四幕
姉のように優しく接してくれている娘が、スーザンへ喋りかけてきた。
「ちょっと聞いてよ。リデラ様、全然あたしの誘いに乗ってくれないの。ああ、彼のために洋服だって新調したのに」
娘はスーザンが言葉を発するのを待たずに、窓のふちに手を置いて大きく溜め息をついた。
娘の豊満な胸元と、くびれたウエストラインは町中の男達から注目を浴びている。さらに彼女は顔まで端麗なのだから、言うことなしだと下品な男が酒場で言っていたのを聞いたことがある。
ブルネットの巻き毛をいじりながら、彼女は頬を膨らませる。
瑞々しくハリのある肌を持つ、スーザンより三つ年上の娘。
まだ幼いスーザンとは比べ物にもならないくらい、艶めかしい。
彼女は娼婦を生業としており、最近のお気に入りはリデラだった。
だが、まだリデラは一度も彼女と肌を合わせてくれないのだそうだ。
「ねえ、あたしって魅力ない?」
真剣に聞いてくる娘――フェザーを前に、スーザンは緩く首を傾げた。
「そんなことない。フェザーはわたし達ストリート・チルドレンの誇り」
スーザンの頬にフェザーは嬉しげに唇を寄せる。
「あんたのその拙い感じ、大好きよ!」
領主であるサンアット公爵が病床に臥せったのは、つい先日のことだった。そのことから、人々の注目はリデラに注がれる。
スーザンは、二階にある自分の部屋から町を眺めた。
彼女が頬杖をついて見つめる先に、リデラはいた。
町の人々に混ざって笑いながら、市場を賑わせている。
数ヶ月前までの高慢さは立ち消えていた。彼なりに努力したのだろう。
口は悪いが、優しい人物。
それが、彼と喋ったことのある人々共通の見解だった。
ストリート・チルドレン達も、彼のことは認めていた。
最初こそ嫌悪を剥き出しにしていたランス・ペダモーでさえ、リデラを認めている。ここ数ヶ月間、粘り強くストリート・チルドレン達の住む家に出向き、食べ物などを運んでくる彼の誠意を認めざるを得なかったのだ。
「……それでね、リデラはあたし達に謝りたいと言ってきたの。父のしていることは許されることではないって」
フェザーは少しだけ赤くなった目で呟く。彼女は恋する乙女の目で喋り続ける。
スーザンはそれを黙って頷きながら聞いていた。この前も同じ話を聞かされたと思ったが、口には出さなかった。
スーザンとリデラは、あの晩から一度も顔を合わせていない。
それでも繋がりが消滅したわけではなく。二週間に一度、スーザン達ストリート・チルドレン達の住む家に食べ物を運んでくる度、リデラはスーザンのことを尋ねてくると皆が言っていた。
それに、ハンミルの丘にある両親の墓には瑞々しい花が届けられるようになった。
複雑な気持ちを抱え――しかし、それを表に出すことなく、スーザンはフェザーの話を黙って聞いていた。
◆ ◆ ◆
スーザンは久々の休みを持て余していた。この家の主であるチェインは週に一度、皆に休暇をくれる。正直、スーザンは週に一度の休みなど要らないと思っている。贅沢過ぎる。自分は休みをもらえるくらい、稼いでいるとは到底思えない。
スーザンはそんな思いを抱えながら、居間に下りてきた。
ばちり、と赤毛の少年と目が合う。
ランスだ。
彼も、今日がちょうど休みの日だったらしい。
最近ランスは、ようやくまともに仕事が出来るようになった。彼は今、町外れの工房にて、貴金属の細工物を造っている。手先が器用らしく、彼の造り出すアクセサリは町の女達の中でちょっとした流行となっている。
居間には、暖炉の火が爆ぜる音しかない。
無言の状態がしばらく続いたのち、ややあってスーザンは腰を上げた。
「どこに行くんだ」
ランスは深々と座っていたソファから腰を浮かして、声をかけてきた。
彼はスーザンが真正面から彼を諌めた後より、スーザンの傍にいることが多くなった。
とつとつと、その日あった出来事を話すようになり、スーザンの前ではあまり皆に噛みつかなくなった。
……捨て犬に懐かれた気分だ。
「ハンミルの丘へ、両親の墓参りに行く。ランスも、行く?」
ランスは一も二もなく首肯した。
◆ ◆ ◆
二人は、街頭で仕事中の花売り仲間に二つ花束を作ってもらった。
金はいらない、とその娘は言ってくれたが、二人は半分ずつ金を出し合って花束を購入した。白薔薇をメインにした二つの小ぶりな花束に、ランスは満足げに口笛を吹く。
通りを行き交う人々は、スーザン達を振り返り見る。彼らの視線はランスに向いている。ペダモー伯が、サンアット公によって追い込まれたことを皆知っているのだ。
ランスは毅然としていた。
少し前までの彼は人々の憐れみの目に耐えられず逃げ出していたが、今は何にも動じない。
スーザンはそんな彼の変化が嬉しく思えた。
ランス自身は気付いていないだろうが、彼を見る視線の中には女性のものも多くある。
太陽を浴びて金褐色に煌めく赤毛に、珍しいブルートパーズ色をした猫目。薔薇の花束を持って淡く微笑む彼は、人の興味を引き寄せる。
彫刻のように美しいとまでは言えないが、はつらつとした匂い立つ魅力をランスは持っている。
その魅力が曇らぬように、とスーザンは密かに神に願った。
ハンミルの丘に辿り着いた二人は、そっとスーザンの両親が眠る墓前に花束を置いて祈りを捧げた。
ランスは丘をぐるりと見回して、両親の墓の横にある大木の下に寝転んだ。
彼は眩しそうに、葉の隙間より漏れる光を見つめている。
「……スーザンのご両親は、どんな人達だった?」
初めてだった。
スーザンの両親が死んでから今に至るまで、スーザンに両親のことを訊いてきた者はいなかった。
同じように親を亡くした者達は、傷口に触るかもとあえてその話をしなかったし、町の人々は同情こそすれ彼女の過去を聞きたいという者はいない。
「……甘い、匂いがしてた」
ランスは、じっと聞いてくれている。
「いつも笑顔で、わたしが友達と遊んで遅くなった時は怒ったけれど、あまり怒られた記憶がない。いつも家には出来たてのお菓子の甘い匂いがしてた」
「そうか」
いつの間にか忘れていた。
封じ込めていた両親の記憶は、スーザンの心を激しく揺さぶった。
うまく表情が造れない。自分が悲しいと思っているのか、よくわからない。
スーザンは、今までリデラ以外に明かしたことのない秘密を、ランスに告げた。
「……わたしの父さんと母さんは……サンアット家に仕えていた。公爵は、借りていた王の宝石を自分の弟が盗んだのをわたしの両親の罪として処刑したの」
ランス表情が痛みを含んで歪む。
「人から聞いた話だから、真実かはわからない。……本当に、わたしの両親が宝石を盗んだのかもしれない」
「バカ!」
ランスは飛び起き、スーザンを抱きしめた。
「スーザンの両親は、絶対に窃盗なんてしていない。それが真実だ」
ランスの体温は、スーザンを少しだけ温めてくれる。
「……いい両親だったんだな」
「――――うん」
スーザンは静かに目を伏せた。ぎゅっと彼の服を握りしめる。
少しの間そうしていたが、やがてランスはスーザンから体を離して樹木に寄りかかった。
「ランス、あなたの両親の墓に花束を供えたいのだけど、墓はどこにあるの」
スーザンの質問に、彼はゆるく吹く風に髪を遊ばせた。
「……ボクの両親の墓は、ここにはないんだ」
「どうして?」
不思議に思ってスーザンは尋ねた。
ランスは目を細め、遥か水平線を見た。
夕焼けが迫る海が金色に煌めいている。まだ春は遠いが、午後の陽射しは暖かさを感じさせた。
「ペダモー家は、もともと王都に居を構えていた一族だった。伯爵の位に恥じぬように善行をおこなえ、というのが亡き祖父の教えだった」
「いい貴族だったのね」
ランスは自嘲げに首を横に振って否定した。
「それは祖父の代まで。ボクの父は、サンアット公と何ら変わらないことをしていた。それを見て育ったボクも、それが当たり前だと思っていた。……そのせいで、サンアット家に失脚させられた時に誰も手を差し伸べてくれなかったんだけどな」
ランスは肩を竦めた。
「朝起きたら屋敷に誰もいなくて、いきなり警官が入って来た。この屋敷を差し押さえるって。怒鳴ってもなじっても、一向に警官は出て行かない。挙句、父の部屋からボク宛ての手紙が出て来た。『サンアット公爵にはめられた。父と母は遠くへ逃げる』と」
スーザンは、茫然と彼の話を聞いていた。
信じられなかった。血を分けた子供を置いて、彼の両親は逃げたのだ。
「必死で駆けずり回ってようやく見つけた助けが、チェインだった。男爵家の子息だったあいつとは何度か王都で顔を合わせてたんだ。チェインはすぐにボクを迎え入れてくれたよ。――結局、ボクの両親は生きる希望をなくして蒸発。行方知れずさ。生きているのか死んでいるのかも不明。だから、ここにボクの両親の墓はない」
言い終えると、ランスは深い溜め息を洩らした。彼もスーザンと同じように、両親の話を誰にも出来ずにいたのだろう。
ランスはスーザンが持っていた花束を手に取ると、口づけを一つ落として海へと放る。
小ぶりな花束は、音も立てずに波間を漂う。
ランスは力なく微笑んだ。
「思えば、ボクが憎むべきはリデラではなく、サンアット公であり、両親だな」
スーザンは返事に窮した。
その時、丘を上ってくる人の影が見えた。
咄嗟にスーザンはランスを引っ張り、近くにあった茂みに隠れる。
ハンミルの丘にやって来る者達はさまざまな想いを持っている。中には人と会うのが嫌な者もいるし、ここに来ていることを知られたくないと思う者もいる。
叢の隙間から誰が来たのかを覗き見たスーザンとランスは、声を上げそうになった。
人影は、リデラの使用人であるボルドだった。
ボルドは抱えていた豪華な花束を、半ば放るようにしてスーザンの両親が眠る墓に供えた。彼の表情は見えなかった。
◆ ◆ ◆
ボルドがハンミルの丘を去った後、日が沈むから帰ろうと言うランスにスーザンは先に帰っていていいと告げた。
ランスは何か言いたげな表情をしていたが、「気をつけろよ」とだけ言葉をかけてハンミルの丘を後にする。
スーザンはランスの姿が見えなくなったのを確認してから丸太小屋の戸を叩く。
「やあ」
声は戸の奥からではなく、頭上より降って来た。スーザンが上を振り仰ぐと、樹の枝にドラクロアが腰かけているのが目に入った。
黒髪赤目の少年は、音も立てずに地上に降り立つ。紳士然とした小奇麗な格好をしているドラクロアは、ズボンについた葉を払った。
「……ねえ、スーザン。リデラはもうすぐ領主になるよ」
ドラクロアは、薄い唇で歌うように言った。
彼は被っていたシルクハットを脱ぐと、くるくる回す。
「僕には見えるんだ。サンアット公はもうすぐ死ぬ」
「……公爵が?」
「うん。悶え苦しんで、死ぬ。どんな薬も魔法も彼には届かない。そして、リデラがサンアット家の主となる。そうしたら、この町は明るくなるだろうね。リデラは変わった。彼はすごい」
ドラクロアはリデラを誉めたが、スーザンは無表情のまま彼の言葉を遮断した。
「嘘」
「――……え?」
「ドラクロアはそんなこと、一欠けらも思ってない。本当は、リデラなんて死ねばいいと思ってる」
ドラクロアはスーザンの強い言葉に面食らった表情を見せたが、やがて一つ頷いてスーザンの言葉を肯定した。
「そうだよ。僕はサンアット家を心の底から憎んでる。リデラのことも憎んでる。でも、それが無意味だってこともわかってる」
二人の間を夕風が吹き抜ける。
太陽が沈むと、一気に温度は下がった。スーザンはブルリと身震いした。
そこへ、一人の少年が姿を見せた。ランスだ。彼は厚手のコートを着込んでおり、手には白い女物のポンチョを握りしめている。
てっきり家に帰ったものだと思っていたスーザンは、突然の彼の登場に目を見開いた。
ドラクロアはすっと目を細める。
「急に冷えたから。ほら」
ずい、とランスはポンチョをスーザンへ差し出す。スーザンは戸惑いながらも、それを受け取った。
「……ハンミルの亡霊といたのか」
ランスはドラクロアを一睨みすると、スーザンの手を掴んで駆け出した。
黒髪赤目。真っ白な死人のような肌。
異形のドラクロアを町民は忌んだ。
ハンミル公が戻ってきてくれればと願いながら、その末裔を忌む。
スーザンは視線だけドラクロアの方へと向ける。ドラクロアは、ろうそくの如き儚い笑みとともに小屋へ戻って行った。
舞台は常に波乱に満ちていなければ。
そう言って支配人は狂ったように嗤う。
ようやく手にした平穏さえも彼は笑いながら握り潰す。
ストーリーは佳境に入った。
どんなラストが待っているかは、役者達次第。