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4◇沼津藩邸初日

4◇沼津藩邸初日

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翌日の早朝、どこかで鳴く雄鶏の声にあやめは目を覚ました。

まだ長月(9月)なので少し暑い。

素早く外着に着替え、顔を洗う為に台所に行く。

すると既にときとたつ、さよの3代女衆が朝餉の支度をしていた。


「申しわけありません。起きるのが遅くなってしまいました。」


「いいのよ。あやめちゃんは甚五郎さんと与三郎さんから託された大事なお客さんなんだから。」


そうは言え、あやめも客扱いされたくてこちらに来たのではない。

実家でも朝晩の支度は母つばきと共にやってきた。

さすがに昼は人数が少ないのもあって免除してもらっていたが。


「いえ、私も実家で朝晩の支度は母と共にやって来ました。お世話になる以上、こちらでもさせてください。」


「そうは言ってもねぇ。ここに3人並ぶともうすることが無いのよ。あやめちゃんは気にせず与次郎の相手でもしていてね。」


そうまで言われるとあやめも引っ込むしかなくなる。

厠の横の手水場で顔を洗い、仕込み杖を持って庭に出る。

杖全体を細い布袋に入れて万一にも抜けない様にし、素振りを始めた。

暫くすると男衆も起きて来る。

廊下から庭が見えるので皆声を掛けて行く。

与三郎だけ暫くじっと見ていた。


「そんなに軽い杖を振ったって何の鍛錬にもならんだろう。」


あやめは振り向き、与次郎の少し小馬鹿にした様な表情を見て眉をしかめる。


「お気になさらずに。これが私の日課ですので。」


軽くあしらわれたと思った与次郎は縁側から雪駄を履いて庭に降りてくる。


「どれ、俺にも振らせてみろ。」


与次郎は自信満々であやめに仕込み杖を渡す用に手を出してくる。

あやめは少しの間ためらい、ゆっくりと仕込み杖を渡す。


「重いですよ。」


与次郎は何を馬鹿なことかと思い、片手で受け取ってその重さに思わずよろめく。

次の瞬間、仕込み杖を取り落としそうになったのであやめが素早く奪い取る。


「ね、重いでしょ。」


与次郎を余所にあやめは素振りを再開する。

軽々と振られた杖はよく聞くとブンブンという風切り音を発していた。

何も言えなくなった与次郎はばつの悪そうな表情をしながら縁側に戻って行った。


暫くすると朝餉が出来たようで、さよが呼びに来る。

あやめはさよと共に居間に行き、五郎左衛門一家と共に朝餉をいただいた。

味付けは実家と少し違っていたが、沼津産の鰹出汁の味噌汁の味はかなり似通っていた。


食後はすぐに出仕するらしく、五郎左衛門が声をかけて来た。

あやめは仕込み杖は自室の布団の隙間に押し込んで隠す。

さすがに女が仕事場に刀を持って行く訳にはいかない。


男衆3人と共にあやめは浅田邸を出て沼津藩邸に向かう。

手には矢立と半紙を20枚ほど束ねた物を入れた風呂敷を持っている。

学習の機会と捉え、覚えることがあったら書き記す為だ。

弁当も持たされたのでその包みも一緒に持つ。

5丁ほど歩くと藩邸に着いた。

4人は正門からは入らず、塀を少し回った所にある通用門から入った。

日常業務をする下級武士なので正門からは入れないらしい。

中に入ると下駄箱の様な棚があり、そこに脱いだ履物を入れておく。

皆草履なので草鞋の様に脱ぐ手間はかからない。

邸内に入ると文机の並んだ部屋に入り、床には帳面が積まれていた。

男衆3人は並んで座り、あやめには五郎左衛門と吉右衛門の間に座る様に指示された。

後から入って来た上役と思われる武士に五郎左衛門は立ち上がって話しかけ、あやめの同席の許可を貰う。

女ながら立志のある若者で、五郎左衛門の兄の孫であるということもあって許可は出た。

上役は珍しげな表情であやめを見ていたが、ならば計算をやらせてみろと言ってきた。

吉右衛門が立ち上がり、奥の部屋から昨年の年貢や諸役などの税に関する帳簿を持ってきた。

綴じ紐を解き、ある村の年貢の収入の部分を抜き出してあやめに渡してくる。

それを集計してみよという指示だった。

実家で見ていた帳簿と少し違うので見方を教えて貰い、どういう結果を出したら良いかを聞いたらすぐに分かった。

算盤を貸してもらい、あやめは瞬く間に結果を出した。

驚く上役と五郎左衛門にあやめはもっと難関な物をやらせてくれと言う。

それならばと五郎左衛門は税率の計算が必要な帳面を出してくる。

これも少々やり方を聞いた程度であやめは熟していく。

どこで覚えたのかと上役が問うと、あやめは実家で父親の借りてくれる書籍を書き写し、分からないことは父親に質問して分かるまで学習したと言った。

それからは上役と五郎左衛門が寄ってたかって質問攻めにしてくる。

あやめの学習結果と「私」の祖父甚五郎の記憶により、殆どの質問を難なく熟していく。

それを見ていた上役があやめに奉公しないかと聞いてくる。

あやめは実務経験も大事との「私」の干渉により、半年限定ならと答える。

上役はそれでも良いと了承した。

それを側で聞いていた吉右衛門と与次郎は面白くない。

田舎から出て来た娘がいきなり藩邸に実務奉公を誘われたのだ。

横から田舎から出来たばかりだとか、与次郎はまだ見習いなのにとか言う。

それは五郎左衛門に一喝されて二人とも黙った。


昼食は朝持たせてくれた弁当を食べ、昼からは与次郎と共に藩邸内の道場に向かう。

今日は初日ということで、奉公は明日からということになった。

それまでにあやめ用の仕事を用意するとのことだ。


道場に着くと同年代の若者が3人ほど居た。

与次郎があやめを紹介し、女だてらに剣を振るうと茶化す。

あやめは相手にせず、まずは腕試しをさせて欲しいと言う。

師範と思われる中年の男が道場に上がる様に言い、あやめと与次郎は草履を脱いで上がる。

まず師範はあやめに袋竹刀を渡し、打ち込んで来る様に言う。

あやめは袋竹刀を受け取り、一礼して構える。

着物は女向けだが、旅装でもあるので剣を振るうことに支障はない。

小袖の下に短い袴を履き、裾をめくって大立ち回りをしても恥ずかしくない様に工夫していた。


あやめは礼をした直後に裾を大きく割って一歩踏み込み、師範に上段から打ち込む。

師範はそれを受け流し、胴を狙って横ざまに袋竹刀を振る。

あやめは素早く一歩引き、袋竹刀を横振りして防ぐ。

10手ほど打ち合ったところで師範が袋竹刀を下げた。

お互いあまりにも余分な動作無しで動いたので、傍目にはゆるく打ち合った様に見える。


この時「私」はあやめの感覚の補助をしていた。

いわゆる、第六感という奴である。

あやめの現在の感覚では捉えきれない師範の横胴に対し、無意識で体が反応する様に仕向ける。

あやめは自分の感覚が神がかった様に思えるが、厳しい鍛錬の結果だと納得する様に誘導した。

今回の師範対戦でもそれが無かったら3本は打ち込まれていたが、全て「私」が回避させた。

これによりこの師範はあやめの実力を過大に評価するだろう。

今後のあやめの躍進の一助になれば良いと思う。


「いやーあやめちゃんだっけ。すごいなぁ。ここにいる男連中よりよっぽど強いなぁ。」


師範が軽い調子で言ってくる。

それを聞いて与次郎と他の3人が気色ばむ。

我慢がならず、3人の中で一番体格の大きい男が名乗り出た。


「我は財前賀来次郎。この道場で3年修行をしておる。お主は師匠と打ち合ったが、あんなにゆるく打ったのでは試合とは言えん。我と一番手合わせを願おう。」


18歳になる賀来次郎はこの道場の中で一番背が高い。

あやめとは頭一つ分違った。

腕も太く、腕力もありそうであった。

あやめは師範の方を向いて首を傾げる。

師範は賀来次郎を手招きして袋竹刀を手渡した。


「では、財前賀来次郎と浅田あやめの勝負を始める。お互いに「突き」は無しとする。」


この道場では過去の事故から練習試合では突きを禁止していた。

勿論、対外試合では突きもあるので練習はする。

あやめも突きは習熟していたが、練習試合ではあまりにも相手に与える損傷が大きいので使わない様にしていた。

この道場でも同じなら好都合だ。

相手も突きが使えなければこちらの勝率も上がる。


「双方構え。始め。」


師範が号令をかけ、双方が走り寄る。

しかし、賀来次郎の打ち込んだ上段は空を切り、直後に左脇腹に痛みを感じる。

一瞬のことであった。

賀来次郎は納得出来ぬとばかりに脇腹の痛みを堪えながら再度挑戦する。

5度打ち合った時点で賀来次郎は膝をついた。

両脇腹と両小手、頭に袋竹刀の打撃を食らい、その痛みに立っていられなくなった様である。


「ま、まいった。それ以上打ってくれるな。」


賀来次郎は引きつった表情を浮かべながらあやめの前に倒れ込んだ。


「そこまで。」


と、師範が言ったが、与次郎とその他二人は声も発せず立ちすくんでいるだけであった。

師範相手には「私」が補助したが、加来次郎程度では不要であった。

「私」は何もせず、あやめは全く危なげなく勝った。


「いやいやいや、ほんとに強いねあやめちゃん。賀来次郎が手も足も出ないとは。こりゃぁ俺も真剣勝負はしたくないなぁ。」


師範はひょうきんを装って言うが、あやめの実力には感心していた。

何より、意識外から打ち込んだ横胴が防がれたのに少なからず驚かされた。


「あやめちゃん。沼津の実家でも道場に通っていたのかい?どこの道場?」


「はい、山之内道場に通っていました。山之内師範より師範代の称号を頂戴しております。」


「え、そりゃ強いはずだ。あそこは沼津でも厳しいと有名なところだしなぁ。」


その内容を聞いて他の4人は震え上がる。

完全に舐めていた女子が強豪道場の師範代だ。

それ以降、4人はあやめに対して敬語を使うようになった。

あやめは止めてくれと言うが、4人は本当に尊敬の眼差して見てくるのでそれ以上は拒否できなかった。

あやめも負けじと敬語を使うので、5人が敬語で語り合うという若者にあるまじき奇妙な会話となっていた。


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