第47話 『キャルメロ』の場合Ⅳ
※「『キャルメロ』の場合」はⅠ〜Ⅴの5部構成です。
※いつも以上にショッキングな描写や倫理的に問題のある展開が続きます。無理だと思ったら迷わずブラウザバック。
思いついてから行動までは速かった。
元々多くない荷物をまとめる。要らないものは処分する。部屋を引き払う手続きを済ませる。パスポートのホコリを払う。良かった、ギリギリ有効期限内だ。そして飛行機のチケットを取る。
数日後、空港へ。
「おなかが、重いわ……くっ」
あとは乗り込むだけ、のハズだった。
保安検査で鳴り響くブザー。
「え、私何も持ってないわよ」
「恐らくピアスが原因かと……」
「あっ」
失念していた。私の身体は上から下まで金属まみれだ。金属探知機に反応しないワケがない。しかもいくつかは体内に埋まってしまっているし、その中には針とかの危険物もある。さすがにナックルダスターほどのモノはもうないが……。
「ごめんなさい。すぐ外してくるから」
一旦保安検査場から退避しトイレに駆け込んで、外せるだけ外すことにした。
「あーもう……」
この数のピアス、大体着けっぱなしで外すことはそうない。工具類は持ってきてないし一つ一つ指で外すしか……ああ、おなかが邪魔っ!
そんなこんなで、外し終える頃には出発時刻をとっくに過ぎていた。多目的トイレの大きな鏡に向き合う。ピアスの着いていない自分の裸体など久々に見た。タトゥーは相変わらずだが、異物のない素肌をこうやって撫でてみると、思いのほか気分が良い。時折脈打つおなかに手を置いて「何やってんだろうな」と途方に暮れた。
幸いなことに三時間後の飛行機に空席があったようでチケットはそこに振り替えてもらえた。ボーっとしながらただベンチに座って待つ。携帯端末は解約して処分してきた。端末がなければこの国ではおカネすら使えないのでいよいよ何もできなくなる。まあ、この国にはもう戻らないつもりだからどうでもいいか。
待つ。
ただ、待つ。
そのときは突然来た。
バツンッ
「は?」
風船が弾けたような音がしたかと思えば、股の間から温かい液体がドバドバ漏れ出してきた。尿もれかと思って焦って止めようとするも止まらない。あれよあれよと足から床まで水びたしに。
「え、ちょ、これ……待っ……」
破水だった。
おかしい。普通陣痛が来るのが先じゃないのか。パニックになりながら再び多目的トイレに駆け込む。そこでようやく、立てなくなるほどの鈍痛が下腹部へ訪れた。息も絶え絶え、一旦便器に腰かけ、パンツを引きずり下ろして状態を確認し、さらに血の気が引く。『頭』が、もう見えていた。陣痛も何もあったもんじゃない。今にも産まれそうだ。
「……お、お産って、フツー……二十四時間とか、かかるもんじゃないの……?」
ともかくもうここで「産む」しかない……!
便器から立ち上がって力みやすい体勢を探した。ばっちいけどまず普通のお産のように床に仰向けになってみた、が、駄目だ。硬い床の上じゃ上手く力めない。床に手をついて、四つん這いになり、お尻を突き出してみる。仰向けよりは力みやすいものの、ただただオシッコが噴き出すばかりで赤ちゃんが出てくる感覚がない。こうなったら、立って、物理的に赤ちゃんが下りてくるようにするしかない。立ち上がり、中腰になり、便器のフチに手をついて体を安定させ……よしこの体勢だ。しかしこのまま産むと赤ちゃんが頭から床に激突してしまうな。出てくる感覚があったら即座に手を離して、キャッチだ。それでいこう。よし。よし。力むぞ。よし……。
「くっ、…ふうぅぅーーー……ふうううぅーーーーーッ………くうっ、ふううーーーーッッ……はあああ…………」
今にも血管が弾けそうな脳内に、ふと、いつだったかのピートとの会話がよぎる。定期的にニュースになる「人知れず出産して遺棄する女」はなぜひとりで出産できるのか。いざその立場に立ってみて理解した。単純な話で、因果関係が逆。「たまたま産めてしまったからニュースになった」んだ。上手く産めなかったら、単なる救急搬送とか、突然死とか、そういう感じの全く別の事案になるだけだ。ニュースにならないだけで多分そういうのも沢山あるんだろうな。
「ふう……ふう……」
……なんだか急に体が冷えてきた。冷や汗と、吐き気と、めまいも。脚に力が入らない。多分血圧が急激に下がってきているんだ。このまま長引くと意識が落ちかねない。一気にいこう。
「はぁぁぁあああ………ッ………はぁぁぁあああああああああああ………ーーーああああ!」
ズルゥッ。
産道を破り裂きながら「下りてくる」感覚があった。即座に手を便器から離し、股の下へ。股を大きく開き、ぐんっ、と腰を落とし、肩くらいまで出てきた小さな身体を半ば強引にひきずり出す。
「あああっ……!」
ズルンッッと激しい音をたてて、ついに、産まれた。勢いでバランスを崩し背中から倒れる。落とさないよう必死に抱きとめたその身体は、火傷しそうなくらい熱かった。
ああ。この子が私とユーの……。
『感動』などと呼んでいいのか分からない、胸の震えを噛み締めながら、そこで私の意識はブラックアウトした。
「あっ? 寝てた!?」
意識が覚醒。視界の砂嵐が徐々に晴れていき、全身にじわじわ血が巡っていく。眠った脳を叩き起こして状況を確認した。
床にまき散らされた体液の乾き具合からして、気絶してからそこまで長い時間は経っていないはずだ。あまり長時間トイレにこもっていると従業員が巡回にくるので、まあ一時間は経っていないだろう。
……などと冷静になったところで、ようやく「真っ先に気にすべきこと」を思い出した。胸に抱いた小さな命。
小さな命、だったもの。
そこにもう命は無かった。
あれだけ熱かった柔肌はもう熱を失って、カエルの死体みたいに力なく、だらりと手足をぶら下げている。これは死んでどれくらい経った? 今すぐ蘇生をすれば息を吹き返すかも。昔観た映画でも、産まれたての仔犬が死にかけているのを蘇生していた。それと同じように……。
「……いや、もう、いいや」
そもそも私はこれの産声を聞いたか? 産んだ直後すぐ気絶してしまったが、そのときから息をしていないのであれば、もうとっくに手遅れだ。それになんだか、なんだろう、頭ではこれが非常事態だと分かっているのに、心がそれに追いついてこない。何かしなきゃという気が一向に湧かない。怠い。とにかくそれだけ。ああ、でもまた飛行機に乗り遅れたら面倒だな。
股から出ているへその緒と胎盤を引き抜いて、動かない赤ちゃんを洗面台で水洗いし、上着で一旦包んだ。それからビチャビチャに汚した床や壁を軽く掃除し、濡らしたペーパーで自分の体を清拭して、服を着た。
「赤ちゃん、どうしよう」
そういえば空港のどこそこにコインロッカーがあるな。上着に包んだままアレに入れておけば「とりあえずこの場はなんとかなる」な。……なるほど。赤ちゃんをコインロッカーに遺棄する人ってこういう心理か。まあでも、そしたら絶対監視カメラに映るし。変に隠すよりはもう「初めから赤ちゃん連れでしたけど?」みたいな顔して抱っこしたまま通過しようか。どうせもう後戻りできないトコまで来てしまったのだから大胆にいこう。それでバレたら、そこでおしまい。それでいい。
「赤ちゃん用品。せっかく買ったのだから……一度は使わないと損よね」
手荷物に最低限だけ入れてきた赤ちゃん用品。取り出して、並べる。へその緒がついたままの冷たい身体にオムツをはかせ、小さな服を着せ、小さな小さな靴下をはかせて、抱っこひもを掛けた。帽子もかぶせて……うん。しっかり抱いて顔さえ見せなければ、ぱっと見はただ寝ているように見える。
再び鏡越しに見る自分の姿はママさんの真似事をしていて実に滑稽だった。
再び保安検査に臨む。
恐る恐る検査員の顔を見た。さっきの人とは別人、のように見える。さすがにさっきまで妊婦だったのが赤ちゃんを抱いていたら驚かれるだろうから交代してくれてるなら助かった。赤ちゃんの顔が見えないように、しっかり抱いて、自然に。ここさえ通過できれば出国できるから……。
「……あのぉ」
「は、はい、何かしら?」
「えらく体調が悪そうですが」
「ああ赤ちゃんね、ちょっと熱出しちゃって、ただの知恵熱みたいだけど……」
「いえ赤ちゃんではなく貴女が、すごくキツそうに見えるのですが、大丈夫ですか?」
大丈夫なわけがない。出産直後で本来ならベッドの上なわけで、立っているだけで奇跡。息をするのもツラい。まだ股の間から変な汁が止まらないし、脚に力が入らなくてガニ股でガクガクしている。顔色も最悪だ。
「寝かしつけで徹夜続きで、ね。でも飛行機の中で寝ていくから大丈夫よ」
「そうですか。ちなみに生後どれくらいで?」
「えーと、に……1ヶ月半くらい?」
検査員は少々怪訝な顔をして赤ちゃんを覗き込もうとしてきた。
「ごめんなさい、ようやく寝てくれたとこなの。できればそっとしてくれないかしら」
「ああ申し訳ありませんでした、どうぞお進みください。どうか良い旅を」
本気で申し訳なさそうに謝る検査員へ精一杯の愛想笑いをして、検査場を通過した。ダマして悪いが、満身創痍が結果オーライだ。
そうしてようやく飛行機に乗り込んだ。
少しのあいだはゆっくりできる、と思うと全身の力が抜けて、ひどい眠気が押し寄せてきた。思えば最近ムチャしすぎだな。肉体的にも、社会的にも、短い期間で何度も死にかけている。その結果分かったことだがどうやら私は身体が丈夫なほうらしい。こればかりは、丈夫に産んでくれたママに感謝だ。加えて痛みには慣れているからこのズタボロの身体でもなんとか活動できている。まあ、なんだ、被虐趣味の自覚はあったがここまでとは。我ながらちょっと引く。
「来るトコまで来ちゃった感あるわね、ふふ」
向こうに着いたらもう帰らない。そのまま不法滞在してでもJP国に定住してやるつもりだ。どうせもう犯罪者だから。願わくば、どこか静かなところで、今までとは違う穏やかな生活がしたいものだけど。
眠りこけながらも、胸元の赤ちゃんを強く抱きしめる。
「居場所なんてあるわけないのにね……」
そのまま泥沼のような眠りへ沈んだ。
夢はほとんど見なかったように思う。深く眠りすぎて呼吸すら忘れていた気がする。頭の中の砂嵐を振り払うと、そこはもうJP国だった。
空港から出て私はしばらく呆然とする。
景色は向こうとそう変わらない。単一民族の国と言ってもこの辺は旅行客ばかりだし、今どきどこの国でも似たような建築ばっかりで、特に目新しさはない。ただ何をすればいいのか、まったく分からなかった。ユーが貯め込んでいた『現金』は持ってきたものの、使い方が分からないのだ。バスにはどう乗る? 切符はどう買う? ただの買い物のレジにしたって、金額を数える習慣がないからちゃんと払えるかわからない。ケータイがないから調べることすらできない。困った。
「ヘイ、エクスキューズミー! めいあいへるぴゅー?」
突然話しかけられた。
小柄でわりと良い身なりのおばさんだ。
「ふぇあーアーユーフロム?」
「ア、ア、……あー」
急になんだ、観光客をカモにする詐欺とかか、と一瞬思ったがどうやら害意はなさそうに見える。
「私、コトバ少し、できるますわよ」
自分でも驚いた。自然とこの国の言葉が口を出ていた。そりゃあユーの影響でアニメをみたりして、分からない言葉は調べたり、自分から勉強も少しはした。しかし実際しゃべったのは初めてだった。勉強は苦手なはずなのに案外身につくものだ。
私はたどたどしい言葉で自分の出身とバスや電車の乗り方が分からない旨を伝えた。
「あそこは現金を使う習慣がないものね。ワタシもちょうど駅へ行くところだから、一緒に行きながら教えてあげるわ」
「ありがとうゴザイマスわよ」
最寄りの駅までは徒歩だ。バスに乗る必要はないようなので、バスの乗り方は歩きながら口頭で教えてもらった。
「昔は交通系ICが便利だったのだけれどね、地方との格差がどうしても生まれてしまって廃れたわ。今は現金かクレジットカード払いが主流よ」
「勉強になるますわよ」
「ああ、そこは『なります』が自然ね。もしくは『なるわ』かしら」
「勉強になり、なるわ……?」
「そうそう。外人さんには語尾の活用がむずかしいわよね。これは勉強するより実践で慣れるのが一番よ」
言葉まで教えてもらった。なぜこの人はこんなに良くしてくれるのだろう。不気味だ。
それはともかく、色々教わりながら歩いていると駅へ着いた。どこへ向かうにしてもまずここから電車に乗るらしい。現金しかないので切符を買わねばならないが、券売機の使い方以前に、路線図の見方も分からない。普段は決まった駅で乗り降りするだけで、支払いもアプリが全自動でやってくれるのだ。
「そういえばあなた、目的地はどこかしら?」
目的地。
行くべき場所は決まっている。
「……C市」
JP国で初めて『こうのとりのポスト』が設置された場所、そして内密出産が最初に行なわれた病院が、C市にあるらしい。もはや必要なくなったけれど当初の目的に従おう。
「それならまず在来線でA駅まで行くといいわ。そこから新幹線に乗ればC駅まですぐよ。切符の買い方は……〜で〜………〜券売機の使い方が分からなければ窓口もあるから〜……」
実際に切符を買って見せながら教えてくれた。
なるほど大まかには理解できた。まずは路線図を見て……うーん?……いや入り乱れすぎじゃない? まるで迷宮。この国はこれがデフォなの? 前もって路線の知識を入れとかないと料金を見るだけで一苦労だ。それで料金がこれくらいで、財布から現金を出して、紙幣を入れるところが、ええと、どこかしら……。
「早くしてくれんかそこの外人!」
「ああごめんなさいわ」
「うおっタトゥーやっば!?」
いけない、ちょっと混んできた。はやく切符を……と、よし、これで……。
どんっ
「ウッ!」
後ろから人がぶつかってきた。転んでしまって、周囲の視線が一斉に私へ突き刺さる。まあ、好奇の視線を浴びるのは慣れっこなのだけど。しかし何か変だ。
「あ」
視線は私へ、ではなく、胸元の赤ちゃんに刺さっていた。赤ちゃんの帽子が外れてどこかへいってしまっていた。
「っ……!」
見渡しても帽子は見つからない。発券された切符だけ取ってその場から逃げ出した。息も絶え絶え、自分の乗るべき路線のホームを探し出し、たどり着いた。ここまで来れば大丈夫。大丈夫のはずだけど、何だかずっとだれかに監視されているような気分になってきた。赤ちゃんを隠すようにいっそう強く抱きしめた。
「ちょ、ちょっとあなた、いきなり逃げることないじゃないの」
ああ、おばさんを置き去りにしてしまっていた。走って追いかけてきたみたいだ。確かに、お世話になっておいてこんな形で急にお別れするのは忍びない。紙幣を一枚取り出して、渡す。こういうとき現金は便利だ。
しかしおばさんはそれを固辞する。
「この国にチップの習慣はないのよ、あなた」
知っている。勉強したから。
「それより何かワケアリなのでしょう? 見ればわかるわ。でも、詳しくは聞かないから。どうか。どうか。無理しないでね。きっと助けてくれる人はいるから、どうしても困ったら、ちゃんと助けを求めるのよ」
おばさんは一方的にそう告げて去っていった。去り際に、赤ちゃんの帽子を渡して。落ちたのを拾ってくれていたみたいだ。何かカサカサと異物感があり帽子の中を見てみると、親指くらいの大きさの個包装のお菓子が三つほど入っていた。ヨウカンとかいうやつだ。ポケットに突っ込んで、帽子を小さな頭へ深くかぶせた。