたいだ。


「……なんで、わかったの?」


 声が震える。認めたくない。

 認めたくないのに、思わず訊いてしまった。


「話を聞く限り、君の彼女は創作じみていて恐ろしくなったから、かな?」


 僕は距離を詰めようとした。

 でも、目の前の本棚が邪魔をする。

 口封じはできるのだろうか? それをするには一方的に弱みを握られている僕には難しいことだろう。

 水谷京香、彼女の判断で全ては決まる。


 人気の少ない図書室で、僕は考えを巡らせる。

 ここで彼女の気を悪くしてしまうと、今後の僕の高校生活は、黒く醜いものになるに違いない。

 そうなると、僕は首を吊りかねない。

 猛烈な吐き気がせり上がってくる。

 神様、これは悪い冗談ですよね?


 瞼をギュッと閉じてみても、開けたときには瞳が僕を見つめている。

 近づいて殴ったら、僕に関する『丘野なずな』に関する記憶だけを無くしてはくれないだろうか? 

 視線の定まらないで、手に持った英和辞典を見つめる。

 鈍器のような辞書で殴ったのなら記憶が抹消できまいか? 

 そんな都合のいいことは起こるなんてしないだろう。

 でも、そんな神頼みをしたり、浅はかな考えを巡らすことしかできなかった。


「悪気は無いんだ! ほんの出来心だったんだ!」


「しぃーー……静かに……」


 彼女は背伸びして、口元を見せると唇に当てた人差し指を見せた。


「ここは図書室なんだから、――ね?」


 調子に乗った彼女に、ふざけるなよ、とぐらぐら怒りが沸く。

 でも、すっと収まってしまった。


「私も。 似たようなものだから……」 


 彼女は囁くように、静かな口調でそう言ったからだ。



 呆けた僕の耳に、くすくすと笑い声が聞こえた。

 僕と水谷京香が似ている? どういう意味なんだ? 

 フリーズする頭をこれ以上動かすと、僕は何をしでかすかわからない。


 淡々と図書委員の業務をこなす水谷京香。

 僕は動かず、動けず、辞書を手にしたまま泣きそうになっていた。


「泉くんはいつまでその体勢でいるの?」


「少しそっとしておいて」


「それは困るわ。だって、それじゃあ、いつまで経っても図書委員の仕事が終わらないじゃないの」


 やがて、昼休みが終わる直前になる。

 次の授業の支度のためか、まばらにいた生徒らはもういない。

 追い出す必要が無くなって、僕からしたらありがたいことだけど。

 そのささやかなありがたみを感じれないほど、僕は打ちのめされていた。

 図書室に鍵を掛けて、僕らは職員室へと向かった。

 鍵を返さないといけないから。

 でも、僕の足取りは重かった。水谷さんの斜め後ろを歩く。

 彼女の揺れる髪の毛を眺めて、これからを憂う。

 僕はこれから先のことが心配で心配でならない。


「意外なところに接点っていうのはあるのね」


 生徒が行き交う廊下をすたすたと歩きながら彼女が言った。


「接点?」


「さっきも言ったじゃない、私たちは似ている」


 待ってて、そう言って職員室に入る彼女。すぐに顔を出す彼女。

 また並んで二人今度は教室に向かって歩き出す。


「嘘っていうのは大体、自分がボロを出さなければ気づかれないものなのよ。

 言葉から嘘は漏れると思われがちだけど、そうじゃないわ。

 嘘が気づかれたくないとき言葉と表情に気を付けるでしょう? 

 実は仕草が一番ボロが出るの」


「仕草?」


 僕はどのような仕草をしたか、思い出せない。

 無意識下で僕は平常心を保とうと体のどこかを動かしていたのか?


 びっと突き出された四本の細い指。その合間から、彼女の得意げな顔が見えた。


「君の場合は、

 『しきりに姿勢を正す』、

 『耳たぶをぷにぷに触る』、

 『用意していたような台詞を言う』、

 『話を終わらせようとする』ね」


 水谷は得意げに嘲笑う。

 そんなに嘘のサインを出していたとは、僕は野球選手か、と自分に突っ込みたくなった。

 断言する、彼女とバッテリーを組んだ覚えはない。

 それにしても、僕は知らず知らずのうちに耳たぶをぷにぷにと触っていたのか。 

 嘘に勘づいて、僕を観察していた存在がいたことがもっとも驚いたことだけど。


「続きは放課後に話そう。それが一番いいわ。

 どうせ、誰とも(・・・)待ち合わせなんてしていないんでしょう?」


 僕は泣きたくなった。

 外では先程よりも強い雨が地面を叩いていた。

 放課後まで僕の胃はきりきりと痛みそうだ。


 授業内容は耳を通り抜けていく。

 窓辺の席の僕は、ぼんやりと雨に濡れてる街並みを、窓を流れる水滴を、無心で眺める。

 このまま、時が止まってしまえばいいのにと思う。

 休み時間になると僕の異変に気づいた沢田くんが「大丈夫?」と声をかけてくる。

 どうやら血の気のない青白い顔をしているらしい。

 僕は腹が痛い、と言って、机に顔を伏せた。


 誰とも話したくない。


 話していると、目の前の彼、沢田くんの顔が般若のような怒った顔に変わっていくんだ。


『嘘つきめ!』

『サイテー』

『まじかよ、見損なった……』


 沢田くんだけじゃない。クラスメイトの、罵る声が聞こえてくるんだ。


 僕は、のそのそと掃除に取り掛かる。

 放心状態で箒で埃を掃き、ふらふらと机を運ぶ。

 掃除を終えると、下駄箱に向かった。

 群れをなしながら談笑する生徒たちに紛れる。

 このまま、彼女に出くわすことなく学校の門を出てしまいたい。

 その考えは浅はかだった。


 水谷がいた。

 下駄箱を行き交う生徒の波に揉まれているけど彼女だとわかった。

 軒下で、顔を上げて雨模様を眺めている。

 けして傘を忘れたわけではない。

 彼女は右手に傘を持っている。そう、彼女は僕を待っていたんだ。


 すっかり怖気づいた僕の視線に気づいたのか、彼女は振り返った。

 そして、人混みの向こうに立ちすくむ僕に、さっき図書室で見せた不気味な笑みをまっすぐ向けた。


 おのれ、魔女。

 

 だが、逃げることはいまさらできそうもない。

 降伏すべきだ。

 僕は人混みを掻き分けて彼女の隣で傘をさした。







 柚木薫、それが水谷京香の恋人の名前だ。


 地元の大学の教育学部一年生。

 ゴワゴワとした黒髪で白い肌、声は低く丁寧に話す。

 チャラチャラしたのが嫌いで、子供が真似るからといて下品な言葉も使わない。

 彼曰く、普段の口調は知らず知らずに出てしまうとのことだ。

 なので常に丁寧語。

 教育者を目指す人として、ふさわしい心掛けをしていると思う。


 彼はシンプルなピアスをしている。

 穴は開けないタイプだ。

 大学在学中のみに留めるつもりらしい。

 服装は至って大学生。

 白いワイシャツにカーディガン、チノパンにスニーカーが彼の基本のスタイルだ。


 現在はバイトで家庭教師をしている。

 虫は苦手ではないらしく、ゴキブリは迷わず殺せるタイプ。

 好物は納豆とみかん。

 水族館好きで趣味はアクアリウム。部屋にはいくつもの水槽があって配線で困っている。

 それよりもミナミヌマエビが大繁殖して困っているらしい。

 自分用のバイクを所有していて、休日には水谷を後ろに乗せて観光地や遊園地へ連れて行ってくれるらしい。


 水谷京香はそんな彼と図書館で出会った。

 彼女が図書館で勉強していたときに、難問に直面し呻いていたところ、後ろから問題のヒントを出してくれたらしい。

 最初は不審がった彼女も、それがきっかけになり話し始めたという。

 読書好きの彼はしょっちゅう図書館に入り浸っているらしく、行くたびに出会ったらしい。

 何度か会ううちに一目惚れしていたらしい、柚木薫が告白してきたという話だ。



 そんな夢見がちな、ストーリー、キャラクターを彼女は僕に教えた。


 胸がむず痒いような奇妙な感覚に襲われた。


 わかった。まるで、少女漫画のような話だからだ。


 誰もいない歩道橋の上で、手すりにもたれながら彼女はべらべらとまくし立てる。

 僕はその横で、歩道橋下の車の往来に目を向けた。正直うんざりだ。

 女版、僕かよ。


「彼はわたしの理想像ね。こんな人が存在したら、今の数百倍華やかな毎日を送れる。家庭を築けたのなら、喧嘩のない穏やかな笑顔の絶えない……」


 これからの僕は言動においても行動においても気をつけないといけないだろう。てきとうに相槌を打ちながら考える。

 彼女の話をまじめに聞かないこと、怒らすことは避けなければならない。

 琴線に触れでもしろ、僕は終わる。


 それにしても長い。そんなに話して、僕が誰かに話すリスクを考えないのかコイツは。積み重なった嘘のプレッシャーに耐えれなくなったとか?

 

 現在進行形で語られている柚木薫の話は、あまり詳しく聞いたことがないけど彼女が大学生と付き合ってるという話はどこかで小耳に挟んだことがある。

 それも、嘘なのか。この前のデパートでの遭遇も、コイツ本人だったに違いない。買い物するためのくせして、委員会活動を押し付けやがったのか!

 ひとしきり、彼女は話し終えたようで、彼女は、ふぅと息を吐き、口をつぐんだ。

 怒りを鎮め、僕は咳払いをした。


「……そうだったんだ。僕はすっかり騙されていたのか」


「それはお互い様じゃないの。あなたも嘘を吐いているのだから」


 水谷は、あははと笑う。屈託のない笑顔だ。


 なぐりたい、その笑顔。


 夕闇迫る午後五時。歩道橋を渡り終えると僕らはその下で雨宿りをした。

 彼女はそこで、柚木薫の生い立ちを説明された。予想した通りに、彼女もノートにびっしりと書き込んでいた。

 雨は止んだ。彼女は、満足げにノートを閉じた。

 そして、腕にかけておいた傘の先端を僕に向けた。


「私たちはこれでもう、共犯者になるしかないと思うのだけど。

 それしか、君に道は残されてないのだから。

 今、君は正しい選択を迫られてると思ったほうがいいわ」


 共犯者、というのはおかしな気がした。

 僕らは嘘をついているけど、犯罪みたいにそんな他人に迷惑をかけるような嘘ではないんだ。

 でも、臆病な僕にはただ頷くことしかできない。

 というか、選択権すらないのだから。



「ふふ、それじゃあ、連絡先の交換しない?」


 童貞の僕の電話帳に、母親以外の女の番号。

 なぜか、僕は誇らしくなった。いや、丘野なずなの番号が先のはずだ!

 さっそく、考えよう。


「これから先、私たちは互いに利用し合うの。

 嘘のカバーをし合うの、嘘の補強をし合うの」


 初っ端から、そのつもりで話していたんだな!

 でも、それは僕にとっても利益があるはずだ。


「別にそのくらいならいいけど」


「これでメールは君の彼女を装うことができるよ。

 電話だって、彼女を装ってしてあげることができる。

 もちろん、きみには柚木薫になってもらうけどね」


 そうか、みんなの前で実際に電話をかけてもらうことで彼女の存在を示すことも可能だ。ナイスアイディア。

 アドレスを赤外線で送受信し合うと、水谷は微笑んだ。


「じゃあ、泉くん、バイバイ」


 彼女は手を振り、バス通学なので近くにあるバス停のベンチに腰掛けた。

 彼女に見送られながら、僕は水溜まりを踏み駅へと向かう。

 あんなにフレンドリーなやつだったのだろうか、水谷京香という女子生徒は? 今日、学校では見せない彼女の裏の顔を見てしまった気がする。

 仲間意識、妄想の恋人を持つ者同士の仲間意識。

 それが彼女の化けの皮を剥いだのだろうか。



 彼女の無邪気な顔を思い出す。


「……学校でもあんな風にみんなと接すればいいのに」


 あんな積極的に会話ができるなら、友達が増えるだろう。

 昼休みも一人孤独にご飯を食べなくても済む。

 ああ、そうか。


 いろんな面で、僕らよく似ているのか。

 でも、僕はあんな高望みはしていないつもりだ。



 僕はデパートに立ち寄る。

 そこで新しくお菓子の材料を購入する。

 そうだ、水谷京香に何か作ってやろうか? でも、彼女の好物をよく知らない。 あ、そういえば弁当の中にスイートポテトが入っていた気がする。

 僕はサツマイモは大好きだけど。彼女は好きなのだろうか? 

 今から、戻って好物を聞くのも面倒だし……今日はスイートポテトを作って明日好物を聞けばいいか。

 口封じ、口止めのためってわけじゃないけど、少しでも協力してくれる人ができたんだから何かしてあげることで会話も円滑にできるようになるだろう。

 僕の中でも知らず知らずのうちに仲間意識が生まれたのか、考え事をしてるうちに昼間の倦怠感や憂鬱はすっかり飛んでいってしまっていた。

 いつの間にか、曇り空に晴れ間が差し込んでいた。



 混雑した駅のホーム。汗ばんだサラリーマンにぶつかりそうになりながら、電車に乗りこむ。座席は学生や社会人で埋め尽くされており、僕は吊り革に手をかけた。車内は空気が濁っていて、ときおり止まる駅から漂うゴムの焼けるような臭いが気分をげんなりさせる。


 こういうとき、僕は目を閉じて現実逃避をする。


 僕の正面には人一人は入れるほどのスペースがある。

 そこに思い描く。

 進学校の制服に身を包んだ少女を。


 丘野なずなを。


 彼女はじっと窓の外を眺めている。夕日が彼女の肌、髪をを赤く染める。

 見飽きたからか、今度は僕をじっと見つめてきた。


「なに?」


「えっと、泉くんは部活動してないんだよね」


 急なブレーキがかかり、僕は近くにいたハイヒールを履いたOLに足を踏まれた。

 なずなに触れたがすり抜け、壁にタッチする。


「ごめんなさい!」


「いや、大丈夫っす……気にしないでください」


 OLはイヤホンをしていた。僕の声はシャットアウトされているようだ。

 怒りを抑え込み僕はまた目を閉じた。

 混雑した目をつぶったまま、丘野なずなを意識する。

 足がジンジンして、現実に引き戻されそうになる。


「うん。なんだか面倒なんだよね。運動部は休日も学校に行かなきゃならないし、文化部には興味ない部活しかないし、種類もないし選べないよ……」


 そんなのはいいわけだ。でも、ホント何もする気になれない。

 今、何もせずに、こうやって過ごせればいい。


「でもさ、なにか始めてみたら?」


 丘野なずなは、僕を心配そうに見る。そんなにも僕は無気力な人間に見えるのだろうか? 彼女は僕の様子を窺う。

 夢中になれる気がしない。飽き性で、熱し易く冷め易い性格なんだ。


「そんなこと言われてもなぁ……乗り気になれないよ」


「今、幸せ?」


「……たぶん」


「ダメだよ。そんなんじゃ、幸せが逃げていっちゃうよー」


 がたん、ごとん。

 その一定のリズムに僕は、目を閉じているからか、まどろんでしまう。

 電車通学は居眠りできるから嬉しいよね。


「何事も始めてみないとわからないよ。

 だって、君にも私にも可能性なんて無限大にあるんだから。

 いつか、幸せって心から言えるようになってね!」


 ポツポツ光の灯った街を車窓からそっと眺める。

 ガラスを一筋の雨粒が流れていった。

 僕はまた目を閉じた。そのまま、丘野なずなに触れようとする。

 か弱い肩に、軽く手を伸ばす。

 やはり、右手は空を切っただけだ。丘野なずなは掴めない。

 でも、彼女はいる。

 嘘だけど、いる。

 僕の頭の中に、携帯電話の中に彼女は詰まっている。




 翌日、僕は少し早めに学校へ行くことにした。

 手には、紙袋。

 この中にはタッパーがあり、スウィートポテトが入っている。

 水谷は朝早く登校するということを僕は知っている。

 僕が教室に着いたときにいつも彼女が本を読んでいるからだ。

 誰にも知られないうちに、誰にも知られないように渡してしまおうと僕は決めた。

 見られたら、何を言われるか想像つくからだ。


「早く来すぎたかな」


 そう思いつつ、昨日二人で会話してた歩道橋を渡る。

 そのてっぺんから通学路を見下ろすと、遠くに水谷の背中が見えた。

 転けないように気をつけながら、階段を駆け下りると早足で彼女の横に並んだ。 彼女は水溜りを踏んで、嫌な顔をしていた。


「おはよう」


「……おはよう。なんで朝からそんなウキウキした顔してるの。少し気持ち悪い」


 僕はショックだった。気持ち悪い、と言った言葉はまだ慣れない。

 小学生の頃によく言われていたのを思い出した。

 純粋だった僕は知ってる人でも知らない人でも話したくなったら声をかけていた。

 興味のあることには男子女子の垣根を越えて、首を突っ込んでいた。

 それで傷ついたことがよくあったのを思い出した。

 みんな僕のようにフレンドリーなヤツだと思い込んでいた。

 でも、違っていた。

 初対面の口の悪いヤツは、気持ち悪いと僕を遠ざけた。



 しつこく、おしゃべりな僕をみんな敬遠したんだ。

 

 そうだ、今の僕は少し気持ち悪いかもしれない。

 馴れ馴れしすぎるかもしれない。

 会話する仲になってまだ一日しか経ってない。

 でも、彼女には感謝している。

 僕の彼女は存在すると証明してくれるというのだから。


「これ、お礼」


「あら。彼女に作ってもらったのかしら?」


 平然ととぼけた顔で言う水谷。言うことに毒がある。

 でも、顔を綻ばせてるから嬉しいのだろうか。

 中身を確認して、


「スウィートポテトは好物なの。ありがと」


 と言った。

 気を良くして、試行錯誤しただとか、初めて作ったけどいい出来なんだとか、言ったらまた不機嫌そうな顔をした。

 掴みどころのないというか、僕がうざいだけなのだろうか。

 僕は黙ることにした。


「せっかく、お気に入りのスニーカーを履いてきたのに泥にまみれてしまったわ、残念。ほら、うつむいてると水たまり踏むよ」

 

 泥に腹立ててただけか、と僕はほっとした。

 嫌われてはいないことが嬉しかった。


「雨は好きだけど、雨の上がったあとに残された水溜りは嫌いね」


「僕も雨は好きだよ」


 傘で人の視線を遮れるから。

 行事がなくなってしまうから。

 小学生の頃からそうだった。

 体育の授業は嫌いだった。

 サッカーなんか特に嫌いで、雨よ降れ、と何度願ったことか。

 丘野なずなも運動は苦手だ。走るのが遅くて、責任感のあるクラス対抗リレーが嫌いだ。


「雨上がり、雨だれ、雨模様、雨宿り……。

 ねぇ、雨の入る言葉って、けっこう綺麗に思えない?」


 そうかな? と首をかしげる。

 話が途切れる。

 僕が途絶えさせた。僕のダメなところだ。


「ところで、水谷さんは何が好き? 好物を教えてよ」


 しどろもどろになりながらも、空白を埋めるように言う。


「果物ならなんでも好きだわ。特に苺が好きかしら。この間、家に届いた頂き物の苺なんだけど一個千円ですって、かじったら、ものすごいのよ。あの甘さを堪能したらメロメロになるわ」


 なるほど。今度、彼女に作るときは果物を使ったお菓子だな。


「でも、家の畑で採れるのも美味しいよ。あれは頂き物とは違った美味しさだわ。なんせ、このわたしが育てたんだからね」


 ひたすら、苺のいいところを列挙する彼女に相槌を打ちながら僕らは校門をくぐった。




 その日の昼休み、僕たちは当番としてまた図書室のカウンターで肩を並べていた。

 今日は昨日よりも断然人が少ない。

 これほどまで暇になるとは思いもしなかった。

 返却本を本棚に並べる仕事が激減している。

 生徒の大半が一週間のうちに借りた本を休日で消化し、月曜日に返しているのかもしれない。

 そう思うと、案外この委員会も楽なんじゃないだろうか、と思えた。

 僕は椅子に浅く腰掛けてやる気なくあくびをする。

 隣で黙って本を読む水谷。


「何読んでるの、それ」


「『自宅でカンタン、今日から君もアクアリウム初心者』って本」


「面白い?」


「面白くなくても知ることが大切じゃないの、私たちにとっては。

 それに勉強と同じと考えればさほど苦にはならないわ」


 なるほど。彼女は恋人の柚木薫の趣味を理解しようとしている。

 そして、その気持ちを、アクアリウムで観賞魚を飼育する喜びを感じようとしている。

 僕が菓子作りも兼ねて、丘野なずなの気持ちに触れようと努力するのと同じだ。 その作業を邪魔するのは野暮と言える。

 僕はまた、きのこ図鑑に手を伸ばした。

 僕がツキヨダケという、毒性の高いきのこに夢中になっていると、


「アクアリウムがわからない」


 といった呻き声が隣で聞こえた。ぱたんと本を閉じる。


「実際に見たほうがいいんじゃないの?」


「グッドアイディア」


「アクアリウムの専門店って、この辺にあるのかな? 

 いや、ペットショップか? 

 水族館という手もある」


「水族館には観賞魚はいるのかしら。

 ペンギンとか、サメとか、海の生き物のイメージがあるのだけど」


「淡水、海水は関係なくいるよ。

 まぁ、見た目華やかな観賞用の魚は絶対いるだろうね。

 客は観賞に来るのだから」


「じゃあ、今度、一緒に見に行こうよ」


「いいけど、僕もアクアリウムとか熱帯魚とかあまりよく知らない」


 僕たちは約束を交わした。ウソを重ねるための約束事だ。





「ねぇ、新作のお菓子食べたくない? この前作ったら美味しかったんだ。

 市販品にも負けない自信があるよ」


 丘野なずなが僕に言う。


「そんなの作ったんだ。

 そこまで自画自賛できるのなら、ぜひ、食べさせてほしいな」


 そう言って、僕はこくこくと頷く。


「手作りのシューアイスなんだ。

 これからの季節にピッタリだと思うから、家においでよ」


 丘野なずなは言う。


「家に行ってもいいの? 確か、両親と三人家族だったよね?」


 そうたずねて、僕は首をかしげる。


「もうすぐ、二人で旅行に行くんだってさ。

 会社で早めにもらった夏休みでハワイに、だよ。

 いいよね、あたしも行きたかったけど、遠慮したんだ。

 だって、新婚旅行に行った場所だって言うんだもの。

 付いていかない方が想い出に浸れるだろうし、ふたりの邪魔をせずに済むし……」


「なによりも家でゴロゴロし放題! 

 怒られる心配もないんだから最高!でも、その分、私一人でお留守番」


「寂しいの?」


「まぁ寂しい。そんなことより、ねぇ、アイス食べたくないの?」


 僕は笑う。


「友達を呼んだりすればいいじゃん」


「えー。私の友達? ……うーん、気が進まないなぁ。

 だって、美味しいしか言ってくれないんだもん。それに君は特別だから」


 特別。その言葉はまだ誰にも言われたことがない。



 今、僕は喫茶店に一人でいる。

 店内には穏やかなジャズが静かに流れており、僕は慣れないながらもゆったりと落ち着くことができた。


 僕の目の前には丘野なずなはいない。

 代わりにコーヒーカップが一つ寂しげに存在する。

 ゆらゆらと湯気を立てて、いい香りが周りに広がっていく。

 今日は水谷京香とメールで会う約束をしたんだ。

 この喫茶店は彼女のお気に入りの喫茶店だという。

 テーブルごとに仕切りがあって、周りの目が気にならないこの喫茶店を僕も少し気に入った。

 それにしても、呼び出してまでする話とはなんだろうか。

 といっても何の話かはおおかた見当がつくけど。


 しばらくして、約束の時間頃にベルが鳴る。

 水野京香だ。

 彼女は店内をきょろきょろ見渡すとコーヒーを飲む僕に気づいてこっちに歩いてきた。

 彼女の私服は初めて見た。

 黒のベレー帽に、茶色のパーカーにデニムのショートパンツでカジュアルな感じだ。口元がマスクが気になる。

 彼女は近づいてきた店員にカフェオレを注文し、僕の目の前に腰掛けた。


「ずいぶんと早いのね。待った?」


「そんなことないよ、今来たばかりだ。マスクしてるけど風邪ひいたの?」


「そんなわけじゃないけど。

 まぁ、そんなことはどうでもいいから、来てもらった理由を話すわ。

 今日は互いのことについてよく知っておきたいと思ったの」


 僕は自分好みに仕上げたミルクたっぷりの砂糖どっさりのまろやかなコーヒーを飲む。

 飲みながら嫌な予感がした。彼女の目が光った気がしたから。


「あのね、丘野なずなさんの設定を読ませてほしいの」


「どうしても?」


「私の設定集も見せるから。これにはちゃんとした訳があるの。

 男子には男子にしかわからない、女子には女子しかわからないことってあるじゃない? 

 それを指摘しあうのはさ、双方にメリットがあると思わない?


 実際に私は君のおかしな設定に気づいたわけだし、弱点があったってことはわかりきったものだわ。私たちは恋人を、何よりも自分を守り抜かないといけないじゃない?」


「確かにそうだけど……気が引けるなぁ」


 でも、彼女の言うとおりなんだ。

 彼女がたまたま僕と同じく偽物の恋人がいたから良かったものの、これ以上勘づく人間がいたならば……そう考えるとおぞましい。


「ここのフレンチトースト美味しいんだよ。

 奢るから見せてよ、今持ってるわよね?」


 メニューを手に取って、彼女は無邪気に微笑む。

 仕方なく僕は折れた。

 甘いものは好きだけど、食べ物に釣られたってわけじゃない。

 素直にそれが賢明な判断だと思った。

 フレンチトーストが運ばれてきて、僕はそれをかじりながら携帯電話を差し出した。


「え? ノートに書かない派なんだ」


 そんな派閥があるのか? 僕はそう思いつつ口についたパンくずを拭いた。

 それにしても美味しい。

 フランスパンのフレンチトーストなんて初めて食べた。

 今度、作ってみたいものだ。

 僕の携帯を覗き込む水谷。

 なんだか、むずむずする。

 これは裸を見られるよりも恥ずかしいかもしれない。


「水谷さんのも見せてよ。

 これじゃあ、恥ずかしくって穴があったら入りたい気分になる」


 彼女から差し出されたのは普通の大学ノートだった。

 手を拭いてからね、と彼女はおてふきを手渡してきた。

 僕は入念に手を拭いて、ノートを開いた。

 丁寧な字がぴしっと整列している彼女の性格が文字に浮き出ている。

 それにしても莫大な情報量だ、僕の『丘野なずな設定集』よりもさらに多いだろう。

 これは口頭で伝えるのは大変な作業になるはずだ。


「おかしいでしょう。この設定は非現実的」


 ソファにのけぞって眉根にしわを寄せて抗議する水谷。


「ん? ……体重のこと?」


「そうよ。身長が157センチで体重が43キロ? 

 ガリガリじゃないの。虚弱体質なの?」


「一般的な女の子はこれくらい軽いものじゃないの?」


「これだから……女の子と接点のない男子は。

 ……理想の彼女を作り上げるのもいいけど、これじゃバレるわよ。

 この体型でCカップなんて、ありえないじゃないの」


「そんなこと言ったら、柚木さんも187センチなんて馬鹿げてる。

 まぁ、実際いるかもしれないけど、日本人の男性の平均身長は173センチ前後だよ。バスケの選手じゃあるまいし、この身長は理想過ぎない?」


 僕らは知らず知らず理想を組み込みすぎていた。

 それは仕方のないことだとは思う。

 なんせ、彼氏彼女。

 自慢できる方が良いのに決まってる。

 だからこそ、僕らは互いの意見を尊重しあう。

 僕は女の子ではない、彼女も男の子ではないんだ。

 知らないことが多いし、見えないところで隙が垣間見えていた。


 それではダメだ。絶対にバレてはいけない。

 ボロが出るとそこから瓦解していくのが目に見える。


 僕は言われた通りに体重を体重を47キロにした。

 少し納得いかないけどバストもBカップにした。

 彼女も不服そうにしながらもしっかりと178センチにした。


「泉くんはノートにもこの内容を書き記すべきだわ」


「なんでノートにも書かないとならないんだよ。

 二度手間でしかないよ。それにけっこう多いよ、これ」


 ごくごくとカフェオレを飲み干す水谷。

 カップを机に置くと一息にまくし立てる。


「君はもし、携帯電話が水没・紛失したときに、書き込んだ内容が消えたときに、今までの丘野なずなと、一ミリも矛盾がない純度100%の丘野なずなを作り上げることができるの?」


 スプーンで僕をさして、彼女は顔をのぞき込むようにして凄んできた。

 思わず、尻込みする。確かにそうだ。

 バックアップを取っておくことで後々データを失うことになっても復活させることができる。

 しかし、ノートだと見つかりやすいのではないだろうか? 

 そう考えてみたけど、僕には両親しか家族がいない。

 引き出しに鍵でも掛ければ大丈夫だろう。やっておく価値は十分にある。


 ああだ、こうだと議論しながら、フレンチトーストをぺろりと平らげた僕を見て彼女がつぶやく。


「そろそろ目的地に行こうと思うのだけど」


「え? どこなの?」


「まず、すぐ近くの公園」


 僕らは喫茶店を出ると次に電車に揺られて、カップルで賑わう休日の隣町の公園を散歩した。

 寄り添う合うカップルが多い中、僕は恥ずかしくて居た堪れなくなった。


「だから、マスクは必須なの」


 自慢気にそう言う彼女の頭をコツンと小突きたくなる。

 今度こういうところに来るときは一声かけてからにして欲しいものだ。

 こんな姿誰にも見られたくない。

 できるだけ俯いてやり過ごすことにした。

 僕が挙動不審さを全開にしていると、彼女が含み笑いしながら伊達メガネを差し出した。

 ……あるなら早く出してくれよ。


 僕をこんな場所に連れてきた本人にいらだっていると、ふと、つい昔のことを思い出した。

 委員会の会議を僕に押し付けたこと、だ。


「この前、委員会を僕に押し付けていたことがあったけどさ。

 あれはなんでなの?」


 あのとき確かに、彼女を見た。確信はないけど聞いてみる。


「あーその日? あれは、好きな雑誌の発売日だったから……かしら」


「あのときの強引さは僕は忘れてないからね」


 僕は根に持つタイプだ。


 公園の池には池があって、あひるのボートがあった。

 ペダルを踏み込んで進むアレだ。

 彼女はあひるのボードに乗りたいと言い出した。

 そもそも、それが目的だったのだと思う。

 こういうものはカップルじゃないと不自然だから。

 僕は後学のために、としぶしぶ一緒に乗った。

 彼女はショートパンツから覗く健脚を、これでもかというくらい披露した。

 暴走気味の僕らのボートは、優雅な休日を堪能していたカップルの乗るボートに接触した。

 ゴツンという衝突音から、激突といってもいいだろう。

 カップルには怒られたけど、頭を下げながらあひるのボートはけっこう楽しいものだと思った。

 丘野なずなとぜひ乗りたいものだ。

 彼女となら、穏やかな幸せな時間を過ごせそうだ。


 その後、芝生を踏みアスレチックの並ぶ広場に向かった。

 そこのブランコで小休憩することにした。

 額に少し汗を浮かべた彼女とブランコに座る。

 僕は彼女の隣で遠くの景色をぼんやりと眺める。

 それにしても、こんなは子供みたいな無邪気な水谷は初めて見た。

 隣で、キコキコとブランコを漕ぐ水谷を見て、さらにそう思う。


 ……ごく普通のカップルたちはどんな休日を楽しんでいるのだろうか?

 僕たちがしていることはなんなのだろうか? 

 一般的なデートに含まれるのだろうか?


「とりあえず汗も引いたところだし、ペットショップへ行きましょ」


 お次はペットショップらしい。

 生まれてこの方、僕はペットショップなんて行ったことがない。

 僕の家はペット厳禁だし、僕も言うほど犬とか猫が好きではないから行く必要も行く機会もないんだ。

 それに自分より早く死んでしまうものを飼うなんて僕には耐え切れないものだ。


 店内は冷房が効いていて涼しかった。

 六月だというのに日差しはやたら強かったのでこの店の空調が心地いい。

 僕はいきなりどこかへ行ってしまった水谷を放っておくことにして、まず始めにコーギーとプードルの赤ちゃんを交互に眺めた。

 一匹一匹性格が全然違って面白い。しきりに動き回るコーギーが、言うなれば「動」。身動きしないプードルは、「静」。


 そういえば、丘野なずなは犬が好きだ。動物は飼ってない。

 設定の中に組み込んでやろうかな、なんて思ってしまう。

 犬のコーナーの近くに猫のコーナーがある。

 彼女は休日には家でゴロゴロするのが好きだ。

 そんな彼女には白い猫がよく似合う気がするけど、幼少期に彼女は猫に引っかかれたことがありそれがトラウマで猫に触れることはできないんだ。

 でも、彼女は猫が好きだ。猫を見かけると遠くから彼女は愛でる。

 彼女のそんな一面が、僕は好きだ。


 ふと視線を逸らすと爬虫類コーナーで硬直している水谷がいた。

 そばに行って、肩を指で突く。


「何してるの?」


「この蛇がね。微動だにしないの。それがすごく愛おしい」


 蛇は丘野なずなの苦手な生き物だ。

 彼女いわく、手足がないのが気味悪いらしい。

 じゃあ、魚はどうなんだと問い詰めたくなるが、彼女は蛇だけが無理なんだ。

 それにしても、水谷京香という人物は掴みどころのないやつだ。

 彼女の可愛い基準がわからない。

 普通の女の子なら、(偏見かもしれないけど)犬とか猫を真っ先に見ると思う。 でも、彼女は気味の悪い色の蛇とか、目だけをしきりに動かすトカゲを懸命に観察している。


「柚木薫さんは、アクアリウムが好きなんだろう? 

 僕はホトケドジョウが好きだけど彼は何が好きなんだ? 

 混泳させてそうだし性格的にもこだわりもありそうだね」


「ホトケドジョウ? 混泳?」


「それは……よく調べてないの? 前に図書室で専門書読んでなかったっけ? 

 アクアリウムについて書かれた図解付きの本」


「今日調べるから。帰ったらすぐに検索するから」


 熱帯魚のコーナーに足を向ける水谷。僕もその後ろについていく。

 彼女はエンゼルフィッシュを指差して、彼の大好きなやつ、と言った。

 どうやら、名前を忘れてしまっていたらしい。

 僕はその隣の水槽でのんびりと優雅さのない泳ぎをするホトケドジョウの説明をすることにした。


「ほら。ホトケドジョウってのは、ドジョウのくせに観賞魚なんだよ。

 低い温度が苦手で、底にいてばかりじゃなくて泳いだりもするんだ。

 呆けた顔になんか愛らしさを感じない?」


「泉くんはそのホトケドジョウに似ているんだわ。だって、浮き沈み激しいし、間抜け面。まさに同類」


 その一言に含まれたトゲがチクチクと僕を痛めつけたが、彼女はそんな僕を見ることさえせず、レインボーフィッシュの水槽を無表情で覗き込む。

 そんなこんなで何も買うことなく、冷やかし同然でペットショップを後にした僕たち。

 他愛のない話をしながら駅まで歩いた。

 いつの間にか日がとっぷり暮れていた。

 自宅に着く頃にはもう真っ暗になるだろう。




「今日はありがとう。

 一人では行きにくいところも君と一緒だから行くことができたわ」


「それはよかった。僕もけっこう充実した一日だったと思うし、なにより、とにかく、反省してるよ。

 自分の彼女は、理想が入り混じりすぎてかなりボロが出ていたんだってことに気づかされた」


「お互い様だわ。

 私も泉くんのおかげで薫くんが、さらに薫くんに近づいたのだから。

 今度は、水族館へ行く予定だから一緒に来たかったらいつでも声をかけてね」


「ああ」


「あ、それと……」


「なに?」


「丘野なずなの設定集をノートに書き写す作業、バックアップを取ることを忘れないように」


 彼女は親切にそう言って微笑んだ。



 僕は水谷京香といることが多くなった。自然と友人と絡むことが少なくなった。致し方ないことである。

 運命共同体とも言える僕らは傍から見たら仲良しに見えるかもしれない。


 今日もこうして、図書室の隅っこのテーブルで計画というか、会議というか、雑談交じりの嘘の練り上げをしていた。

 丘野なずなは結構本格的に仕上がってきた。

 もう彼女の姿がはっきりと掴めそうだ。


 柚木薫もしっかりと仕上がっていっている。

 僕のアドバイスにより彼の仕上がりに拍車がかかったらしく、水野は興奮気味に浮かれ気味に設定の話をする。

 彼にゾッコンといった感じだ。


「お前、水谷京香と付き合ってんの?」


「そ、そんなわけがないだろう」


「でも、仲が良すぎないか?」


「大学受験の話さ。彼女とは志望校が同じなんだよ。彼女、優等生だろう?

 事前のリサーチ力がこれまたすごくてさ、頼りになるんだよなー」


 耳たぶを触らない。姿勢をしきりに正さない。


「ふーん。俺はまだまだ考えたくもない話だな。

 この二年生は遊べる最後の時期だし、青春を謳歌しよう派だからな、俺は」


 うまい具合に信じられた。どうやら、嘘吐き力というか欺瞞がうまくなったものだ。


「今度のテスト勝負しようか」


「いや、俺はちょっと……。他のやつとしてくれよー。

 負ける戦いをするほど愚かじゃねーよ、俺は」


 僕だって、キープしかしていないから高得点は出せないよ。




 しばらく経って、また似た話題を振られた。女子生徒たちからだ。

 昼休みに弁当を食べつつ『丘野なずな設定集』を吟味していたところで声を掛けられた。


「ねぇ。水谷さんと泉くんは付き合ってるの?」


「どうして?」


「この前ね。どっかの公園でふたりが歩いていたって言ってた子がいてさ。

 半信半疑なんだよねー。だって、二人とも彼氏彼女いるんでしょう。

 そんなのってありえなーい、と思ってるんだけど。

 実際どうなの? え? 二人仲良くしちゃってさー」


 なんてことだ。人の目というのはどこにあるのかわからないものだ。

 僕は前と同じ説明を、志望校仲間だという嘘を吐いて、公園の件は適当に「人違いじゃない?」とうやむやにした。

 ふぅ、困ったものだ。その後、話題を逸らして、無事に会話を終える。

 『話を無理に終わらそうとしない』。しっかり心がけている。


 その日の放課後、僕は水谷にそのことを伝えた。


「付き合ってるかも、なんて良からぬ噂がびたびた流れてるよ」


 歩道橋の上で、彼女はあんぐりと口を開けた。


「なんて馬鹿なのかしら。君と私? ふざけてる」


 水谷はぷりぷりと怒り抗議をする水谷。

 僕のことを意識してるとは到底思えない。

 僕もそうなんだから。僕たちは付き合ってなどいない。

 嘘の共有者だ。

 それだけだ。


 そう思われていても仕方のないことかもしれない。

 けど、僕らはお互いに利用しあわないと嘘を守り抜くのに疲れるし、ボロをなんとしても出したくない。

 だから今日もこうして歩いている。

 夕暮れの通学路を一緒に歩いている。


「では、では。泉くん。さようなら」


「うん、ばいばい」


 いつものバス停で僕らは別れる。もうすぐ夏休みだ。

 夏休みなのだけど、水谷に付き合わされるハメになるのだろうと思う。

 別にそれはかまわない。

 彼女といることで収穫は結構あることが前のおでかけでわかったから。

 退屈しのぎに駅まで、丘野なずなとのデートの構想をする。


「私、海に行きたい」


「あー、運動の中でも泳ぐのは好きなんだったんだっけ?」


「プールでもいいからさ。泳ぎに行きたいよね」


「なんで泳ぐのが好きなの?」


「なんだか空を飛んでいるみたいじゃない? 

 綺麗なプールで泳いでいるとそう感じちゃうんだよね。

 日差しがある日はさらにそう思えるんだ。

 水面が煌めいていてね、底に波の影ができるんだよ。

 それが幻想的で忘れられないの。何度も見たくなる。

 それになんといっても、水の中って気持ちいいでしょ?」


 彼女はそう言ってはにかんだ。


 脳裏で丘野なずなが出現した気がした。

 慌てて周囲を見渡しても、そのような人影はない。

 近くにいたおばさんに訝しげに眺められただけだった。

 電車に揺られて、僕は家路に着いた。

 今日は、プレッツェルを作る予定だ。




『山登りしよう』


 そんなメールが寝ぼけ眼の僕の元へ届いた。

 夏休み最初の一日のことである。

 僕は学校に行かなくてもいいという解放感から昨日は夜ふかしをしていた。

 メールの文面を読み終えると、僕は返信した。


『いつですかね?』


『今日の正午。学校に来て』


 なんということだろう。時計はあと45分で真上を指す。


『遅れるかも』


『三秒で支度しなさい(´・ω・`)』


 僕は携帯電話をポケットにしまうと、服を着替えて、欠伸しながら歯を磨いて、外へ出た。

 雲ひとつ、欠片さえない、一面の快晴。

 その眩い光が僕の頭に痛みを引き起こす。


 学校にたどり着いた。

 Tシャツ短パン野球帽の少年のような水谷が正門で腕を組んでいる。

 案の定、遅刻したが怒ってはいないようだ。

 ただ、うつむき加減でどうやらふてくされているようだった。


「山登りって……急過ぎない?」


「思い立ったが吉日」


「そうか。まぁそうかな。ここじゃ、また噂立つから行こうか」


 僕らはてくてくと歩き出す。

 商店街を抜けたところにある、ロープウェイのある近くの山に登るらしい。

 夏休みを迎えて、若干の盛況を見せる商店街を通り、山道に向かう。


「私は山登りが好きなの。でも、一人は寂しくて、君を誘ったわけ。

 たぶん迷惑だったと思うけど来てくれて私は嬉しい」


「柚木薫さんがいるから平気、なんてことはないだろうしね」


「まぁ、そうだけど。あら、スニーカー? 山登りを舐めているのかしら?」


「君はランニングシューズ?」


「そう。お気に入りのやつ。ランニングは日課だから」


 山道を僕らはひたすら登り続ける。

 舗道がされていても、苦しいのには変わらない。

 ぜぇぜぇと肩で息を切る僕の前を歩くのとさも変わらないといった様子で登り続ける水谷。そんなにアクティブなら部活動にでも入ったらどうかと思う。


「山登りが好きって、ズレてるわよね……」


「そんなことはないと思うけど」


「でも、誰もそんな趣味開けっぴろげに話さないじゃない?」


「まぁ、高校生にしては渋いかもしれないけど。好きなら好きでいいじゃないの? 個性だよ。それより、少し休もうよ」


 石段に腰を下ろすと、僕のおでこに冷たいモノが当たった。


「冷やしたお茶。飲むでしょ?」


「ありがとう」


 彼女は僕の隣に腰掛けると、行き交う登山者に挨拶をする。

 森から溢れ出すマイナスイオンには人を優しくする効果があるのだろうか。


「そのコミュニケーション能力があれば、学校でも君に興味を持ってくれる人が増えると思うけど」


「学校とここでは空気が違うの。ここにいると気分がいいわ。ところで、ここまで連れてきて、というか連れ回してしまったけど、泉くんは私といてどう?」


「どうって……」


「楽しい?」


「まぁ、意外と楽しい、かな」


「なるほど」


 水谷京香は満足そうに口のはしを持ち上げる。

 頂上は涼しかった。風通しが良くて、下で吸う空気よりおいしく感じた。

 山登りが好きな人は、こういう達成感やここでしか味わえない空気が癖になっているんだと僕は思った。

 そして、とても素敵なことだなと、趣味のない僕は感じた。

 すがすがしさに包まれながら、街の景色を一望できる場所に立つ。

 展望台だ。ここの高い柵にもたれて空を眺める。

 自分のちっぽけさを痛感するけど、ここに来ると忙しなく動く人の小ささに笑ってしまう。

 あくせく働いていようが、必死に勉強してようが僕たちはあんなにも小さな存在でしかないんだ。

 隣で髪をかきあげる水谷に、僕はすかさず言う。


「丘野なずななら、ここで『ヤッホー』と叫ぶ」


「ヤッホー!」


 水谷が大きく口を開けて叫んだ。『ヤッホー! 』と山彦が帰ってくる。


「どう?」


「心がスッとする」


「ちなみに柚木薫さんならどうする?」


「あそこの休息所でへたばってる」


 僕らは山頂の眺望に満足すると屋根付きの休息所のベンチで疲れた足を休ませる。

 親に百円玉をねだり観光望遠鏡を覗き込む子供たちを見て、水谷はくすりと笑った。


「小さい頃、僕もああやって親にねだってたなぁ」


「そう」


「百円なんて、けっこう大金でさ。お手伝い10回分なんだもんなぁ、毎日皿洗いがんばってたよ。……って話聞いてる?」


 彼女は家族連れを羨ましそうに眺めている。

 彼女の目の前に手をかざす。


「どうしたの?」


「今日はお父さんと喧嘩したから……少し昔にもどりたくなっちゃって。今日ここに来たのも家に居たくないからなんだよ」


 なるほど、だから召集をかけたのか。でも、なぜ僕なのだろうか。

 彼女には僕以上に仲の良い友達がいないのか?


「いざこざはどの家庭でもあるよ。自分のダメなところを認めて謝るのが大切だよ。そうじゃないと後悔するからね」


「わかってるけど。けっこういいこと言うね」


「すんなり呼吸するみたいに言えたらいいんだけど。もう癖になっちゃって、言えないのよ、ずっと」


「今度はさ、海に行こうよ。丘野なずなが行きたがってるからさ」




 八月初旬。

 僕らは、始発に乗って海に行った。泳ぐことはしなかった。

 近くから遠くから、押し寄せる白波を眺める。

 水平線に消えていく貨物船の行き先を考えたり、入道雲のでき方を水谷に教わったりした。


「ねえ、海っていつ以来?」


「中学二年生かな」


「私は小学六年生以来。あの頃は、泳ぐのが楽しかったけど、眺めているのもいいものだわ。しみじみとそんなこと考えてるけど、ババくさいかしら?」


 他愛のない会話しながら二人で砂浜を歩いて、たまたま見つけたベンチで休憩したりする。昼に海鮮丼なんかを食べて、地元に帰る。


 夏休みはいろんな場所に訪れた。

 ほとんどが一人で電車賃をケチった自転車の旅だったけど、たまに水谷から電話があって一緒に県外へと日帰りの旅行に行ったりした。


 旅費は折半がほとんどだったが、僕のお小遣いはチンケなものだ。

 だから、貯金を切り崩したり、水谷京香に借金をすることになったりした。


「お金なんて、ただの紙切れよ」


 そう言った彼女が羨ましかった。よほど、お金持ちなのだろう。

 僕は冗談で、「お嬢様、ありがとうございます!」と言った。

 彼女は寂しそうな顔して、「ばーか」と罵った。


 僕はその時の顔を、忘れないと思う。あんな顔をしたのは初めて見たからだ。


 水谷に誘われて標高の高い山にも登った。

 

 水族館にも行った。柚木薫とよく行くらしい遊園地にも行った。

 ジェットコースターに何度も乗れるタフさを水谷は持っていた。

 僕らは夏休みを費やして、恋人との思い出を構築していった。

 たまに、また設定を見せ合う会議と、夏休みの宿題を一緒にした。

 そのうちに柚木薫という人物にも愛着が沸いてしまった。



 今日、僕らは最後の遠出をした。

 集合時間はかなり遅く、午後6時だった。僕は漫画を読みふけっていたせいで駅前に着くのに五分遅れた。

 駅前には、これから花火大会に行く人や帰宅中の社会人たちで溢れている。


 しゃんとした背中は見当たらない。


「怒ってるかなぁ……起こると面倒なんだよな」


「だれが面倒なの?」


 振り返ると水色の浴衣を着込んだ水谷がいた。

 浴衣には数匹の小さな金魚が描かれている。


 彼女によく似合った浴衣だった。


「なによ。どこか変? なにかついてるの?」


「いや、馬子にも衣装っていう言葉が……」


「浮かばないよね? そうでしょ?」 


 手首をひねられて、僕は駅の中に引きずられてしまった。

 日が沈んだ湖畔で、花火大会は行われる。

 何十年も前からここで花火が上げられる、もはや伝統行事だ。


 真っ暗な地上を色とりどりに照らす花火。


 立ち並ぶ様々な屋台、大勢の観客、沸き立つ歓声。


 夏だなぁ。


 かき氷をしゃくしゃくと食べながら石段に腰掛ける。

 早めに場所取りをしていたのでいい塩梅に花火が見える。

 ひんやりとした石段の温度を布越しに感じながら、色取り取りの花火に目を奪われる。


「柚木薫さんって……かっこいいなぁ。気取ってないし優しいし」


 僕の右隣で浴衣姿の丘野なずなが呟く。浴衣の中で朝顔がきれいに咲いている。彼女はこれがお気に入りだという。

 わたあめを持って、頭には僕が買ってあげた狐のお面をかけている姿は可愛かった。

 黒い瞳に映った花火がキラキラと光る。

 楽しげな表情が、この時間が愛おしい。


「そうだね。あの人は僕から見ても素敵でかっこいい」


「水族館であの人の博識ぶりったらすごかったよね。わたし感心しきりだったよ!」


「町内会で来ていた子供たちより興奮しすぎていたね。もう大人なのに、子供みたいでさ。笑えた」


「ふだんと違う一面が見れて楽しかったね。あれこそ、ギャップだね。ギャップ」


 下駄の鼻緒が足に擦れてるのだろうか、彼女はそう言いながらしきりに足を気にしている。


「慣れない下駄だから、鼻緒で擦れたの?」


「違うの。蚊にかまれちゃったから、痒くて痒くて」


 彼女は子供のように無邪気に笑った。そんな仕草を見て、いつにも増して僕は丘野なずなが好きになった。


「掻かない方がいいよ。蚊が血を吸うときに出す成分が広がっちゃうから」


「なにそれ?」


「唾液? みたいなものかな。それが痒みの原因なんだってさ」


「ふーん、そうなんだ。

 なんだか、気持ち悪いね。知ってることもなんだか気持ち悪い」


 なんでさ、と軽くショックを受けている僕の左隣に水谷が座った。

 パチンと弾けるように、彼女の存在が消える。

 

「タイミング悪いなぁ」


「なにが? わたしのせいで花火見えなかった?」

 

 あれだけ外出したのに、相変わらずの白く、つるんとした肌をしている。

 彼女はあまり日焼けをしない体質らしい。

 そんな水谷が焼きそばを食べながら、話し始める。


「最近、まともに見れるのだけど」


 くちびるに付いた青のりを指摘する。彼女はあわてて口元を拭った。


「最近まともに見えるの」

 

 彼女は繰り返す。


「何が? 幽霊? 霊感があるの?」


「どアホね。そんなの薫くんに決まってるじゃないの。今、あなたの前で花火の妨害してるわ」


 どーーん、と打ち上げ花火が上がる。僕らの姿を色鮮やかに染める。

 沸き立つ歓声。

 柚木さんは僕の目の前にいない。彼女にしか見えないのだろうか?

 僕と花火の間には、存在しないし見えない。


「僕には見えないよ」


 僕がなずなをたまに見るように、彼女も薫くんを見てるのだろうか?


「びょうき、だとしたら感謝だわ。ありがとう、病気。

 ……あ、たこ焼き貰っていいかしら?」


「うん、一個だけならいいけど。よく食べるね、水谷さんは」


「まぁ、成長期だから。太らない体質だから。ほとんど胸に行くから」


 熱々のたこ焼きを齧りながら、僕はもうすぐ夏休みが終わってしまうことにうんざりとした。どうして、楽しいことはあっという間に過ぎ去るのだろうか?


 なんで、どうして。 


「なんで、夏休みはすぐに終わっちゃうのかしら……」


 僕の気持ちを水谷京香は退屈そうに代弁した。


 八月の終わり。僕らは同じことを思っていた。


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