7◇用心棒面接
7◇用心棒面接
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次の日、吉右衛門は知り合いの大店や与力などに声を掛け、町中での用心棒の動向を探る。
五郎左衛門も昔の伝手を使い、用心棒の扱いなどを聞いて回っていた。
10日ほどしてある程度の人数の用心棒の仕事ぶりを書いた書面が集まり、15人程度なので全員を面接しようということになった。
「今日、来て貰ったのは我が沼津藩の重要な調査に随伴して護衛して貰う為の用心棒の打診の為だ。これから一人ずつ別室に通すので、そこに居る4人の問いに答えてほしい。」
「まず腕試しをするのではないのか。」
用心棒候補の一人がそう尋ねる。
他の数人も同様に頷く。
「腕試しは当然する。だが、その前に我が沼津藩の重要な用件に随伴しても問題無いかどうかの確認が先になる。」
「その確認とは何をするのだ。」
「今は言えぬ。別室で相対した時に説明する。」
上役の田所がそう言うと、用心棒候補は黙った。
別室には五郎左衛門、吉右衛門、師範の田所、頭巾装束のあやめの4人が座って待っていた。
上役の田所は五郎左衛門のかけ声に答えて、順番に用心棒候補を一人づつ送り込む。
別室に最初の用心棒候補が入って来る。
胸には番号と名前を書いた紙を針で仮止めして、間違いの無い様に工夫されていた。
「では、佐伯殿。まず仕事の内容を概略であるがお話ししよう。これは我が沼津藩の北方にある山中の調査をするのに必要な護衛の募集になる。この山中は山深く、急な斜面と道なき道を進むことになる。オオカミの群れはたまに遭遇し、霧がかかって全く進めなくなることもある。調査するのは沼津藩の山専門の担当が二人、それに対して護衛を4人付ける。合計6人での調査だが、人数が少ないのには訳がある。以前10人以上の大人数で調べたことがあったが、その時は幾度行っても不審な事は無かった。だが、人数を減らすと調査に出た者が帰って来ないことがあるのだ。そこで、腕に覚えのある用心棒を付ければ少人数でも帰還に問題無いと判断して募集したのだ。」
「なぜその様な危ういことをわざわざするのか。」
「我が藩の領民が食べ物を探して山奥に入って帰って来ないことが頻発しているのだ。こちらが大人数で行くと帰って来ない事例が起きないので原因を掴みかねておる。その為の少人数で行く場合の腕自慢の募集になる。」
「あい分かり申した。そういう事なら我が佐伯流の剣術が役に立ちましょうぞ。」
「それではここで剣の型を披露していただけないですかな。」
そう言って、吉右衛門が佐伯に刃を潰した鉄剣を渡す。
佐伯は自分の刀を床に置き、吉右衛門から受け取った鉄剣の鞘を帯に差す。
後ろの少し広い場所に下がり、一礼する。
素早く構え、鞘から一瞬で抜いて振りかざす。
次に仮の相手に向かって数手切りつけ、すぐに引いて正面に構える。
左右にも仮の相手がいる風に立ち回り、剣の型を終えた。
それを見ながら4人は手元の紙に筆で評価を書き付ける。
吉右衛門はさほど剣が立つ方では無かったので、主に受け答えの評価で剣技はあまり見ていない。
逆に師範の田所とあやめは小声で話しながら色々書き付けている。
五郎左衛門はおおよその感覚で印を付けていた。
その様にして面接を行い、15人全てが終わったのは1刻(2時間)ほど経っていた頃であった。
その時点で6人に絞り込み、他は帰って貰った。
またの機会にということで連絡先を聞くと共に手間賃として銀3匁を渡していたので不満を言う者は居なかった。
残った6人はいずれも剣の型と受け答えが問題無しと判断された者になる。
ここからは袋竹刀を用いて実際の打ち合いで確かめる。
師範の田所と頭巾装束のあやめの二人がかりで最初は軽く打ち込み、徐々に難易度を上げていく手法を取る。
これで候補の実力がほぼ分かる。
最終的には以下の4人を採用とした。
佐伯宗右衛門、29歳
後藤貫太郎、34歳
島本与五郎、41歳
新渡戸三郎、27歳
以降、この沼津藩邸にて暮らし、暫くは食客として待機して貰う。
藩士として迎え入れた訳ではないので、身分は藩士の下となる。
但し、用心棒に指示出来る者は五郎左衛門、吉右衛門、師範の田所、上役の田所の4名のみとし、他の藩士は用心棒に対して仕事を押しつけたり用事を言いつける事は禁止とした。
これは藩邸での無用な軋轢を防ぎ、用心棒達の忠誠心を高める為でもある。
食客中は一日に銀4匁支給し、衣食住は提供する。
但し、剣の稽古は毎日してもらう。
師範の田所と袋竹刀で打ち合い、出来るだけ実力を上げて貰う。
沼津藩や山麓の村に移動する時は一日銀10匁、用心棒として行動する場合は一日当たり銀20匁を支給することにした。
これだけ厚遇すれば離反する気にもならないだろうと上役の田所が決めた。
次に沼津藩の北方向、呼子岳から愛鷹山を下る地方の調査の日程である。
沼津藩とは早飛脚で幾度か書状でやりとりし、10月の末に行くことに決めた。
10月の中旬に用心棒達に月末に出立するので用意する様に伝える。
同行するのは五郎左衛門、吉右衛門、あやめの3人に加えて用心棒の4人である。
あやめは道中と用心棒が居るときは頭巾装束のままとし、幕府の要職の者として詮索を禁じた。
10月末になり一行は出発するが、与次郎と道場の3人が我らも連れて行けと騒いだ。
あやめ殿が行くのに何故我らが残るのかという妙な忠誠心である。
どうしてもと引かないのであやめは道場に4人を連れて行き、袋竹刀で乱れ打ちの相手をして全員叩きのめした。
その翌日、4人がうなって寝ている間に出立をした。
江戸沼津藩邸と沼津藩の浅田家の間は徒歩で5日である。
一人あやめが混じっているとはいえ、7人の人間が徒党を組んで移動すると目立つものである。
道中の関所では全員分の沼津藩発行の手形があるにも関わらず、同心が根掘り葉掘り聞いてくる。
特に頭巾装束のあやめには色々言われたが、予め取り寄せておいた沼津藩主発行の依頼書により幕府留守居が関所女手形を発行していたので別室での確認により通された。
江戸を出立して5日目の夕方沼津藩に到着し、用心棒の4人は浅田邸の近くの旅籠に案内された。
毎日昼の鐘が鳴る前後には連絡をするということを伝え、それ以外はあまり遠くに行かなければ自由とした。
城下町なので食べるところは結構ある。
五郎左衛門と吉右衛門、あやめは浅田邸に到着し、父与三郎の歓迎を受ける。
「叔父上、久しゅう御座いますな。3年ぶりくらいでしょうか。」
「与三郎も達者そうで何よりであるな。つばきや昌之輔も息災か。」
「はい、皆奥でお待ちしております。」
「お父様、お久しぶりで御座います。」
「あやめ、それほど月日は経っていないぞ。今回のことは聞いておる。しっかりとお役目を果たしておくれ。」
与三郎はそれでも娘の元気な姿を見るのは嬉しそうであった。




