第42話 観測不能のイフⅢ・中編
※本日2回更新予定。
生まれて何ヵ月かを母親の家で生きる。
ある日突然、母親は俺のことを路上に放置して去っていく。
いつも通り。その回もそういう風に始まった。
何も分からぬ乳児の俺。真冬の深夜。冷たいアスファルトの上で気が付くと目の前に黒猫が居る。こいつが『始まりの夜』に現れるのも、いつも通り。
だがここでいつもと違うことが起こった。
『にゃ―――v√ ̄ ̄ ̄―v√ ̄―v√ ̄\_/^ーー@』
黒猫が、鳴いた。
えも言われぬ不快感を催す声。
刹那、脳天に杭でも打ち込まれたかのような錯覚がした。頭の中に何かが流れ込んでくる。記憶、だ。生まれてほんの数ヶ月の俺には、その記憶がいつのものなのか、判断できない。だが間違いなくそれが自分のものだという確信があった。
極めて断片的。
生後からこの夜までの記憶より少ないくらいの情報量。
なのに、とてもかけがえのない一欠片。
「かうめお……かうめお……」
俺は、その記憶の中の、逢ったことさえない女性の名前を呼んだ。その名を呼ぶ度に心臓を握りつぶされるような気分になる。涙が止め処なく溢れてくる。耐えられなくなってその場にうずくまった。アスファルトが氷のように冷たい。
泣いて、泣いて。
泣いて泣いて泣いて。
次第に身体が衰弱していって。
不意に眩しい明かりに照らされたかと思えば、鉄の塊が俺を踏み潰して去っていった。
垂れ流す自分の脳漿を眺めながら地面を這いずる。また眩しい明かり。ブウウウンと空気を震わせながら突進してくる鉄の塊。グチャリと音がして下半身が吹き飛んだ。今度はクルマから人が降りてきたが、そこで意識が途切れた。
――――――――――GAME OVER—―――――――――
ーーーーー
「……死んだ」
『そうですね』
「もう一回だ」
『すぐに出られますか』
「当たり前だ」
『では』
「行ってきます」
-----continue?
YES←
ーーーーー
ーーーーー
それから俺は何度も同じことを繰り返した。
『始まりの夜』に黒猫から『記憶』を受け取る。記憶を受け取った乳児の俺は、すぐに衰弱し、自動車に轢かれたりして死ぬ。いつもなら黒猫に誘導されて孤児院まで辿り着くのだが、ああなっては最早、猫など目に入らない。
「ミケ、一つ聞きたい」
『何でしょう』
「あの黒猫が俺に記憶を渡している、という認識でいいのか」
『はい。あれは私の端末です』
「そうだったのか。何となく理解はしていたが、そういうことはちゃんと教えてくれよ」
『私は聞かれたことにしか答えません』
「……まあいい。じゃあもう一つ教えてくれ」
『何でしょう』
「記憶を受け取るのをもう少し後にできるか。乳児には、あの記憶は刺激が強すぎるらしい」
『可能です。少々手間ですが』
「よし。なら十五歳のとき、俺があの回で事故に遭った日ぐらいに渡してくれ」
『承知しました』
「それじゃあ」
『行ってらっしゃいませ』
-----continue?
YES←
ーーーーー
「……キャルメロ……」
黒猫が鳴いたと思ったら、何やら懐かしい感じのする記憶が流れ込んできた。金髪に小麦肌をした、逢ったこともない女性。でも俺は彼女を知っている。声も匂いも体温も知っている。
彼女には恩がある。
恩を帰すために『約束』を果たさねばならない。
行かねば。
俺は孤児院を飛び出した。
彼女はきっとあの病院にいる筈。あの日一緒に街まで出掛けたから、場所は大体分かる。断片的な記憶をかき集めてその場所を探した。
そして辿り着く。
一見ただの民家だが、記憶通りならば闇医者のいる闇病院だ。
インターホンを押す。……誰も出ない。何度も何度も押す。だがやはり誰も出ない。留守かと思い、玄関前に座って待つことにした。夜が来る。腹が減る。待つ。空が明るくなる。インターホンを押す。誰も出ない。待つ。日が暮れる。夜が来る。催したのでその辺の茂みで用を足す。待つ。空腹で胃が痛くなる。空が明るくなる。眠くなって意識が落ちる。……。
目が覚めると知らない男が顔を覗き込んでいた。
「……うおっ、何だお前!?」
「ほひょ!?」
ガバッと起き上がり周りを見渡した。
いつの間にかどこかに運び込まれたらしい。
「病……室……」
見覚えがある病室だ。いや、俺はここに入院したことがあるのだ。間違いなく、闇病院の中だ。
知らない男はしばらくオロオロした後部屋を出て行った。どうやら人を呼びに行ったらしい。確かここには医者が二人いたから、いまのはその片方だろう。
間もなく病室のドアが開いて二人の医者が入ってきた。
「よう、ウチの前で三日も張り込んでたのはお前か」
こっちの医者は……知っている気がする。
が、そんなことはどうでもいい。
「キャルメロ……キャルメロに会いに来た。居るんでしょう?」
「はぁ?」
「居ないのか? 居るんだろ。キャルメロだよ!」
「落ち着けって……」
感情が抑えられなくなって自分でもわけが分からないくらいに喚き散らす。子どもみたいに叫び、近所迷惑になるくらい騒ぐ。なかばパニックを起こしていた。
ガチャリ。
不意にドアが開く音。
ふわりと花の香りが漂ってくる。
「何の騒ぎかしら?」
ドアから覗いてきたのは、タトゥーとピアスにまみれた怪物みたいな顔。地肌は小麦色で、髪はブロンド、女性的なシルエット。間違いなく……記憶にある彼女だった。
「キャルメロ!!」
「きゃっ! な、なぁにこの子?」
「キャルメロ……よかった、また会えて……」
俺はつい、彼女の胸に飛び込んでしまった。その温かさと柔らかさに何とも言えない安心感を覚えて、張り詰めていたものが緩み、涙がボロボロと零れる。
俺はその場で自分に分かる限りのことを説明した。
キャルメロに逢ったことがあること。しかしそれは『この人生』でのことではないこと。彼女との約束のこと。受けた恩を返すために約束を果たさねばならないこと。説明しながら、自分が非現実的な夢物語を語っていることに気付いたが、それでもキャルメロは真剣に聞いてくれていた。
「漫画みたいな話だけど、私しか知らない筈のことまで知っているみたいだし……信じてあげるわ」
「ありが……」
「でもまず、ソレを鎮めてくださらない?」
「あ」
彼女が指差したのは俺のズボン。の、股間の部分。いつの間にやら、男のアレがアレしていた。感動的な再会がこれでは台無し。前屈みになって必死に抑えようとしてみたものの、冷静になろうとするほどに彼女のことが頭を支配して、身体の芯から痛いようなむず痒いような『波』が押し寄せてくる。
「ちょ、ちょっと待ってくだっ……あっ……あっ…」
波は出口を求めて全身を駆け巡り、遂に大きく脈打ってほとばしった。
「くっ、ふぐっ……あっ……ごめんなさ…………あうっ」
「ウッソでしょ……」
腰骨が吹き飛んだかと思うくらい重い絶頂。快感を通り越して最早苦痛だった。ひとしきりり悶え終えて、ようやく頭がマトモに働きだし、周りの三人が絶句していることに気付いた。
……そもそも後先考えずここまで来たのだが、下着を汚してしまったため、いよいよこのままでは帰れない。見かねた医者の厚意で一晩だけ空き部屋に泊めてもらい下着も洗濯してもらうことになった。十五歳にもなって自分のしでかした粗相を他人に処理してもらうとは、情けない。
気不味い空気のまま夜が更けて床に就く。
暗い部屋のベッドに一人きり。とても静かで、秒針の音が耳につく。心臓がばくばくと鼓動して眠れない。というか眠れるわけがない。折角ここまで来たのにキャルメロに嫌われてしまったかもしれない、とか、実は全部ただの妄想なんじゃないか、とか、色んな考えや感情が頭の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜるのだ。
夜が更けても目は冴えたままで、身体は火照り、口の中がからからに乾く。水でも飲んで頭と身体を冷ますとしよう。
静かに廊下に出て『記憶』を頼りに台所へたどり着く。その辺のコップに水道水を注いで喉を潤した。すると、多少は気分が落ち着いた。汗でじっとり濡れた額を拭う。
「明日、ちゃんと謝ろう……」
ぽつりと呟く。そのまま床にへたり込むと力が抜けて、その場に倒れ込んでしまった。
……そこでどうやら意識を失ったらしい。頭を床に打ち付けた、と思った次の瞬間には周囲の景色が一変していた。明るい。いや、薄暗くはある。明かりがゆらゆら揺れている。黒煙が立ち込めて天井が見えない。おもむろに上体を起こしたところでようやく「火事だ」と理解した。
俺は迷わずキャルメロの病室へ向かった。
煙を吸わぬよう姿勢を低く保つ。一酸化炭素を吸ってしまったのか全身が痺れているものの、何故か問題なく手足が動く。そのまま階段を駆け上がり病室の扉を開け放った。キャルメロは……ベッドで寝ていた。駆け寄って声をかけたものの、返事はない。うっすら目を開けたままぶつぶつうわ言を喋っており、見るからに意識混濁と言った具合だ。
「すぐに安全なところへ運びますから」
そう言って彼女を抱きかかえる。
一階は既に火の海。窓から飛び降りるか。
……などと回していた頭が、ピタリと停止した。
花のような香りが脳の奥の方を痺れさせる。触れた柔肌から伝わってくるのは弱々しい鼓動。彼女の命が自分に委ねられているのだと思うと、どろどろした昂りがあふれて、胸が張り裂けそうだった。
再び彼女をベッドに下ろしてその姿をまじまじ観察する。頬と唇がやけに紅潮しており艶っぽい。炎の熱気のせいもあるだろうが、そういえば、一酸化炭素中毒を起こすと逆に血色が良くなるのだとテレビで言っていた。実に興味深い。もっと近くで観察したい。俺はそこに添い寝して、目で、耳で、鼻で、肌で、『キャルメロ』を感じた。
夢見心地に包まれて。
二人一緒に炎に呑み込まれて。
そのまま死んだ。
――――――――――GAME OVER—―――――――――
ーーーーー
「……そんな目で見るなよ」
『私の顔が見えるのですか?』
「言葉の綾ってやつだ」
ミケの顔は相変わらず黒いモヤに覆われていて表情一つ読み取れない。なんとなくドン引きされてる気がしたが、まあ気のせいだろう。気の遠くなるような時間の中で、彼女が感情らしきものを見せたことは未だ一度たりともない。あのときのアレもきっと気のせいだ。
『今回の記憶は次に引き継ぎますか?』
「当たり前……いや待て、何故そんなことを聞く」
『何故とは』
「お前は必要のないことや聞かれていないことは喋らないのだろう。わざわざ聞くということは何かあるのか」
『はい。記憶の引き継ぎは少なからずあちら側の脳に負荷をかけます。特にこの度のような大きな感情の揺れ動き、その記憶は、蓄積していけばいずれは脳が耐えきれない程の負荷となります。そうなれば引き継ぎ自体が困難となるでしょう』
「なんだそんなことか。容量の問題なら、取捨選択すればいいだけだ。そもそもキャルメロと出会う前までは引き継ぎなんてしてなかったわけだし、この件が片付いたらまたそうするさ」
『かしこまりました。では、そのように』
-----continue?
YES←
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それからまた繰り返した。
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時間にしてほんの二千年分くらい。
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何度もキャルメロに逢いに行き、様々な形で共に過ごし、そして何故か、どの回でも二十歳になる前に死ぬ。大抵は火事。
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孤児院に居る間は何事もなく、どうやら「孤児院を抜け出す」ことがタブーらしい。
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しかしそれが分かっていても俺はまたキャルメロに逢いに行く。
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回を重ねるごとに記憶が蓄積していき、初めの記憶は段々隅へと追いやられ、本来の目的など忘れ、いつしか彼女と過ごすこと自体が目的へとすり替わっていた。
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本当に色んなことをしたし色んな話をした。
上手く対話できたこともあれば早々に嫌われることもあった。笑ったり、怒ったり、泣いたり、遊んだり、喋ったり、ご飯を食べたり、肌を重ねたり、殺したり、殺されたり、情緒がおかしくなるまで五感で『キャルメロ』を感じて記憶に刻みつけた。
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そして突然限界が来た。
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バキッ。
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バキッ。
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バキッ。
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「何度やっても引き継ぎに失敗して死ぬ」
『許容量を超えたようですね』
「たかが二千年、しかもキャルメロに関する記憶だけを抽出してるのに、か」
『そも、記憶というのは本来少しずつ蓄積していくものです。いかに圧縮すれどまとめて流し込めば回路が焼き切れます』
「そういうものか」
ミケはほんの数秒沈黙し、また喋りだす。
『……視覚や聴覚といった感覚の記憶のうち、真っ先に「整理」されるものはなんだと思いますか?』
「ふむ……確か、声というのは真っ先に忘れるものだとテレビで言っていた。つまり聴覚だ」
『違います』
「じゃあ何だ」
『「感情」です』
「それは……いわゆる『感覚』とは違うんじゃないか」
『確かに明確な受容器官が存在しないので医学的には区別されますが、情報が人間の知覚できる形へチューニングされるメカニズムを見れば、感覚と呼んでも差し支えありません。いわば全ての人間に備わっている第六感です』
「なるほど。で、それがどうした」
『これが真っ先に「整理」される所以は、ひとえに、ストックするのに向いていないからです。端的に言って脳に与える負荷が大きすぎる。普通の人間ですら、自身の感情を処理しきれずパニックを起こすなんて珍しくない。そんなものを、一切の劣化なく、何年分もまとめて脳へ流し込めば……どうなるか分かりますね?』
「なるほど」
忘れるということも脳の重要な機能、ということか。『向こう側』の俺の脳は問題なくその機能を使えているようだが、それはそれとして、全ての記憶は一切合切『こちら側』にアーカイブされているらしい。そんなことが可能なのは、そもそも『こちら側』が物理的な制約を受けない空間……単なる情報の集合体でしかないからだろう。
「そういえば『完全記憶能力』を持っている人間もいるだろう。ああいうのはどうなんだ。モノを忘れないということは、その負荷がずっと脳にかかっているのではないか」
『忘れないと言っても一度に処理できる情報量には限度があるので、下層レイヤーの記憶は埋もれた状態になるようです。ただし、それが度々上層へ浮上するので、苦痛や負の感情の「リプレイ」に悩まされる場合も多いとか』
「詳しいな」
『大抵のことは知っています。永く生きてますから』
そもそもミケとは何者なのか。今までも何度も問うたがマトモな回答を貰えたことはない。まあ少なくとも『こちら側』の俺にとっては完全な上位存在であり、この思考も当然のように読まれているわけで。この後、きっと彼女は、わざとらしく咳払いをして話を本筋に戻そうとするだろう。
『ごほん……。さて、話を本筋に戻しますが、次回からの記憶の引き継ぎはどうなさいますか。このままでは何度繰り返しても同じ結果になりますが』
「俺はまだ約束を果たしていない。まだまだキャルメロと色んなことをしないと。そのために引き継ぎ自体をやめるわけにはいかない」
『ならば必要な情報だけを……』
「いや、可能な限り多くの思い出を持っていきたい。一秒ずつだ。一秒ずつ、持ち出す記憶を削っていって、引き継ぎの限界値を探すんだ」
『何度繰り返すことになるか分かりませんよ』
「時間は無限にあるのだろう」
『全く……』
こんなに沢山ミケと言葉を交わしたのは、随分久しぶりな気がする。どういう心変わりか。いや、そもそも彼女に心など……。
『行ってらっしゃいませ』
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