「あと一度で離縁ですね」と笑ったら、旦那様が夕食の席に来なくなりました
三百六十四回目の夕食は、鴨のローストと、離縁の話だった。
グレンヴィル公爵家の食堂には、二十人が並んで座れる長いテーブルがある。けれどこの一年、その端と端が使われたことは一度もない。いつからか私たちは、角を挟んで斜向かいに座るようになっていた。声を張らなくても言葉が届く距離だ。
「アデライン」
夫が――ルーカス・グレンヴィル公爵が、ナイフを置いて私を呼んだ。
「書店の譲渡手続きが済んだ。鍵は来月、君の手に渡る」
私は息を止めた。止めてから、慌てて笑みを作った。
「……本当ですか」
「契約の履行だ。礼は要らない」
母の書店。王都三番通りの角にある、間口の狭い、けれど日当たりだけは自慢だった小さな店だ。父が病を得て、薬代のために手放してから六年になる。
その店が、戻ってくる。
「報酬も、すでに君名義の口座へ移してある。開店の費用にも、しばらくの暮らしにも足りるはずだ」
「そこまでしていただかなくても」
「契約書に書いてある」
彼はそう言って、鴨に手を戻した。冷血公爵、と社交界が呼ぶとおりの、抑揚のない声だった。
けれど私は知っている。
私の皿の付け合わせは、彩りのよいニンジンのグラッセだ。彼の皿には、セロリのブレゼが添えられている。
三十回目あたりの夕食で、私がセロリを皿の隅に残したのを、彼は何も言わずに見ていた。次の晩から、私の皿にセロリが乗ることはなくなった。厨房にそう指示を出したのが彼だと知ったのは、ずいぶんあとのことだ。
今夜の彼は少し疲れている。まぶたの下がうっすらと翳って、パンをちぎる手が重い。だから食後の紅茶は、茶葉を減らすように頼んでおいた。濃い紅茶を飲むと眠れなくなる人なのだ。それも、誰に教わったわけでもなく、この一年で覚えたことだった。
私たちは、契約で結ばれた夫婦である。
亡き公爵夫人――ルーカスの祖母は、仕事しか見ていない孫が、遺産のために書類の上だけの結婚をしかねないと見抜いていたらしい。だから遺言に、たった一つだけ条件をつけた。
『妻と同じ食卓を囲み、三百六十五回の夕食を共にすること』
一年分の夕食。それが、この結婚のすべてだった。
条件は明快だ。三百六十五回を数え終えた翌朝、あらかじめ二人が署名し、王室記録院へ預けておいた離縁状が受理される。私には母の書店を買い戻せるだけの報酬が支払われる。公爵夫人としての公務のほかに、夫婦らしいことは何一つ強要されない。食事は連続していなくてもよい。
離縁状を取り下げるには、双方の同意が要る。片方が望んだだけでは、この結婚は続かない。
私は納得して署名した。彼も納得して署名した。誰も騙していないし、誰も騙されていない。
だから、寂しくなる理由なんて、どこにもないはずだった。
「明日が、三百六十五回目ですね」
自分の声が思ったより明るく響いて、私は少し驚いた。
「あと一度で離縁ですね」
そう言って、笑ってしまった。
つらいときほど笑ってしまうのは、昔からの私の悪い癖だ。父の葬儀の日も、家財を売り払った日も、私は笑っていた。泣いてしまえば、誰かに縋りついてしまいそうだったから。
ルーカスの手が止まった。
フォークの先が皿に触れる寸前で、動きを失っている。彼はしばらくそのままだった。ずいぶん長い数秒だった。
やがて、短く息を吐く。
「……そうか」
それだけだった。
彼は残りの鴨を、味を確かめる様子もなく平らげた。薄く淹れた紅茶には手をつけないまま、席を立った。
◆
翌晩。
食堂には、私一人しかいなかった。
蝋燭は二人分灯され、皿も二人分並べられていた。片方の椅子だけが、いつまでも引かれないままだった。
「奥様」
老執事のモーリスが、静かに扉のそばへ来る。
「旦那様は本日、王宮にて夕食を召し上がるとのことでございます」
「……そう」
私は頷いた。頷いてから、また笑った。
「では、三百六十五回目は明日ですね」
モーリスは何も言わなかった。ただ、私の前の皿を下げるとき、その手がほんの少しだけ遅かった。
◆
翌日、ルーカスは日が暮れる前に帰宅した。
馬車の音を二階の窓から聞いて、私はいつもより丁寧に髪を結い直した。最後の夕食だ。せめて、みっともなくない顔で座っていたかった。
食堂へ下りる。蝋燭に火が入る。料理が運ばれてくる。
けれど、彼は来なかった。
スープが冷めた。
蝋燭が指の幅ほど短くなったころ、モーリスが現れた。
「旦那様は……」
そこで一度、区切りが入った。四十年この屋敷に仕えている老執事にしては、珍しくはっきりとした間だった。
「……お帰りの馬車の中で、軽食を召し上がったとのことでございます」
「馬車の中で?」
「馬車の中で」
「何を?」
「……クルミを」
「クルミ」
「はい。たいそう腹にたまるものだそうでございます」
「……クルミを、いくつ」
「三粒でございます」
「三粒」
「三粒でございます」
私は目の前の皿を見た。仔牛のブランケット。クレソンのサラダ。焼きたてだったパン。どれも、とうに湯気を失っている。
三粒のクルミに負けた献立だった。
その夜、寝室へ戻る途中の廊下で、私はルーカスと鉢合わせた。
彼は書類の束を抱えて、食堂とは反対の方向へ、やけに大股で歩いていた。私を見ると、足が止まる。
「……アデライン」
「旦那様」
厨房の方から、玉ねぎとバターの匂いが流れてくる。まだ片付けが終わっていないのだ。
ルーカスの喉が、こくりと動いた。
そして。
ぐう、と。
公爵家の由緒ある廊下に、たいへん立派な音が響いた。
「…………」
「…………」
「旦那様。厨房にパンが残っております」
「不要だ」
「一つだけでも」
そう勧めると、彼は本気で警戒した顔をした。
「それは……夕食ではないのか」
「パン一つですけれど」
「食事とパンの境界は曖昧だ」
「曖昧でしょうか」
「曖昧だ。学者のあいだでも議論がある」
議論、と私は口の中で繰り返した。どこの国の学者だろう。
「では、せめてチーズを」
「チーズは食事だ」
「パンは曖昧なのに、ですか」
「パンは曖昧で、チーズは明確だ。世の理だ」
どういう理なのだろう。
「私はまだ執務がある」
彼はそう言って書類を抱え直し、逃げるように廊下の奥へ消えていった。
抱えていた束の一番上が、真っ白な紙だったことに、私は気づいてしまった。
冷血公爵などと呼ばれているけれど、この屋敷でいちばん嘘が下手なのは旦那様である。それなのにこの人は、嘘をついてまで、私と食卓につくのを避けている。
◆
三日目。
「旦那様は本日、主治医より夜間の食事を禁じられたそうでございます」
「まあ。お加減が悪いのですか」
「……胃の腑が、たいへん繊細な時期だとか」
繊細な時期。
翌朝、私は主治医のもとへ使いを出した。昼過ぎに返ってきた手紙には、こうあった。
『閣下のご健康に何ら問題はございません。むしろ近ごろ夕食を抜いておいでのご様子で、医師としてはぜひとも召し上がっていただきたく存じます』
私は手紙を二度読んだ。それから丁寧に畳んで、机の引き出しにしまった。
嘘だと、分かってしまった。分かってしまえば、もう、分からないふりはできない。
四日目。
食堂の椅子は、やはり片方だけ空いていた。
「モーリス。今夜は」
老執事は私の前で背をまっすぐに伸ばし、そして、ほとんど投げやりに言った。
「旦那様は本日、執務室にて、夕食を召し上がらない努力をなさっております」
「努力」
「努力でございます」
「……どのような努力でしょう」
「水を、たいへんたくさん飲んでおられます」
「水を」
「水を、でございます」
私は思わず笑った。笑ってから、その笑いが自分の喉の奥で、ひどく硬い音を立てたことに気づいた。
――そうか。
彼は、私と最後の一食を取りたくないのだ。
いいえ、正確には違う。三百六十五回目を数え終えれば、翌朝には離縁状が出る。彼はそれを、食べないことで押しとどめている。理由は分からない。けれど分からないなりに、私の胸には一つだけ、いやな答えが浮かんでいた。
私はあの晩、笑ってしまった。
「あと一度で離縁ですね」と。
まるで、その日を心待ちにしていたみたいに。
彼は律儀な人だ。妻が自由を望んでいると思えば、その望みを叶えようとするだろう。けれど同時に、あんなふうに指折り数えられていたのだと知れば――最後の食卓に座るのが、たまらなく気詰まりになったとしても、無理はない。
一年分の夕食を、私は台無しにしたのかもしれなかった。
スープが冷めていく。
私はスプーンを置いて、誰もいない椅子を見た。
その晩、私は初めて、皿に手をつけないまま食堂を出た。
自室の窓からは、東棟の執務室の明かりが見える。夜通し灯っている。あの部屋の主は、水を飲んでいるのだ。腹を空かせたまま、私と同じ屋根の下で、私から逃げている。
――旦那様。
あなたは、私に何を数えさせたいのですか。
◆
五日目。
私は厨房を借りた。
「奥様、そのようなことは我々が」
料理長が慌てて手を伸ばしたけれど、私は首を振った。
「今夜は、私が作りたいのです」
鍋にかけたのは、ただの野菜スープだった。玉ねぎとニンジンと、豆を少し。それに黒パンと、チーズの塊。
一回目の夕食と、同じ献立だ。
この屋敷に嫁いできた日、公爵家は喪中だった。祖母君を亡くしたばかりで、豪華な料理を出せる時期ではなかったのだ。だから私たちの最初の食卓には、素朴なスープと硬い黒パンだけが並んだ。
鍋が煮える音を聞きながら、私は数えてきた食事のことを思い出していた。
――一回目。
私たちは、一言も話さなかった。広すぎる食堂に、時計の針の音だけが響いていた。彼は私を見なかったし、私も彼を見られなかった。
あのとき私は、この人と三百六十五回も向かい合うのかと、途方に暮れていた。数え終わるまでの一年が、ひどく長いものに思えた。
スープの味は、覚えていない。
――四十七回目。
その日は雨だった。国境の視察から三日遅れで戻った彼は、外套を脱ぐのも忘れて書斎へ向かおうとした。私は厨房で温め直したスープを小食堂の丸卓へ運び、廊下でその背を呼び止めた。
濡れた外套のまま、彼は向かいに座った。丸卓は小さくて、手を伸ばせば届く距離だった。彼はスープを一口飲み、私も残しておいた黒パンをちぎった。それから彼は、小さく、けれど確かに言った。
「……ありがとう、アデライン」
初めて、名前で呼ばれた日だった。
――百八十二回目。
私が熱を出した日だ。寝室で寝ていた私のところへ、彼が自分で盆を運んできた。粥と、薄い果実水。彼は寝台の脇の椅子に座って、私が食べ終わるまでそこにいた。
熱でぼんやりしたまま、私は言った。これでは契約の食事になりませんね、と。彼は少し黙って、それから答えた。
「構わない。今日は数えない」
あとになって記録を見て、私は気づいた。その日には、印がついていなかった。
『同じ食卓ではない。数えない』
そう、彼の字で書き添えられていた。
――三百回目。
食後に、彼が一枚の紙を広げた。それは、母の書店の間取り図だった。
「棚をここに置けば、通路が狭い」
「奥は物置にするつもりでしたが」
「読ませる場所にした方がいい。客は立ち読みをする」
私たちは、夜半まで棚の位置を動かし続けた。
あのとき彼は、一度も言わなかった。公爵夫人が店に立つのはどうか、とも。屋敷にいなさい、とも。私が店主として帳簿をつけ、仕入れをし、客の手に本を渡すことを、彼は当たり前のこととして受け入れていた。
あの間取り図は、今も彼の執務机の引き出しにあるはずだ。ずいぶん折り目がついていた。私が広げた回数より、ずっと多く広げられた折り目だった。
スープが煮えた。
私は木べらを止める。
――私は、自由になる日を数えていたのではなかった。
三百六十五という数字を、私はずっと数えていた。けれどそれは、終わりを待っていたからではない。この一年を一つも取りこぼしたくなかったからだ。何回目に何を食べて、彼が何を言って、私がどんな顔をしたか。数えておかなければ、いつか全部こぼれ落ちてしまう気がした。
書店は欲しい。母の店を取り戻したい。それは本当だ。
けれど。
私はスープを深皿に移し、黒パンとチーズを布に包んで、籠に入れた。
厨房の者たちが、ぽかんと私を見ている。
「執務室へ行ってまいります」
◆
執務室の扉を、モーリスが開けてくれた。開けながら、彼は小さく、しかしはっきりと言った。
「旦那様。奥様がお越しでございます」
そして私が中に入るのを見届けると、扉の外に立った。閉めなかった。半分ほど開けたまま、廊下に控えている。
――ああ、この人は。
私は少しだけ、笑いそうになった。
ルーカスは机の向こうで、書類に目を落としていた。ランプが一つ灯っているきりで、部屋は薄暗い。顔を上げた彼は、私の腕の籠を見るなり、あからさまに身を引いた。
「アデライン。今は執務中だ」
「はい」
「……見れば分かると思うが、私は忙しい」
「はい」
私は机に近づいた。
そこで、目が留まる。
書類の山の一番上に、見慣れた紙束があった。私たちの契約書だ。その隣に、細かい罫の引かれた帳面が開かれている。
日付。献立。ひとこと。
一回目から順に、三百六十四回まで。
彼の几帳面な字で、一年分の夕食が並んでいた。百八十二回目の欄には線が引かれ、『数えない』とある。
そして、三百六十五回目の欄だけが、白い。
私は籠から皿を出した。スープを置く。黒パンを置く。チーズを置く。
「何をしている」
「夕食です」
「――待て」
彼が立ち上がった。
「ここは食堂ではない。同じ食卓を囲むという条件を満たさない」
「この机を食卓にします」
私は書類をそっと脇へ寄せた。
「使用人の立ち会いがない。証人がなければ、履行として認められない可能性が」
「扉の外にモーリスがおります」
「……モーリス」
「はい、旦那様」
廊下から、たいそう落ち着いた声が返ってきた。
ルーカスが、一瞬だけ天井を仰いだ。
「……私は、まだ食欲がない」
「四日ぶん空いた胃の腑には、スープがちょうどよろしいかと」
「君は、私の胃の腑の味方なのか、敵なのか」
「味方です。ずっと」
「……もう夜中だ。夕食と呼べる時刻ではない」
「契約書の第四条には、『日没から夜明けまでのあいだに供される食事』とございます」
私は暗記していた。三百六十四回も数えていれば、覚えてしまう。
ルーカスは口を開き、閉じ、また開いた。
そして、椅子に沈むように座った。長い、長い沈黙のあと、彼は両手で顔を覆った。
「……卑怯だぞ」
「旦那様のほうが、四日も卑怯でしたけれど」
私は椅子を引いて、机の角を挟んで座った。いつもの距離だ。
「旦那様」
私は、できるだけ静かに尋ねた。
「私と食事をするのが、それほどお嫌ですか」
彼が顔を上げた。
薄暗いランプの光の中で、その目は――私が一度も見たことのない色をしていた。
「……逆だ」
声が、かすれていた。
「最初は、祖母の遺産のためだけだった。夕食など、書類に判を押すのと同じだと思っていた。三百六十五回、義務を果たせばいいと」
彼は帳面に手を置いた。
「だが、いつからか、屋敷へ帰る理由になった。会議が長引けば、間に合うかどうかを考えるようになった。夕食のために仕事を切り上げる公爵など、笑い話だろう。それでも私は、君が待っている食卓に帰りたかった」
私は、息をするのを忘れていた。
「君が書店の話をするとき、君は本当に楽しそうだった。棚の配置を考えているときの君の顔を、私は――」
そこで、彼は言葉を切った。
「離縁のあとの暮らしを、君は心待ちにしているのだと思った。当然だ。君は最初からそれを望んでいたし、私が契約でそう約束した」
「離縁状は、もう記録院に預けてある。取り下げるには君の同意が要る。私一人では、あれを止められない」
「引き止める言葉が、なかったわけではない。だが私は公爵で、報酬を払う側で、君の書店の鍵を握っている人間だ。その立場で『行くな』と言えば、それは頼みではなく命令になる。君に選ばせないやり方で君を手に入れるくらいなら、私は」
彼は、そこでようやく私を見た。
「あと一度なら、まだ君の夫でいられる」
ランプの火が、小さく揺れた。
「だから私は、その一度を食べられない」
――ああ。
私は、両手で口を押さえた。
押さえなければ、笑ってしまいそうだった。この期に及んでまだ笑おうとする自分の顔を、私は生まれて初めて、心の底から憎らしいと思った。
だから私は、笑うのをやめた。
「旦那様」
声が震えた。震えたまま、喋った。
「私、あの晩、泣きそうだったんです」
彼の目が見開かれる。
「泣いてしまったら、契約を破ってくださいと言ってしまいそうでした。あなたが署名した契約です。私も署名した契約です。それを、私の都合で反故にしてくださいと縋るのは、あまりに勝手でしょう」
「だから笑いました。つらいときほど笑ってしまうんです。昔からの、悪い癖で」
「書店は欲しいんです。母の店ですから。取り戻したいと、六年間ずっと思っていました」
私は、彼の帳面の、空白の欄を見た。
「けれど私は、書店を手に入れるためにあなたを失いたかったわけでは、ありません」
沈黙が落ちた。
やがてルーカスが立ち上がり、机を回って、私の前に来た。そして――公爵という生き物がおそらく最も苦手とするであろう動作で、片膝をついた。
「アデライン・フォスター」
「書店は君のものだ。報酬も君のものだ。それは契約の履行として、何があっても変わらない。取り上げはしない。その上で」
彼の手が、私の手を取った。冷血公爵の手は、驚くほど熱かった。
「契約ではなく、私の妻でいてほしい」
私は頷いた。何度も頷いた。頷きながら、みっともなく泣いた。けれど、笑ってごまかしはしなかった。
それから鼻をすすって、言った。
「条件が、一つございます」
「……言ってくれ」
「どれほどお忙しくても、夕食を避けるときは嘘をつかないでください。クルミも、繊細な胃の腑も、水をたくさん飲む努力も、もう結構です」
彼が、げほ、と咳き込んだ。
「……努力の件は、どこから」
「モーリスから」
「あの男は」
「たいへん誠実な方です」
廊下の向こうで、床がわずかに軋んだ。
「では、私からも条件を出していいか」
ルーカスは私の手を握ったまま、真剣な顔で言った。
「つらいときに、笑って誤魔化さないでほしい。……君のあの笑い方が、私は一番怖い」
私はまた泣いた。今度は、彼の手を握り返しながら。
◆
私たちは、食べる前に離縁状を取り下げた。
ルーカスが引き出しから取り下げ届を一通出し、先に署名した。私もその隣に名を書く。双方の同意。契約書の定めるとおりの手順だった。証人の欄には、モーリスが実に堂々と署名した。
「四日ぶんの嘘の埋め合わせは、これでお許しくださいませ」
老執事はそう言って、羽根ペンを置いた。
それから真っ新な紙を一枚出して、婚姻の誓約書を作った。契約書に新しい条文を書き足すことは、しなかった。古い契約書は破らずに引き出しへ戻す。あれは私たちが出会った証しだ。夕食の記録も、そのまま残すことにした。
そうしてようやく、ルーカスは黒パンを手に取った。
二つに割って、片方を私にくれる。
スープはとうに冷めていた。パンは硬くて、たぶんこの屋敷で出される料理の中で一番粗末だった。
「……これは、三百六十五回目の夕食だろうか」
「ええ」
私は頷いた。それから、付け加える。
「けれど、最後ではありません」
彼が目を上げる。
「本当の夫婦としては、最初の夕食です」
ルーカスは帳面を引き寄せ、空白だったままの最後の欄に、ペンを走らせた。
三百六十五回目。野菜スープ、黒パン、チーズ。
これで祖母君の遺言の条件は満たされ、公爵家の相続は滞りなく片づくはずだった。けれど、あの方が本当に見たかったのは、遺産の行き先ではなかったのだろう。
ひとことの欄に、彼はこう書いた。
『これより数えない』
◆
三か月後。
王都三番通りの角に、小さな書店が開いた。
看板には『フォスター書房』とある。母の店の名前を、そのまま使うことにした。扉の鈴は、六年前と同じものを、前の持ち主から譲ってもらった。
店主は私だ。公爵夫人の道楽ではない。帳簿をつけるのも、仕入れの目録と睨み合うのも、荷ほどきで指を切るのも、全部私の仕事だ。
最初のひと月は赤字だった。二月目でようやく釣り合った。三月目には、常連と呼べるお客が七人できた。そのうち二人は、公爵家の使用人ではない。
仕入れは難しい。目録は分厚く、卸の商人は最初、私を子ども扱いした。二度目からはしなくなった。値切り方を覚えるのは、公爵夫人としての夜会よりよほど骨が折れる。
それでも朝いちばんに鍵を回して扉を開けるとき、私はいつも母のことを思い出す。母もきっと、この鍵をこうやって回していた。
閉店の札を下げて床を掃いていると、扉の鈴が鳴った。
「まだ入れるか」
「本日は閉店です」
そう言って、私は扉を大きく開けた。
ルーカスが外套の雪を払って入ってくる。仕事帰りの、少し疲れた顔だ。この人は今でも会議を切り上げてくる。夕食のために仕事を切り上げる公爵の噂は、そろそろ社交界にも広まりつつあるらしい。
店の奥、帳場の裏に小さな卓がある。私たちはそこで、簡単な夕食を取る。今日はスープと、パンと、チーズだ。相変わらず、私の皿にセロリは乗らない。
「アデライン」
パンをちぎりながら、彼が言った。
「今夜は、何回目だ」
冗談めかした声だった。この人も、この一年あまりで少しは冗談を覚えたのだ。
「数えていません」
「……記録好きの君が?」
「だって」
私はスープをよそいながら、笑った。今度は、隠すための笑いではなかった。
「終わりの日を、決めていませんもの」
彼はしばらく黙って、それから、ひどく満足そうに息を吐いた。
そして当たり前のような顔で黒パンを二つに割り、片方を私に寄越した。
外は雪だ。窓は白く曇っている。棚には売れ残りの詩集が並んでいて、明日はそれを窓辺に移そうと思っている。
三百六十五回目を最後にできなかった夫と私は、もう数えなくていい夕食を、今日も一緒に食べている。




