第45話 『キャルメロ』の場合Ⅱ
※「『キャルメロ』の場合」はⅠ〜Ⅴの5部構成です。
※いつも以上にショッキングな描写や倫理的に問題のある展開が続きます。無理だと思ったら迷わずブラウザバック。
夜。もう電車もない時間帯。ひと気がないのを確認して柵を乗り越え墓所に忍び込んだ。長居はしない。買ってきた花を墓前に置くだけだ。ママの墓は……。暗い中、真新しい花束が備えてある墓をいくつか見つけ、携帯端末の明かりを照らして一つ一つ墓標を確認していく。違う。違う。これも違う。これは……あったこれだ。ようやく見つけた墓は、想定よりショボかった。何がって、花だ。一輪ブーケが2つだけ供えてある。他の墓と比べるとだいぶショボい。でもなんか納得しちゃった。私が持ってきたのと合わせて3輪。そんなもんだな。そんな光景を前にして私は、地面に座り込んで、ため息を吐いた。立ち上がる気力もなくなった。あまりに静かで耳鳴りが聞こえてくる。
数分そのままじっとしていたら不意に物音がして、我に返った。何かが近付いてくる。ズリ、ズリ、と何か重いものを引き摺りながらこっちにくる。
「……ッ」
とっさに逃げようとして気付いた。人、ではない。雲間から射す月明かりに照らされたその陰は、体高2メートル以上はありそうだ。
「何、何なに、グリズリー……?」
キャッチボールくらいの距離に近付いたそれは、異様な姿をしていた。一言で言えば直立するワニ。しかし太い尾をひきずるその下半身には、人間の脚がムカデのように生えている。間違いない。『害獣』だ。
「うわっ、キッショ!」
とっさに出た大声。これが良くなかった。ワニ型害獣は激昂し、上半身をぐらぐら揺らしながらワサワサと足踏みして突進してきた。墓標をいくつもなぎ倒して、全力で逃げる私の背中へ迫る。
……『特異害獣』。一般にはイノシシやキョンなどと同じようにただ害獣と呼ばれる。無から生まれ無に還る怪異存在で、姿形に一貫性はないものの、共通点として人間に敵対的であることが害獣扱いされる所以だ。つまるところ、たぶん私は死ぬ。
「ぎっ」
あっけなく押し倒された。
すごい力だ。あ、やばい。死ぬ死ぬ。
バァン
ビチャビチャッ
銃声とともにワニ頭の一部が弾けとんだ。
『逃げて! 今のうちに!』
「ひいいっ」
のしかかる巨体から力が抜け、その隙に這々の体で退避。直後、さらに銃声。害獣は動かなくなった。
「奴らに死という概念が当てはまるかは謎ですが……生き物の形をしている以上は、急所を破壊されれば生命活動が停止するようです」
そう語るのは、猟銃を担いだ初老の男。車椅子に座っており左脚が無かった。ズボンの裾が膝下あたりで結んであり、事故か何かで欠損したと見える。男が指さした方を見ると、害獣の亡骸から黒い煙が立ちのぼっていた。本当に死んだらしい。
「死ぬとこんなふうに、ドライアイスが昇華するみたいに消えていくんですよ。不思議ですよね」
「く、詳しいわね。えーと、墓守りさん?」
「ああはい。墓守りです。ここは時々アレが出るのでこのように武装して巡回しております」
墓守りは猟銃から排莢し、車椅子のポケットから弾を取り出して慣れた手つきでリロードする。硝煙の香りが漂った。
「そう……勝手に墓所に入って悪かったわね」
こんなところに居られないわ。さっさと帰りましょう。
踵を返し、地面に倒れている死骸をあらためて見た。妙な違和感があった。脚の形が歪だ。いや、形は変じゃなく、何というかこう、生え方がおかしい。
「これ全部『左脚』じゃないの」
自分の言葉にハッとする。
そう、全部左脚。嫌な連想が頭を駆け巡った。車椅子の墓守りもそれに気づいたようでピクリと反応するのが見えた。
「墓守りさん」
「はい」
「失礼を承知で聞くけれどその脚は」
「ええ最近の怪我ですとも。つい1ヶ月前までは入院していましたよ。あの病院にね」
考えてもみれば変なことだ。この男、車椅子に座りながらどうやってあの害獣に追いついたというのか。まあ単純な話で、害獣の方から来たのだ。
「『害獣は人間のネガティブな記憶から生まれる』って話、都市伝説だと思ってたわ」
墓守りが顔を覆い呻き声をあげると、それに呼応してどす黒い霧が立ち込め、それが集まって一匹の害獣を形作った。先ほどと同じ『左脚の生えたワニ』だ。
「トラウマの克服に一番良いのはね、それを別の経験で塗り替えることなんですよ」
やっぱりこの男、害獣を使役している。
ヤバすぎる。とにかく逃げなきゃ!
さっき入ってきたところの柵へ走った。幸い今夜は雲が厚い。敷地さえ出れば暗闇にまぎれて逃げ
ガキンッッッッ
「ッ……だぁ!?」
何かに脚を挟まれた。転倒してうずくまりよく見るとそれは、金属の牙みたいな……いわゆるトラバサミとかいう狩猟罠だった。ふくらはぎに深々とめり込んでいる。焦ってこじ開けようとしたら血で指がすべって再度噛まれた。
来たときはこんなのなかったのに!
やっとの思いでトラバサミを外して柵に手をかける、と……バチン!
「あ゛痛ッ! で、電気柵……こんなものまでッ」
全身のピアスに導電して皮膚が弾け飛んだかと思った。もし柵を握ってしまっていたらそのまま感電死してたかも。
とか言っている場合じゃない。害獣が再び背後に迫ってくる。柵を越えるのをあきらめ、雑木の茂っているスペースに飛び込んで一旦身を隠した。
ここからどうする?
深呼吸して頭を回す。
多分、アイツはこういうのに慣れてる。トラウマを塗りつぶすため害獣を使い、罠まで駆使して、ここに侵入してきた人間で狩りを楽しんでいるんだ。しかしそうすると、最初に私を害獣に食わせなかったのはどうしてだろう。いやそうか、トラウマを塗りつぶすためならトドメは自分で刺さなきゃ意味がないんだ。獲物を追いたてて、目の前に引きずり出して、あえて助けたふりをしてから油断したところを猟銃でズドン。
……ちょっと回りくどすぎるな。本当に使役できるなら、わざわざあんな迫真の演技で害獣を撃ち殺す必要はない気もする。完璧に制御できるわけでもないのか。下手をすれば自分が食われるリスクもある、とか?
『どこ探してるんですか、そっちに逃げましたよ!』
「ぐるるる……」
やっぱりだ。あの害獣はラジコンみたいに操られてるわけじゃなくて、ひとつの生き物として意思を持ち自律行動している。猛獣と調教師みたいな関係か。見えてきた。
さて、腹をくくろう。柵の方に逃げるとまた罠にやられる。逃げるなら彼らをどうにかして出入り口から堂々出るしかない。上手くいくか分からないが、イチかバチか。傍らに落ちていた太めの木の棒を拾って茂みから飛び出した。
ああもう、ただ墓参りに来ただけなのに何やってるのかしら。
「いい度胸ですねぇ!」
猟銃が私に向く。が、発砲より一瞬早く木の棒で銃身を叩きギリギリで散弾をかわした。もう一発これで頭をぶっ叩けば気絶くらいはするかもしれないが……確実ではないし害獣に捕まりそうだ。深追いせず。代わりに地面に目を凝らした。さっき死んだ害獣の死骸が、まだ完全には消えず散らばっていた。
「よそ見とは余裕ですねッ」
墓守りが突撃してきた。右脚だけで。車椅子から跳んで。銃口が、私の胸を捉えていた。
「うあああ!!」
全力で身体を捻った瞬間、ズドン。デコルテのあたりに強い衝撃を感じた。だがまだ動ける。
「ぐうぅッ」
足下に落ちていた死骸の一部を拾い上げて再び茂みに飛び込んだ。なるだけ茂みの深くへ潜り込んで急いで息を整える。
パーカーを脱いで怪我の程度を確認。今の一撃、どうやら致命傷は避けたものの胸元の皮膚をえぐり飛ばして『中身』が出てきてしまっていた。痛みと恐怖が脳の深くへ焼き付いていく。身体改造は色々やってきたけどこんなにエグいのは初体験だ。
「どうしよ……興奮してきたわ」
今「致し」たらきっと最高にキモチよくて天国にイけるんでしょうね。
「でもまだダメ。まだ前戯、まだ前戯……」
自分を抑えながらパーカーを裂いて、腰蓑みたいに巻く。ロングのやつなのでスカートみたいに足首まで隠れた。そして胸元から飛び出た『中身』を無理矢理ひっぱり出して、左手に『装着』した。
準備はオーケー。
先ほど持ってきた死骸の一部を、振りかぶって……ぶん投げる!
ゴンッ。死骸は墓守りの顔に直撃して膝の上へ。
「うお!? こ、これは……左脚!?」
そう。投げたのは死骸の左脚の部分。
わけもわからず慌てる墓守りのもとへ、害獣がにじり寄っていく。その目は明らかに捕食者のものになっていた。
「こら! ワタシは獲物では、な、何故こっちへ来る!? 」
害獣が襲いかかり取っ組み合いが始まる。墓守りは必死に抵抗し、腕などを噛まれながら、先ほどの死骸を遠くへ放り投げた。一瞬それに気を取られた害獣へ2発発砲。致命傷にはならなかったものの、巨体がのそのそと離れていく。
「ハアハア……なんだ、脚に反応している?」
「そーみたいね。なんでアナタが襲われないのか不思議だったのよ。アナタも理解してなかったのね」
「はッ!?」
初めて彼と目が合った。
ずっとフードを被っていたから、この素顔を見たのも、ましてこの、タトゥーやピアスにまみれた醜いカラダを見るのも、これが初めてだろう。
「そのワニちゃんは『左脚のある人間』を最優先に狙う。アナタはソレが無いから狙われない。そしてこんなふうに、脚の形が分からないように布なんかで覆い隠してしまえば、狙われなくなる」
「ひ、し、死神……ッ」
「そんな露骨にビビられるのも逆に新鮮だわ。まあ実際今からアナタを殺すわけだけど」
左拳に装着したナックルダスターに祈りを捧げる。なにせついさっきまで胸元に埋め込んであった物だ。よく馴染む。
……何故だか分からないけどコイツは今ここで殺すべきだという確信がある。一応は親の仇でもあるわけだし。警察なんかも役に立つか分からない。私がやるべきだ。
「これは復讐……いえ。これは正義の鉄槌……これも違うわね。うん。ただの自己満足よ。今からアナタを地獄に送るわ。ごめんなさい。アーメン」
ひたすら殴った。殴るたびナックルの形に顔面が陥没していくのがちょっと面白かった。陥没してないところを探してまんべんなくボコす。プチプチマットを潰していく感覚だ。
何度も何度も何度も何度も拳を振り下ろして、息が上がったので一旦休憩……だなんて冷静になって、ようやく自分がヤバいことをしていると気付いた。墓守りは白目をむいてイビキをかいている。あっ、これ本当に死ぬやつじゃん。さーっと血の気が引く感覚とともに、ナックルを握っている指に激痛が走った。中指と薬指が完全に折れていた。こんな慣れないものを使うからだ。ああ思考がまとまらない。
「はあぁ……もう帰りましょ」
そこからどう帰ったのか自分でも覚えていないが、とにかく夜明けには自分の部屋に戻っていた。酒を飲んだわけでもあるまいに記憶がぐちゃぐちゃだ。今はただ激痛と高熱の嵐に耐えながらユーに看病されている。病院には……行けない。人殺しちゃったし。え? 嘘、本当に死んだ? ていうかアレ誰? 思い出そうとすると頭が痛い。
ネットニュースを見てみても昨夜のことはまだ何も載っていない。願わくは夢であってほしい。ただ抉れた胸元や折れた指が、あの出来事は現実なのだと主張してくる。身体は熱いのに背中がゾクゾクして震えが止まらない。
数日後、ようやく自力で立てるようになってきた。
とてもじゃないけど落ち着いて寝ていられなくて、夜風に当たりに深夜徘徊。冷たい物でも飲みたい気分だ。そういえばJP国は自販機大国らしい。ここにも自販機自体は存在するが、JP国の設置数はこちらの比ではないし、オリも監視カメラも無しでそのへんの路上に設置するのが当たり前とのこと。いつでもどこでもキンキンに冷えたコーラが飲めるなんて、夢みたいな話ね。
「ようキャル」
急に背後から話しかけられた。
振り返れば見知った顔が、飲みかけの瓶ビールを持って立っていた。
「アナタもしつこい男ね、ピート」
「そんなつれないこと言うなよ。ほとんど自然消滅したとは言え一応パートナーだろ」
「はい??? パートナー?????」
変な間が生まれた。
ピートはただ信じられないという表情で口をパクパクさせるばかり。ははあ、さては一回ヤッただけでもう恋仲になったと勘違いしちゃったワケね。たまに居るのよねこういう馬鹿な男。
「いやいやいや……いや、さすがに分かるさ。オレが間違ってんだろ多分。周りのヤツらからの扱いでさすがに学習したさ。客観的に見たらオレは変なんだろ」
「驚いたわ。自分を俯瞰することを覚えたのね」
「そう、そういう扱いだよ。皆オレを馬鹿みたいに言うんだ。どこに行っても『いじられキャラ』とか『鼻つまみ者』とかそういう扱いされてきたんだオレは。……お前はアイツらとは違うと思ってたんだけどな」
なんだか様子が変だ。酔っている、というわけでもなさそうだが、ここは適当に切り上げたほうがいいかもしれない。
「なあキャル、お前最近店に来ないよな。辞めたのか。仕事をバックレるタイプじゃなかったろ。せっかくオレなりに、どうやったら綺麗にお前との関係を終わらせられるかって考えてたのによぉ」
ピートはなぜかビール瓶の飲み口をこちらへ向ける。
「もうどうでもよくなっちまったよ」
そこでようやく自分の不用心さに気づいた。
ピートは完全にシラフだ。それがなぜこんなことろでビールなど持って徘徊していると言うのか。女として、まず警戒すべき状況だった。
「この辺じゃあ路上飲酒は犯罪よ」
「酒なんか持ってないが?」
「そうよね。分かったから。馬鹿にしたことは謝るわ。アナタを勘違いさせたことも、まあ、無責任に身体を許した私にも責任が、あるから……多分」
「思ってもねーこと言うなよ」
「うん。ごめんなさい。とりあえず止まって?」
「あーうるせぇうるせぇ」
「止まって……!」
「うるせぇッてんだクソ雌が!!」
逃げられない。多分、反対側へ走ろうと振り返った瞬間、瓶の中身をかぶることになるだろう。どうにかして彼の気をそらすしかない。通行人でも通ってくれればいいのだけど、そんな都合よく……。
「キャルメロ?」
来てしまった。一番来ちゃいけない子が。
私を探しに来ちゃったみたいだ。
「ユーだめ! こっちに来ないで!」
ユーは状況を飲み込めていないようで、ピートの背後から気の抜けた顔をぶらさげていた。そこから一拍おいて、ようやく緊急事態に気付き、私たち二人を交互に見てたじろぐ。しかし手遅れだ。ピートはバッと背後を振り返りその小さな人影を確認して、またこちらに向き直り獰猛な顔で歯をむき出した。
「なーんだ、やっぱりあの噂、本当だったのかよ」
「ウワサ?」
「しらばっくれやがって……なあお前! ガキ! お前中古品だろ!!」
ユーズド……確かに彼は最初そう名乗った。みんながそう呼ぶのだと。あまりに下品な通称なので略して呼んでいたから忘れていた。
ユーは、途端に表情を失った。
「一部じゃ有名人だもんなお前。金持ち相手に身体売ってるオスガキってな。ソレが今はキャルに飼われてるって、さすがにウソだろって思ったけど、ガチだったんだな! ワハハハハハハッ!!」
「待って待ってそれは誤解だわ! 神様に誓って、彼と肉体関係は結んでない!」
「邪魔くせーピアスジャラジャラぶら下げた汁だくガバマ✕コ女が何言っても説得力ねえーんだよ。ゴミ犯罪者が。違法ガキチ✕ポは美味かったか?」
「ほ、ほんとうなんです。キャルメロはぜんぜんボクに手を出そうとしなくて……」
「でも淫売自体はとめなかったんだろ?」
「そ、そもそも、そもそもよ。未成年とのソレが犯罪なのは判断力が未熟な子どもを守るためよね。でも彼は頭が良くて、下手な大人よりよっぽど判断力があるわ。だから私は彼を『ひとりの人間』として尊重してるの。大体、数字上で18まで子ども扱いで18超えた瞬間にハイ大人ですってのが無理あるのよ。成長速度は人それぞれなのに。いい歳したオジサンオバサンが全然精神的にガキだったりするじゃない」
空虚な言葉が滝のように流れ出てきて、語れば語るほど自分がみじめに思えてくる。何も言い訳できない事実は自分自身が一番理解していた。ピートは当然に、そのスカスカな論へため息をかぶせた。
「仮にお前の潔白が事実としてだ。しかしガキの淫売をとめなかった時点で、買った奴と同罪だろうが。法律的な話じゃあなくて道義的な話として、だ」
「あぅ……」
「私は見てただけなんですー、悪いのはアイツらなんですー、ってか。へっ。世間はやれ『男のほうが犯罪率が高い』だのあげつらうけどよ、女は女で、犯罪にならない犯罪をする生き物だよなぁ。方向性が違うだけで悪性は男女平等なんだよ」
それから私の目を睨みながら続ける。
「てかお前キモイんだよ。女は自分を客観視できないって言うけどお前は自分が聖母にでも見えてんじゃねーか。そんで周りの人間見下して。一皮剥いたらその辺の馬鹿女と変わんねーじゃねえか。やっぱ女ってクソだな」
こんな酷い罵倒を受けながら、何も……何も言い返せない。ひとつも否定できない。否定したところで、余計自分が情けなくなる。どうでもいいから何か言って彼を止めなければ、と頭では分かっていても、絞り尽くした歯磨き粉みたいにまるで言葉が出てこない。ついにピートは興味を失った目をして、黙ってユーの方を向いた。そして劇薬の入った瓶を掲げ、その小さな頭の上へ……。
「だ、ダメーーーー!!!」
必死で突進した。私程度がタックルしても止まりそうになかったのでユーの方をかばった。
生ぬるい液体が首筋から背中へ、全身へ、伝っていく。生ぬるいはずの液体は、数秒遅れて私の肌へ灼熱感をもって侵食してきた。ユーを押しのけて自分も逃げたかったが、首根っこを掴まれて、背中を中心に劇薬を振りかけられた。瓶からドポッドポッと少量ずつ流れてくるのを、全て背中で受け止めながら、ぎゅっと目を瞑ってただ地獄が過ぎ去る待った。
「ああクソッ、手にかかった……」
永遠にも感じる数秒は急に終わって、ピートがどこかへ逃げていく。
顔にも液体がかかったので目が開けられない。ユーは、無事だろうか。暗闇に手探りをすると、すぐに小さく温かい手が私の手を握り、ぐんと引っ張った。ああ良かった。無事みたいだ。そのまま導かれるままどこかへ走る。すぐ近くの……ここは、たぶん公園。キュッと蛇口をひねる音がした。
「水かけてあげるからここしゃがんで!」
言われた通りに水を浴びると、すこしずつ楽になってくる。完全には治まらないものの、なんとか耐えられるくらいまでには落ち着く。しかし、全身洗い流したからもう大丈夫、と思い立ち上がると皮膚が引きつり灼熱感がまたぶり返してきた。
「いけない。最低でも二十分は流し続けなさい」
知らない声だ。どうやらこの公園で生活しているホームレスらしい。様子を遠巻きに見ていたようだ。
「浴びたのはどこだい。首から下か。顔もだね。ああ服はめくっちゃ駄目だ、皮膚がえぐれる」
目を閉じたまま、水を流しつつ彼と言葉を交わした。元医者らしくこういう場合の対処をよく知っていた。医者が何故ホームレスなんかに、と聞くと、はっきりとは答えてくれなかったが、反社と関わったのがきっかけで職を追われ再就職もできずバイトすら見つからずあれよあれよと社会のレールから転落してしまったそうだ。しかし案外不自由はしていないらしい。この公園に居れば週に二度ほどボランティアが来て、食料やら衛生用品やら必要な物資を届けてくれるし、かつての医者仲間が色々融通してくれて健康面も問題ない、とのこと。ようやく目を開けてまじまじ見てみれば、確かにホームレスにしては小綺麗で肌つやが良い。この辺のホームレスはだいたい同じ感じだそうな。
「病院に行けないのかい。理由は聞かないでおこう。大丈夫、この辺の奴らは大体何かワケアリだから。仲間に頼んで軟膏をもらっておくから定期的にここへ来なさい」
一時はどうなるかと思ったけど一安心。不幸中の幸いだ。
……だなんて気が抜けて、ここでようやくユーの方を見る余裕ができた。私の怪我が大したことなさそうで安心した様子で微笑んでいる。優しい子だ。お人好しすぎるくらい優しくて、私もホームレスの男もそれに甘えてしまって、だから今まで気が付かなかった。その額ににじんだ脂汗、苦痛に抗う表情筋、頬のあたりからうっすら立ちのぼる白煙。あんなに綺麗だった顔の一部が焼けただれていることに。