白鳥小夜のノートに刻まれた言葉
放課後の図書館は、いつも薄暗く静かだ。
夕日が差し込む窓際には、ほとんど人の気配がない。
だが、その隅の席にだけ、いつも同じ少女が座っていた。
白鳥小夜。
長い黒髪を前に垂らし、小柄な体を小さく縮めるようにして本を読む。
しかし、不思議と存在感が薄いわけではない。
まるで“そこだけ空気が止まっている”ような静けさがあった。
(……ずっと気になっていた。
妻の遥とはタイプが違いすぎるはずなのに——
なぜか、目が離せない。)
僕は自然と彼女の席の近くへと歩いていった。
「……白鳥さん?」
声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせた。
怯えた動物のように顔を上げる。
「……はい。なにか、用ですか?」
かすれた小さな声だった。
表情は淡々としているが、瞳の奥に深い影がある。
「いや、その……よくここにいるなって思って」
「静かだから……。誰も近寄らないので……安心します」
淡泊な答え。
だけど、その奥に隠された孤独が、痛いほど伝わってきた。
「何を読んでるんだ?」
彼女は少し迷ってから、本を閉じて表紙を見せた。
『遠い春の詩集』
瞬間、胸が跳ねた。
(……また“春”か。)
栗原美羽が読んでいた小説も“春”がテーマだった。
そして——妻が最も好きだった季節も“春”。
偶然とは思えない連続。
ふと、小夜のノートが机の端からずれて、床に落ちた。
拾おうと手を伸ばした瞬間、ページがぱらりと開いた。
そこに書かれていたのは、
細く丁寧な字で綴られた詩。
そして、その一節が目に止まった。
「——あなたの声を、いつかまた思い出せるだろうか。」
(っ……!)
呼吸が止まった。
それは——妻が結婚前、僕に送ってくれたメッセージと“ほぼ同じ言葉”だった。
「こ、これ……」
思わず声を出しそうになったとき、小夜が慌ててノートを奪い返す。
「見ないで……! これは……私の……」
震える声。
涙が光っている。
「ごめん。勝手に見たわけじゃ——」
「ちがう……そうじゃない……!」
小夜は必死に首を振る。
「この言葉……ずっと前から覚えてるのに……
“誰の言葉だったか”だけ、どうしても思い出せないの……」
胸が冷たくなった。
(誰かの声……誰かの言葉……
まさか、遥……?)
「白鳥さん、その言葉……誰に向けて書いたんだ?」
「わかりません……」
小夜は涙声で答える。
「でも……時々、知らないはずの声が聞こえるんです。
“また会えたね”って……優しい声が……」
心臓が強く跳ねる。
まるで、遥が最後に僕へ伸ばした声のようだった。
「それって……夢とかじゃなくて?」
「夢じゃありません。
だって……その声を聞くと、胸がすごく苦しくなるから。
失ったものを思い出すみたいに……」
彼女の言葉が、深く刺さる。
(本当に……遥の欠片なのか?)
妻の記憶が分散して、この世界の少女たちに断片的に宿っている——
そんな荒唐無稽な仮説が、現実味を帯び始める。
小夜は涙を拭いながら、弱々しく笑った。
「……変ですよね。
会ったこともないはずの人を……ずっと探してるなんて」
「……探してる?」
「はい。
“誰かに会わなきゃいけない”って、ずっと……
胸の中で、誰かが囁いてるみたいなんです」
背筋が凍った。
まるで僕のことを、探しているかのような言い方だった。
(本当に……偶然なのか?)
僕は言葉を失ったまま、小夜を見つめた。
すると彼女は、少しだけ口元を震わせて言った。
「加賀見くん……あなたの声……どこかで……聞いたことがある気がします」
夕陽の光が静かに差し込み、小夜の長い睫毛を赤く照らした。
(……どうなってるんだ。この世界は。)
その日はもう、何も言えなかった。
夜、自室でノートに五人目の候補を書き込む。
白鳥小夜
→ 妻の詩とほぼ同じ言葉
→ “誰かの声を思い出せない”
→ 僕の声に覚えがあると言う
→ 記憶の断片に“懐かしさ”
「……白鳥さんまで。
どこまで似てくるんだ……?」
ページの上で、手が震えていた。
ノートには、すでに妻の影が五つも揺れている。
なのに——答えはまだ一つも見えなかった。




