窓辺の微笑みは誰の記憶か
昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気にゆるむ。
弁当のフタを開ける音、友人同士の談笑、椅子を引く音——
その喧噪の中で、ひとりだけ静かな存在が目に入った。
栗原美羽。
彼女は窓際の席で、ゆっくりと髪を耳にかけながら外を眺めていた。
頬に当たる光が淡く揺れ、横顔はまるで一枚の絵画のようだった。
(……似ている。)
胸の奥が、わずかに疼いた。
その仕草は、妻・遥がよくしていたものとまったく同じだった。
「加賀見くん、お弁当……忘れたの?」
いつの間にか美羽がこちらに気づいたらしく、そっと声をかけてきた。
「あ、いや。ちょっとボーッとしてただけ」
慌ててごまかすと、美羽は小さく笑った。
「ふふ、珍しいね。なんだか……疲れてる?」
まただ。
その微笑みが、遥の一番やさしい時の笑顔に重なる。
思わず息を呑んでしまう。
「……栗原さんは、よく人のこと見てるんだな」
「え? そんなことないよ。ただ……加賀見くんの顔、少し寂しそうに見えたから」
胸の奥がざわつく。
“寂しそう”なんて、妻以外に言われたことはなかった。
(偶然……だよな?)
自分に言い聞かせても、どこかで否定できなかった。
そのとき、教室の反対側から数人の女子が近づいてきた。
「ねぇ美羽、今日さ、部活の準備手伝ってよ?」
「昨日もお願いしたよね? 美羽しかいないんだから」
声は柔らかいが、明らかに強制の色を帯びている。
美羽は一瞬だけ困った顔をした。
「あ、うん……わかった。あとで行くね」
「あとでじゃなくて、今。昼休みのうちに終わらせたいし」
美羽は立ち上がる。
その横顔が、すごく弱々しく見えた。
(……これは、いじめじゃないのか?)
思わず立ち上がりかけた僕を、美羽が制するように振り返った。
「大丈夫だよ、加賀見くん。心配しないで」
そう言って、微笑んだ。
優しすぎる、無理に作ったような笑顔で。
(その笑い方も——遥に、似てる。)
胸を掴まれたような感覚。
女子たちが去ったあと、教室に残ったのは僕ひとりだった。
美羽の机には、開きかけの文庫本が残されている。
手に取るつもりはなかったのに、タイトルを見た瞬間、指先が震えた。
『春を待つ人へ』
妻が大学時代、何度も読み返していた小説。
その本に線が引かれていたページを開くと、
そこには妻が昔好きだった一節があった。
——「人は誰かの痛みに気づいたとき、ようやく自分を知る」
(……偶然で済ませられるか?)
胸の奥で、確かな予感が芽生え始めていた。
放課後。
美羽は部室棟の前で荷物を運びながら、女子たちに何か指示を受けていた。
それでも、彼女は笑っていた。
苦しいのに、優しく振る舞おうとしていた。
(どうして……そんな顔ができるんだよ。)
遠くからその姿を見つめながら、心が揺れた。
助けに入るべきか迷ったその瞬間、視線を感じて振り向くと——
廊下の奥で、藤宮蓮が僕を見ていた。
意味ありげな眼差し。
まるで言っているようだった。
「栗原美羽だけじゃないよ。まだ気づいていないだけだ」
僕の背筋を、冷たいものが走った。
その夜、ノートに最初の“候補リスト”を書いた。
栗原美羽
→ 妻の仕草・笑顔・好きな本が一致
ページに書いた文字が、自分でも驚くほど重たく見えた。
「……本当に、君なのか?」
小さく呟いた声は、暗い部屋に沈んで消えた。




