消えた名前
翌朝。
まるで眠れなかった僕は、始業より一時間も早く学校へ向かった。
——昨日見たものは、見間違いかもしれない。
そんな淡い期待だけを胸に。
校舎に入ると、まだ生徒の姿はほとんどない。
早朝の廊下には静かな空気が漂い、窓からの光が薄く床に伸びていた。
僕は真っ直ぐに西棟の一階——資料室へ向かった。
資料室の扉を開けると、少しカビのにおいが鼻をついた。
棚には過去十数年分の生徒名簿や学校新聞がぎっしりと積まれている。
僕は迷わず、妻が在籍していたはずの年度の名簿を探した。
如月 遥。
彼女の名前を探す手は、震えていた。
ページをめくる。
クラスを確認する。
もう一度、最初から見直す。
……だが。
「……やっぱり、ない。」
どこにも、彼女の名前は載っていなかった。
代わりに、ある一冊の名簿のページだけ、紙の質感が微妙に違っていた。
まるで他の名簿より“新しい紙”が挿し替えられているようだった。
僕はそのページを指でなぞった。
——そこには、明らかな“空白”があった。
本来、誰かの名前が入っていたかのような、ぽっかりとしたスペース。
完全に違和感のある余白。
「……遥、君なのか? ここに……いたのか?」
胸が締めつけられる。
この世界の“過去”は、本当に僕が知っている過去なのか。
あの日々と同じ時間軸ではないのかもしれない——そんな不安が喉の奥でざらついた。
資料室を出ると、ちょうど登校が始まった時間で、廊下が少しずつ賑やかになってきた。
その中に——
ふと、目を引く五人の女子生徒がいた。
窓際で髪をそっと耳にかける、静かな雰囲気の少女。
男子と明るく話しながら駆けていく、元気なポニーテールの少女。
教科書を抱えたまま、うっかり壁にぶつかる小柄な少女。
誰かと電話をしながら、落ち着いた声で話す成熟した雰囲気の少女。
そして、廊下の隅でひとり、本を抱きしめて歩く無口そうな少女。
——全員、どこかで見たような“影”を持っていた。
妻の面影に、似ている。
心臓が不自然に跳ねた。
まさかとは思う。
だけど、この世界で彼女の名前が消えている以上、可能性は捨てきれなかった。
(……もしかして。君は、別の名前で生きている?)
そう考えた瞬間、五人の姿が氷のように胸へ刺さった。
「……どうすればいいんだよ」
呟いた声は、人混みにすぐ飲み込まれた。
そのときだった。
「おはよ、加賀見くん?」
柔らかな声がして、振り返ると——
隣のクラスの男子、藤宮 蓮が立っていた。
彼は眉を下げ、どこか僕を心配するように見つめている。
「顔色、悪いよ? 何かあった?」
蓮がこんな優しい顔をするのを、僕は見たことがなかった。
まるで僕の事情を全部知っているかのような口ぶりだった。
胸の奥で、もうひとつ別の可能性が浮かぶ。
(……男、という可能性も……ゼロじゃないのか?)
背筋が冷たくなる。
“妻は、姿も名前も変えて転生している。”
そんな思いが、現実味を帯びて僕の中に根を張り始めた。
この日、僕ははっきりと自覚した。
——彼女は、この学校のどこかにいる。
だけど、名前は消えている。
姿も、声も、記憶も、すべて変わってしまっている。
だからこそ、僕は探さなくてはならない。
この千人の中から、たったひとりの“君”を。
廊下のざわめきの中、僕はぎゅっと拳を握った。
「必ず……見つけるから。」
その誓いだけが、崩れかけた心をかろうじて支えていた。




