第46話 『キャルメロ』の場合Ⅲ
※「『キャルメロ』の場合」はⅠ〜Ⅴの5部構成です。
※いつも以上にショッキングな描写や倫理的に問題のある展開が続きます。無理だと思ったら迷わずブラウザバック。
ユーの顔の火傷は範囲こそ狭いがかなり深刻だった。右頬に手のひらくらいの大きさ。真皮まで硫酸が侵食して皮膚を焼いてケロイド化し、間違いなく一生残るであろう火傷痕になってしまった。私は馬鹿だ。今さら、私は初めて、ユーに対し声を荒らげて叱った。なぜ自分にも硫酸がかかっていることを早く言わなかったのか、などと。叱るべきタイミングは今まで何度もあったろうに。「ボクよりキャルメロのほうが大切だと思った」と泣きながら弁明する彼を見下ろして、ようやくユーがまだ未熟な子どもなんだと思い出したのだ。
それでも私はユーの『仕事』を止めることができなかった。あんなことがあったにも関わらず、だ。包み隠さず言うならば、お金を貯めてJP国に行くという彼の夢をさえぎりたくはなかったし、止めたら止めたで多分彼はここを出ていってしまうだろうし、もし出ていったらその後どうなるかわからない。……いや、この期に及んで彼を『ひとりの人間』として見ようとしていたのかもしれない。なぜなのか。上手く言えないが、そうしなければ何か自分の中にある柱みたいなものが壊れてしまいそうな気がするのだ。
しかし結局、もうユーはほとんど客を取ることができなくなっていた。火傷のせいだろう。それまでのお得意さん達はみんな気まずい感じになって離れていったし、ただ気味悪がられたり哀れまれたりするばかりで新規の客もつかなくなったそうだ。ドラマなんかではちょっと顔にアザがあるとかで悲劇のヒロインになる話があるけれど、内心では「多少アザがあっても美人は美人だしそこまで大げさなことか?」などと疑っていた。現実、そんなもんなんだな。あるいは性のことが絡むと特段そうなるのだろうか。中には「むしろそれが魅力的だ」などと言ってくる人もいるものの、変な性癖をひけらかしてくる奴は大体頭がおかしいので関わらないほうが良い……とユーは語った。
そして私は私で、完全に仕事をバックレて部屋に引きこもっていた。
貯金もロクに無いので生活費を稼がねば。と頭で分かっていても身体が動かない。精神的に病んでしまったのか、単に怪我の具合が悪くて負担がかかっているのか、自分でもよくわからない。ただユーが仕事に出かけて部屋にひとり取り残されると、言い表せない孤独感が重くのしかかってくる。深く深く気持ちが沈んで、体調も悪くて、窒息しそうな気分で、そこに追い打ちをかけるように、ずっと止まっていたはずの生理が来た。寝起きで体を起こした拍子に血の塊がどろり。ヤバいと思ったときにはもう手遅れ。ひとりでヒステリーを起こしながら、鉄臭くなった下着とシーツを燃えるゴミに突っ込んだ。もう何もしたくない。でもこんな見苦しいところユーには見せられないので彼が居るときだけは気丈に清潔にふるまった。そんな感じでドン底メンタルを何日か耐えると、生理も治まってきて、ようやく少しだけ気分が上向く。何か気を紛らわすものが欲しくなりサブスクを漁っていたら、とあるアニメ映画が目についた。JP国の昔のアニメだ。絵柄はあまり派手さがなく、なんというか全体的に平たい感じがする。こういうのもあるんだな、とあらすじを読んでみる。……主人公は数学が得意なだけの地味な男子高校生。ある夏の日、メールに送られてきた謎の暗号を解いたことがきっかけでAIの反乱が起き大規模な混乱を招いてしまう。家族、友人、そしてヒロインと手を取り合い、共に暴走AIを倒すべく立ち上がる……。まあ健全そうな内容だ。アニメは食わず嫌いしてきたが、試しにひとつ観てみよう。
「なにこれすっごい……」
アニメと言ったらヒーローがヴィランを倒してハッピーエンド、みたいな、単純な話でどれも似たようなもんだと高をくくっていた。実際私が触れてきたコミックは大体そんなもんだった。この作品もバトル自体はある。が、そこは全然メインではないのだ。まず主人公は本当にただの少年でヒーローなどではなく、そこには平凡で等身大の生活がある。それでいて、登場人物がどれも人間的魅力にあふれているのだ。主人公まわりの若い子たちが活躍するのは当然として、とても優秀だが謎の多いお兄さんだったり、頑固で気が強くて芯の通ったおばあちゃんだったり、大人は大人でちゃんと魅力的。またその魅力的なキャラがうまく配置され、動き、全体としてクオリティの高いドラマに仕上がっている。
「そっか、アニメなんてのは表現法の一つであって、何を表現するかは自由なんだ。だからこういう作品もあっていいのね」
見える世界が広がった気がしてなんだか気分がすっとした。
私はこの作品が気に入って何度も観返すようになった。他のアニメも観たっていいけど、しばらくは余韻に浸りたいというか、まずはコレを自分の中でしっかり噛み砕いて消化したい。暇を見つけては(と言うか現実から目をそらすように)毎日同じものを見続けた。それを繰り返すうちに、どうしても自分の中で消化できないものに気がついた。あるキャラクターのことだ。それは多分中学生くらいの、黒髪に褐色の肌が特徴的な少年だ。(……褐色と言ったがもちろん黒人ではなく単なる日焼けだろう。我が国では白人と黒人が支配的で、黄色人種の日焼けを知らない人がまま居る。白人や黒人からしたら黄色人種は「黄色い肌の人種」なのだ。ちなみに私は金髪に褐色肌という結構珍しい取り合わせなのだがこの肌色は生来のものである)で、彼はコンピューター等に詳しく優秀だが、周りを見下しがちでしばしば衝突を起こす、いわゆる『生意気キャラ』だ。それが何と言うか、こう、やたら私をイライラさせる。言動やら行動やらがいちいち気に触る。なので(なので?)私は何度も彼が出てくるシーンを巻き戻し繰り返し見てしまう(どういうこと???)。観返してはまたイライラするのを繰り返して(本当に何をやっているのだろう……)この気持ちをどう発散したらいいのか分からずひとりで悶々とし続ける。人の気持ちを考えず合理性を振りかざす生意気で幼い態度が、外界を拒絶するかのような長い前髪が、タンクトップや半ズボンから覗く四肢の付け根が、そこから伸びる細長く筋張った手足が、どうしようもなく私の心を引っ掻き回すのだ。
別のモノに気分を紛らそうとネットニュースを漁ると、児ポだとか、未成年に対する強制わいせつだとか、そんな事件ばかり目についた。まったく嘆かわしい。私はそれらのリンクを片っ端から開いていって、記事の内容を熟読しては、性的消費に溢れたこの世間を痛烈に批判するようなコメントを書き込んでいった。すると何だか自分が素晴らしい功績を残したような気になっていくらかスッキリする。日が昇ってユーが帰宅するまでそんなことを続ける。ニュース漁って、コメント書いて、暇ができたらサブスク観て、そんなことを何日か続けて、それがやがて新しい習慣になった。これまでバイトして無為に過ごしていた時間はこの『世の中を良くする活動』に置き換わっていった。
肌寒い季節がやってきた。いつも通りけしからんネットニュースを読み漁っては長文のコメントを推敲していたところ、突然ユーが帰宅してきた。とっさに画面を閉じて時刻を確認する。いつもよりやけに早い帰宅。『仕事』次第で早めに帰宅してくることはあるものの、まだ夜はこれからという具合で、こんなに早いことはなかった。
「珍しいわねこんな……えっ?」
ユーは、目の横に青アザをつくって帰ってきた。よく見たら鼻の下や唇も血がうっすらこびりついている。明らかに殴られた跡だ。
「ボクもうやめるよ」
怪我とは裏腹に、すっきりした表情だった。
どうやらいつものように客待ちしていたところ面倒な酔っ払いに絡まれたらしい。普段なら適当にやり過ごすところだが……なぜか、今日はユーの方から手を出したのだという。当然相手も激昂して、殴り返され、ひとしき殴られたところで警察が来て止めに入った。その隙に逃げてきたのだ、と。逃げ際に中指を立ててやったとユーは自慢げに語った。
「なんでそんな無茶なことを……」
「ボクだっておこるときはおこるさ」
それ以上のことは語ってくれなかった。ただ、もう全部「やめる」と。カラダを売るのも、その目的だったJP国に行く夢も、全部。
「本当にそれで良いの?」
「いいんだよ。ていうかね、ホントはさいしょからムリだってきづいてたんだ。このていどのおカネで何年かけても外国なんか行けやしないって」
そうだ。正直私も気付いていた。ユーが客から貰う物品……まあ高いアクセサリーとかブランド物の時計とかだろう……それらを売ってJP国の通貨に換えるわけだが、はたから見ても「足元を見られている」のが分かった。何度もレートを確認してみたが、どう計算しても普通のバイトの稼ぎほどにもなっていない。しかしそもそもこれは非合法(現金決済禁止の我が国では)なので、文句は言えないのだ。……まずもってユーのように住所も戸籍もない「社会の外に居る」人間は、正当な手段じゃパスポート取るどころか飛行機にも乗れないのだろうが。
「わ、私が、お金なら私が出すわよ。それで一緒に行きましょうよ」
「そしたらキャルメロもあの人たちとおなじになっちゃうけどいいの?」
グビリ、と自分の喉が鳴るのを聞いた。そうだ。最初から私が、ユーの望みを全部叶えてやれば、全てまるく収まる話ではあった。そんな簡単なことを、私は無意識に考えないようにしていた。それはひとえに「彼を金で買っている奴らとは違うんだ」と自分で思いたかったからに違いない。……つまるところ自分自身の『見栄』のために彼がカラダを売るのを容認していた。その事実を他でもない彼に突きつけられてしまった。
「いつもみてるよね。あのアニメの、あのオトコノコが出てくるところ。そんなに気に入ったの?」
「ちがっ……」
「そのクセさぁ、おとなが若いコに手を出した、みたいなにニュースにべったりはりついて、いっつもコメントのトコあらしてるよね」
「あ、あ、荒らしなんかじゃ、ないわよ」
調べものとかをしたいだとかで、携帯端末を貸すことはよくあった。どうせ簡単な検索くらいしかできないだろうと見くびっていたが、これは、ぬかった。
「ボクはいいよ」
「いいって、何の話?」
「『ぜんぶ赦す』ってことだよ。言わなきゃわからない?」
全部。バレていた。見栄も、浅ましさも、それで覆い隠した気色悪い欲求も。見透かされていた。その上で、赦された。
ユーは私の襟首を掴んで、自分からベッドに倒れ込む。
「駄目よ。神様が見てるわ」
「うるさい」
私の中の『柱』はいとも簡単にへし折れて死んだ。
私は罪を犯した。
軽蔑すらしていたはずの人種に自分がなってしまった。どこから間違っていたのかと言えば、ユーを迎え入れたときからだろう。健全なままでいたければ、警察でも頼るか、あるいは全部見て見ぬフリをして、罪とは無縁でいるべきだった。少年は罪そのものだったのだ。
だが不思議なことに気分は晴れやかだった。
いくつかの簡単なバイトを転々として日銭を稼ぐ。休日にはユーとアニメを観たりする。時々ちょっと外へ出かけたりもする。ユーは完全に『仕事』を辞めたし、私も昼間のバイトをするようになって、ふたりして健全な生活リズムを刻み始めた。その日暮らしがせいぜいだが、まあ、身の丈に合った生活だ。穏やかな、生活だ。
そして私は妊娠した。
何も驚きはない。何度も罪を積み重ね、起こるべくして起こった結果だ。バイト帰りの公園のトイレで、妊娠検査薬片手に、私はユーの顔を思い浮かべる。彼のことだ。きっと喜ぶに違いない。ふわふわした足取りで帰路についた。家までの道のりはいつもより少し遠く感じた。
「ただいま……あら、散歩かしら?」
ユーは出かけているようだった。最近は昼間に散歩に出ることがしばしばあったので、今日もそれだろう。そわそわしながら、静かな部屋で帰りを待つ。机をトントン叩いたり、寝転んだり、歩き回ったり、しかし待てど暮らせど帰ってくる気配がなく、ついに日付が変わった。居ても立ってもいられなくなり部屋を飛び出して彼の行きそうなところを探して回るが、どこにも見当たらない。それに久々の夜の街はなんだか居心地が悪い。行き交う人々がみんな私を見ている気がする。堪らなくなってまた家に帰ってベッドにもぐり寝た。すぐに朝が来た。部屋を見回してもやっぱりユーは帰ってなかった。
うるさいくらいの耳鳴りを聞きながら必死で頭を回す。『どうすればいいか分からない』。ただそんな絶望だけが目前に横たわっていた。今度こそ警察に頼るか。でもなんて説明すれば。下手したら私が捕まってしまう。それにおなかの子はどうしよう。検診とか受けなきゃいけないんだっけ。いやそもそも産むのか。堕ろすにしてもまず彼に何も知らせないうちにそんなこと。明日のバイトは……。
そうこう悩んでるうちに一日一日と日が過ぎる。何も行動できないまま。おなかはどんどん大きくなっていく。人前に出られなくなり、バイトはまたバックレた。もはやひとりじゃ生活もままならない状態になった。そして季節は一巡した。
横になったまま、時々動くおなかをさすりつつ、何気なしにネットニュースを眺めていた。近所のニュースが「おすすめ」に出てくる。
「林に、遺体……」
少し前の日付のニュースだ。物騒だな、くらいの感覚で本文を読んでいく。
腐敗臭がするという通報で雑木林を調査したところ、身元不明の若い男性の遺体を発見。年齢は15、6歳ほど。直接の死因は絞殺とみられるが、性器が切り取られ、肛門が完全に裂けるなど死亡の前後に性的暴行を受けた跡があった。現場に残された体液から前科のある男が容疑者として挙がったものの、自宅で首を吊っている状態で発見された。また遺体の顔には比較的新しい火傷痕があり、警察は周辺の医療機関への聞き込みを行い遺体の身元の特定を進め……。
まさかそんなわけがないだろう、という希望的予想を、記事の本文がことごとく打ち壊していった。間違いない。これはユーだ。ユーは、死んだんだ。
ベッドに腰を落とし一呼吸。
なぜ殺されたのか……は考えるだけ無駄か。そりゃああんなことばっかりしてたら、ヤバい大人に目をつけられるのも必然。なにより容疑者はもう死んでいる。それで、これからどうするか、だ。おなかの子はもういつ生まれてきてもおかしくない。潔く病院に行って安全に生むか? たぶん色々事情を聞かれるだろう。どうせもう隠しきれない。捜査に時間がかかっているようだけど、いずれ私のもとには警察が訪ねてくるだろう。そしたら全部終わりだ。墓所での件も、ユーとのこともバレるし、私は逮捕され、赤ちゃんは取り上げられる。姉にでも押し付けられるかも。生まれてくる子は罪を重ねた末にできた、言わば『罪の子』だ。もうこの世界に、この子の誕生を祝福してくれる人などひとりも居ないだろう。ああやっぱり駄目だ。病院には行けない。
「……そういえばJP国には『こうのとりのポスト』とか『内密出産』とかがあるって、ネットで読んだわね」
逃げられるところまで逃げて、赤ちゃんは、どこか安心して預けられるところへ。出生の経緯……自分が『罪の子』であることなど知らず健やかに育ってくれるなら、それが最善か。
「よし」
迷っている余裕はもうない。
私はJP国へ行くことに決めた。