泣き虫の小弥生が覚えているもの
放課後の掃除当番。
廊下の端でモップを動かしながら、僕はため息をついた。
(栗原さん、三沢さん……どっちも決め手に欠ける。
でも、似ているところが多すぎる。)
ノートの“候補欄”が埋まっていくたびに、胸の奥は重くなっていった。
そんなとき、
「きゃっ!」という小さな悲鳴が響いた。
振り返ると、花巻小弥生がバケツをひっくり返し、びしょ濡れになっていた。
制服の裾が床にくっつき、彼女は今にも泣き出しそう顔で固まっている。
「は、花巻さん……大丈夫?」
「ご、ごめんなさい……また、やっちゃって……」
涙が目にたまって、今にも零れ落ちそうだ。
(……弱いところを隠せない子だな。)
それが妙に胸にきた。
妻が一時期、心を病んで泣き虫になっていた頃が、ふっと思い浮かんだ。
「手伝うよ。ほら、タオル」
タオルを差し出すと、小弥生は震えた手で受け取り、
「ありがとう……」と、か細い声で言った。
涙の粒がひとつ、タオルに落ちる。
「実はさ……」
床を拭きながら、小弥生がぽつりと口を開いた。
「こういうの、昔からで……。なんか、上手くできないっていうか……」
「ドジなのは悪いことじゃないよ」
「……わかってる。でもね……時々思うの。
“私、誰かと一緒にいたはずなのに”って。」
拭く手が止まった。
「え?」
「よく覚えてないんだけど……誰かの声とか、手とか……
すごく温かかった記憶が、急に胸に浮かぶことがあるの」
心臓が跳ねた。
(“温かい手の記憶”……?)
それは、妻・遥の記憶と重なりすぎる。
「それって……誰だと思う?」
「わかんない。でもね……」
小弥生は涙をぬぐいながら、僕をじっと見た。
その視線は、震えていて、どこか切なかった。
「加賀見くんを見ると、時々……その“誰か”を思い出すの」
息が詰まった。
彼女は僕の反応を待つように、ぎゅっとタオルを握りしめる。
「変、だよね……初対面なのに……」
「いや……変じゃないよ」
言いながら、手が震えた。
“初対面じゃない気がする”という三沢纱月の言葉が脳裏を過る。
これで二人目。
偶然で済ますには、あまりにも出来過ぎている。
(……本当に、妻の魂が入っている可能性だって……)
そんな非現実的な想像が頭をよぎる。
床を拭き終える頃、小弥生の表情は少しだけ和らいでいた。
「加賀見くんって……優しいんだね」
「そうでもないよ」
「ううん。なんかね……包まれてるって感じがするの。
怖い夢を見たあと、隣にいてくれた人みたいな……」
その言葉を聞いた瞬間、背中がぞくりとした。
(……それは、完全に遥のことじゃないか。)
大学時代、悪夢にうなされる妻の隣に僕がついていた記憶。
彼女は朝起きて、こう言った。
「悠真のそばって、あったかいね。守られてるみたい」
小弥生の言葉は、そのままだった。
本当に彼女なのか?
だとしたら記憶がないのはなぜ?
疑問がぐるぐると頭を回る。
掃除が終わり、廊下に夕日が差し込むころ。
小弥生は最後に僕に向かって小さく手を振った。
「今日は……ありがと。なんか、安心したよ」
「……気にするな。また困ったら呼んで」
「呼ぶよ。だって……きっと……」
彼女は途切れ途切れに言った。
「加賀見くんは……私の“知ってる人”だから……」
夕日の逆光に照らされたその横顔は、涙の跡で少し光っていた。
帰宅後、僕はノートを開き、三人目の名前を書き込んだ。
花巻小弥生
→ “温かい手の記憶”の断片
→ 僕を“知ってる人”と言う
→ 妻の涙癖と一致
書き終えた瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。
「……君まで、そうなのか?」
ノートの文字がじわりと滲んで見えた。
自分でも気づかないうちに、手が震えていた。
(もう、後戻りできない。)
ゆっくりと目を閉じると、
妻が最後に握った“あの温かい手”の感触が、ふっと蘇った。




