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一幕


 スーザン、と名前を呼ばれて少女は振り返った。

 あの忌まわしき惨劇から二年の歳月が経ち、彼女自身もようやく一つの節目を迎えた。

 十二と言えば、大人の仲間入りを果たす年である。これからは堂々と酒場に出入り出来るねと仲間達は口々に言った。

「スーザン、おはよう。今日は頑張って稼ぎなよ。貴族らには特に媚びるくらいがちょうどいいんだから」

「うん」

「じゃあ、また夕方に広場で会おうね」

 同じ年の少女は屈託ない笑顔を振り撒き、街の中心部へ走り去った。

 スーザンはそれを見送り、自らは中心部から少し離れた市場へ向かう。人で賑わう場所は好きではない。仕事なのでしょうがないと割り切ってはいるが、人に花を差し出すなど、本当は嫌でたまらなかった。

 スーザンは一つにきつく結んだ豊かな髪を揺らし、ほうと息を吐く。

 花売りの仕事も楽ではない。表情が乏しく、あまり口数の多くないスーザンから花を買おうとする客はほとんどいなかった。

 いるとすれば、下卑た笑いを浮かべて違う〝花〟を売れと言い募る落ちぶれた男達だけである。確かに、花売りの娘達の中でもそれを生業にしている者もいた。だが、スーザンにはとてもじゃないが真似出来ない。

「おい、お前……何してるんだ」

 物思いに耽っていたスーザンへ言葉が投げかけられる。

 訝しげに頭を持ち上げると、そこにはいかにも貴族だとわかるような仕立ての服を着た、少年の顔があった。

 すっきりとしたフェイスラインにエメラルドを()め込んだような瞳、けぶる金髪は所々緩くカーブを描いており、唇は薔薇を思わせる。陶器ぜんに白い肌が、太陽の下で労働をしていないことを如実に物語っていた。

「花を売ってる」

 端的に答えたスーザンに対し、少年は眉根を寄せた。苛立たしげに腕を組む。

「花を売る? そんな萎れた花、誰が買うんだ。僕の家の庭園にある花はどれも、そんな風に萎れていない」

 まるで、いちゃもんだとスーザンは思った。

 敢えて無視して花売りに専念しようとするが、彼はなおも言葉を続ける。

 貴婦人や行商人達の好奇の視線が集まってきた。少年は目立つ。華やかすぎるのだ。

 スーザンは心底少年が疎ましかった。

「いちゃもんなら他所でつけて。わたしは暇じゃない、貴方と違って働かなくては暮らせない」

「何だとっ」

 カッと頭に血がのぼったのだろう。少年は懐から袋を取り出すと、それをスーザンに投げつけた。

 衝撃で彼女は尻餅をつく。袋の口を縛っていた紐が解け、中から金貨が零れる。

 カゴに入れた花々も無惨に散った。それを踏みにじり、少年は高らかに叫んだ。

「じゃあその金貨を使えばいいじゃないか。花売りなどしなくても何ヶ月かは暮らせるだろうっ」

 スーザンは素早く立ち上がると、真っ向から少年を見据えて言い返した。

「貴族からの施しなんて、受けない」

 そう言って彼女はカゴを抱えて走り去った。

 残された少年と見物人は、しばし呆然と立ち竦む。

「リデラ様、大丈夫でしょうか。もう馬車へ戻られては……」

 付き人に促され、リデラは早足で場を後にした。

 彼が去った後、野次馬達は好き放題話をし始めた。

「さっきのお方……素敵だったわ」

「リデラ――付き人らしき方がそう仰っていたということは、あの方がリデラ様!」

 少年のことを知っている風の貴婦人に周囲の目が集まる。

 貴婦人は自分が思いのほか大声を上げていたことに気付き、顔を扇で隠しつつ知り得る限りの情報を披露した。

「お噂は王都でも鳴り響いております。この地帯を取り仕切るサンアット公の嫡子、リデラ・ユリバ・サンアット。ついこの間まで母君のご実家で教育を受けていたらしく、王都にいたそうです。それにしても……溢れんばかりの美貌ですこと」

 水を打ったように辺りは静まり返った。皆、思っていた。

 何故、そのような者が花売りごときに因縁を吹っかけたのかと。

 そして、あの酷い罵声と高飛車な態度に、人々は落胆したのだった。

 いずれサンアット公を継ぐのがリデラであるなら、圧政は続くだろう。

 税金過多、無謀な法令、私腹を肥やす貴族。

 重い空気が労働層に身を置く人々を中心として漂っていた。



「またあのような言い方をして」

 たしなめるようにボルドはリデラの両肩に手を置いた。

 ワイン色のサテン生地があてがわれている馬車の中で、リデラはぼんやり街の風景を眺めていた。その表情は厳しい。

 ボルドは失笑する。

「貴方は本当に不器用な方ですね。王都にいた時も今も、何ら変わりない」

「子供だ、と言いたいんだろう」

 鋭い眼光で睨み付けられ、ボルドは両手を上げて降参のポーズを取る。

「怒っては駄目です。怒るだけでは人に伝わらない。もうリデラ様は十八でしょう」

 わかっているさ、とリデラは呟いた。

 馬車の窓から流れてくる街の空気は澱んでいる。いかに父が街から搾取しているかがわかる。

 だが、父を止めようという考えは毛頭なかった。それは自らの生活水準を貶めることに他ならないからだ。

 ――――貴族からの施しなんて受けない。

 花売りの少女の強い意志を孕んだ言葉が、脳内で繰り返される。リデラは髪を掻き毟った。

「好きで貴族に生まれたわけじゃない」

 二つの相反する気持ちに、少年は苦悩していた。



 目の前に差し出された、野薔薇で作られた花束を縋る思いで抱きしめた。細い棘はスーザンの皮膚に傷をつけたが、構わず赤い花弁に頬を寄せる。

 薔薇の芳醇な香りを漂わせながら、ドラクロアはスーザンの頭を優しく撫でる。

「……何かあったのかい」

 浮かない顔をしているスーザンへドラクロアが問いかけた。

 何でもない、と弱々しく返すスーザンの様子をしばらく観察していた彼は、何があったのか大方見当がついたようだった。眼差しを少しだけ柔らかくする。

「リデラと逢ったんだね」

「リデラ?」

 思わず顔面を上げて聞き返した。

 ドラクロアは目で頷く。

「そう、サンアット公爵の嫡子さ。相当の切れ者で、先月まで権利争いを逃れるために母方の実家に身を寄せていたらしい」

 スーザンは目を瞬かせ、嫌悪を入り混じらせた表情を隠しもせずに、野薔薇の花束を強く抱く。

「そんなの、知らない。ただ、あの人はとっても失礼だった。大体、どうしてこの丘から一歩も出ないドラクロアがそんなこと知っているの」

 ドラクロアは常にどんな事象をも知っている。

 街に住んでいるはずのスーザンが知らないことまで知り得ており、時々本当に彼は悪魔なのではないか、と彼女は思うことがあった。

 ドラクロアは愉快げに笑って、前髪を掻き上げた。

「ハンミルの丘からは全て眺望出来るのさ」

 答えになっていない。そう言おうと口を開いたスーザンだったが、寸でのところでそれを思い止まる。

 視界に小さな丸太小屋が目に入ったからだ。

そこに一人暮らすドラクロアは、典型的な夜行性であり、太陽を忌み嫌っている。

 明るい陽射しは頭上から降り注いでいるにも関わらず、彼はこうして街から逃げ出してきたスーザンのために外へ出てきてくれた。

 自分に向けられる優しい感情が嬉しかった。

 両親を亡くして孤児となってからというもの、無償の温かさをくれるのは常にドラクロアだけだった。

 それを当たり前だと感じてはいけないのだと、スーザンは何度も何度も胸に刻んだ。感謝の心を忘れたら、私腹を肥やす貴族達と同じになってしまうと自らを戒めた。

 黙りこくるスーザンをドラクロアは抱き上げる。一気に高まる視界に、彼女は目を白黒させる。

「ほら、沈んだ顔をしないで。ハンミルの丘に眠る皆は、スーザンをいつも心配してるんだから。せめて、ここでは笑顔を見せて」

 スーザンに対して、ドラクロアは一点の曇りなき笑顔を見せる。つられて彼女も、不器用ながら笑顔に見えない歪んだ表情を垣間見せた。




 どうか、その純粋さが渇れてしまわぬように。切なる祈りは千の星へと流れて太陽に焦がされてしまうだろう。

 やがて巡る季節(とき)は、あの日と同じ匂いを彷彿させて。

 幕が上がった。





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