三幕
リデラが去って行った方角を呆然と見つめていたスーザンの肩に、重みが加えられた。
ハッとして振り返ると、そこにはドラクロアが佇んでいた。
「ごめん。ずっと木の上にいたんだけど、出るタイミングを逃してしまって」
じと目で睨み付けると、彼は困ったように肩を竦めた。
スーザンは強風によって乱れる髪を押さえ付ける。
ハンミルの丘は、他より風が強い。少し高度が高いせいもあるだろう。つんと鼻にしみる風が横切る。
「リデラ――――泣いてた」
「ああ、泣いていたね」
「彼は、何も知らないみたい」
「ああ、彼は何も知らないよ」
「とても、ひねくれているけれど、綺麗な心を持っている」
ドラクロアは、口をつぐんだ。
スーザンは数回瞬き、先程のリデラの泣き顔を回想する。ふいに零れた、偽りない涙は澄み切っていた。
「そうだね、スーザンの言うとおりかもしれない」
ドラクロアは妖しく目を細めて、町を見下ろした。夕陽が沈んで行く町は、彼の双眸と同じ色をしていた。
でも、とドラクロアは表情を硬化させて呟く。
「リデラの来訪によって、魂達が怒っている」
スーザンは、即座に首を横に振った。それは否定を示していて。
「違う。怒っているのは、わたしやあなたのように、生きている者達。死者は何の反応も示せないから、私達が勝手に怒っていると、解釈しているだけ」
ドラクロアはスーザンの反論に、力なく笑った。
「――ねえ、スーザン。僕は長く死者達と触れ合い過ぎたらしい」
ドラクロアの意図が読めずに、スーザンは首を傾けた。
「生きている者で僕と話してくれるのは、君ぐらい。だから僕は、この丘で死者と対話をする。……生者は流れる川のように心を変化させられる。けれど、死者はね、もう死んでいるから心を変化させることが出来ないんだ」
ドラクロアは感傷的な声色で一気に言ってのけた。
そして、サンアット公爵が住む――かつてはドラクロアの血族が住んでいた、黒い城を眺めた。その瞳には暗呑とした憂鬱が立ち込めている。
スーザンも、ドラクロアと同じように城を見つめ、ペリドット色の双眸に深い悲哀を滲ませた。
◆ ◆ ◆
リデラと会ってから二週間が経った。
スーザンは客に向かって自ら歩み寄って、花売りに励んでいた。これまで棒立ちのままだった彼女にとっては大きな進歩だ。
スーザンが仕事に精を出しているのには理由がある。
気を抜けば、二週間前に見たリデラの涙が蘇ってしまうのだ。目蓋の裏に焼き付いているのではと危惧する程に、それは突然目の前に現れる。
スーザンは、焦っていた。
他人の顔や名前、動作など、記憶に残さないよう生きてきた。それは幼児期に体験した父母の死に起因している。大切になればなる程、失った時の悲しみは深い。
ようやくカゴの中身が空っぽになった時、既に辺りは藍色に染まっていた。
ちらほらと街灯が点り始める。
慌てて今日の売上金をポケットからポーチに移し変えると、一目散に走り出した。
暗い路地裏を通るのは避けたかったが、そこを通るのが家に帰る最短ルートだ。スーザンは多少たじろぎつつも路地裏へ足を踏み入れた。
「早く出せ!」
素早く壁に貼り付いた。
路地裏の狭い通路で、数人の男が言い合っている。
「早く、そこの紳士から盗った物を出せ!」
スーザンは喉を鳴らした。
リデラだ。
薄明かりの下でも、彼の美貌が衰えることはない。スーザンは早鐘を打つ心臓を落ち着かせるため、深呼吸した。
リデラが左腕を掴んでいる――鋭利な瞳に剣呑な光を宿した青年は、唾を吐いてリデラへカバンを投げつける。脇で腰を抜かしてへたり込んでいる紳士の物だろう。
「金の入っていないカバンなんか、こっちから願い下げだ」
「こ、このガキを警察に突き出せ!」
紳士は命令口調で金切り声を上げる。リデラは、眉間に皺を寄せた。
青年は、艶やかな赤毛を片手で掻き上げると、諦めを知る者だけが出来る笑みを浮かべる。
「貴族の物を盗んだ平民は腕落としだろ。いいさ、好きにしな」
〝平民〟という箇所にアクセントをつけて青年はふてぶてしい態度を取る。
リデラは思案する顔を見せたが、覚悟を決めたのか青年の腕を離す。呆ける青年と紳士に、リデラは告げる。
「今回は盗んだ物を返した。大目に見てやる。……次はないからな」
サッと青年の顔色が変わった。
スーザンは一人残ったリデラに、少し汚れたハンカチを差し出す。
憐れみなんて要らない、と青年は叫んで彼を殴ってその場から走り去った。紳士も挙動不審な言葉を連ねて足早に立ち去って行った。
リデラはスーザンを一瞥すると、視線を落として、「大丈夫だ」とハンカチを受け取らずに立ち上がった。
「スーザン」
リデラは憂いを帯びた瞳をスーザンへ向ける。
「この町の荒廃具合は異常だ。長い間、父上の傍若無人さがわかっていながら目を瞑って見ないようにしてきた僕に、変革を起こす資格があるかはわからないけれど。家族を喪う悲しみは僕にもわかるから……何とかしたい」
見て見ぬフリを繰り返してきたリデラは、先程初めて真っ向より相手にぶつかったのだ。
「あなたは正しいことをしたのだと、思う」
スーザンは呟いた。
ドラクロアの言葉がよみがえる。
――生者は流れる川のように心を変化させることが出来る。
そのとおりだ。リデラは今、大きく考えを変えようとしている。
「……ありがとう」
リデラはスーザンへ笑いかけた。鼻持ちならない印象を吹き飛ばすくらいに、綺麗な笑顔だった。
瞬間、歪な感情がスーザンを満たす。
相対する二つの感情。折角、今までどうにか保ってきた平面世界が壊れる気配にスーザンはおののいた。
必死で心に蓋をしようとするが、感情は激流の如く膨張していく。
一歩こちらへ近寄ろうとするリデラに対し、スーザンは一歩下がった。
「近寄らないで」
スーザンは体を反転させて彼から逃げ出した。リデラは追いかけて来なかった。
自分の感情が昂った理由がわからず、スーザンの足取りは酷く重かった。
◆ ◆ ◆
随分と遠回りをして、狭い家に帰り着いた。茶色いペンキの塗られたそのアパートには、十二歳以上のストリート・チルドレンが肩を寄せ合って暮らしている。
チャイムを鳴らすと、施錠が外れる音がしてドアが軋みながら開く。スラリとした長身の青年チェインは、優しくスーザンに微笑みかけた。彼はここに暮らす子供達の中でも一番年長で、今年十九歳になる。
チェインはスーザンを抱き上げると、小さな子供にするように、頬にキスをした。
「お帰り。遅かったな」
「ごめんなさい」
「いいさ、晩飯の準備はカサンドラ達がしてくれてる。今日は美味いぞ、ビーフシチューだ」
スーザンは鼻をひくつかせた。
「嬉しいか?」
満面の笑みで尋ねてくるチェインに頷く。自分も笑ってみようと試みたが、どうしても上手く表情筋が動いてくれない。
チェインはスーザンを床に下ろし、頭を撫でてくれた。
スーザンは今日の売上金のことを思い出し、首から下げたポーチからお金を取り出す。金貨が一枚に銅貨が十六枚。スーザンにしては稼いだ方だ。チェインは口笛を吹き鳴らす。
「最近、頑張ってるみたいじゃないか。やれやれ、ランスにもその頑張りを伝授してやってくれ。アイツ、今日も収穫なしだ。肉体労働は嫌だと駄々を捏ねてさ。十七歳のくせに」
言いながら、チェインは親指で居間の一人がけソファを指差す。
ソファの周りで、たくさんの子供達が話に花を咲かせていたが、ソファに座るその青年は、会話に混ざろうともしない。
肩にかかっている赤毛にブルートパーズの透き通った猫目。最近――本当に最近、サンアット公から家族を奪われた青年、ランス・ペダモーは虚ろな目でテレビを観ている。
あっ、とスーザンは小さく叫んだ。すぐには気付けなかったが、紳士から金目の物を盗もうとしたのは彼だった。スーザンは大股でランスの前まで歩いて行く。彼女はランスの前に仁王立ちした。
「……邪魔なんだけど……」
テレビが見えないのが不満なのか、ランスの顔が歪む。
「もう二度と、盗みなんて卑怯な真似しないで。リデラが正しかった」
途端に頬を朱に染めたランスは、素早く立ち上がる。
「アンタ、あの場にいたのか? しかも……あの貴族がリデラ・ユリバ・サンアットだと知っていて、アイツが正しいだと?」
ランスは、スーザンを射殺すような目で睨み付けた。
何も言わないスーザンへ、ランスは聞くに耐えない罵声を浴びせた。それでも彼女は眉一つ動かさなかった。
彼は憎しみに満ちていた。上流貴族だったランス・ペダモーは、サンアット公を激しく恨んでいた。
「それでも、私が目にしたのは、あなたが他人の物を盗むところだった」
はっきりと言い切った彼女に怯んだランスは、踵を返して居間を去る。
去り際に、階段の脇にあるゴミ箱を蹴り上げ、彼は三階にある自室へ駆け上った。
「ランス!」
チェインが叱咤の声を上げて、ランスの後を追った。
残された者達は一時騒然としていたが、やがて落ち着きを取り戻し、各々自分の時間を満喫し出した。
スーザンだけは、ランスの蹴り上げたゴミ箱を見つめていた。
◆ ◆ ◆
新たな役者が舞台袖より飛び出してきた。彼は嘆く、叫ぶ、怒る。
昂った感情は他の者達を圧巻し、閉口させる。
どちらが歪んでいるのだろう、どちらが正しいのだろう。
混沌は全てを呑み込み、無へ誘おうとする。