8、契約と誓約
十年という月日が、灯火の剣士ユラの心を打ちのめしてしまった。
今はそっとしておくしかないと、ティレルとイネスは彼を暖炉の前に置いて、別室へと退いた。ユラのことはさておき、彼女たちも心底疲れ果てていたのである。
地下から汲んできた聖水を飲み、村からもらってきた堅焼きのパンを食べ、それから最低限埃を払った床で毛布に包まり、眠りに就いた。
ユラを案じる気持ちはある。彼が立ち直って、再び剣を取ってくれることを信じてティレルは目を閉じる。
しかし彼はこれまで十年もの間苦しみ続けたのだ。心折れ、立ち直れないというのであればそんな彼に戦いを強要することはできない。
その時はやはり自分一人で都に向かうしかないなと、眠りに落ちる寸前の意識でぼんやりと考えていた。
――ふと、目が覚めた。
疲れてはいたが、何か違和感を感じて意識が覚醒してしまったのである。
「……?」
横を見ると、イネスが健やかな寝息を立ててぐっすり眠っていた。
少し顔を上げて周囲に意識を巡らせる。
何か、たくさんの気配がこの聖堂の外に集まっている気配があった。
人の気配に死霊が集まってきたのか。ティレルはイネスを起こさぬよう、静かに起き上がった。
聖水の泉は魔獣を避けてくれるが、死霊はどうだろう。もしかしたら生者の魂を喰らうために、聖堂の中にまで侵入してくるかもしれない。
ユラはまだ暖炉の前にいるだろうか。いざとなれば彼も奥の部屋に隠れてもらい、自分が外に出て浄霊を行わなければ。
ティレルは頭の中で考えを巡らせ、暗い部屋の中を進んだ。
「……ユラ?」
暖炉のある部屋を覗き込む。しかし暖炉の火は燃え尽き、熾火となっている。部屋は暗く、ユラの気配はない。
まさか外へ出たのかと、慌てて手近な窓から外を見た。
大木がいくつも聳える暗い森の中、見覚えのある角灯の明かり。
はっとしてそちらに目をやると、いた。
大剣を背負い、襤褸を纏った男の背中――ユラである。
ティレルは嫌な予感がして、恐る恐る窓を開けた。
心が折れたユラは、とうとう死霊に魅入られてしまったのかもしれない。
窓から顔を出し、引き留めるために声を上げようとしたその時。
「……聖樹よ、災いによって奪われた生命に慈悲を与えたまえ。その頂の尊き光をこの闇深き地に届けたまえ……」
微かに聞こえてきたそれは、祈りの言葉であった。
ユラは死霊たちのために祈っていた。両手を差し伸べ、低く掠れた声で一心に祈りの言葉を紡いでいる。
どうなることかとティレルも口を噤んでそれを見守っていると、死霊たちはおとなしく祈りに耳を傾け、やがてゆっくりと闇に溶けていった。
「光齎す我らの聖樹よ。憐れなる魂に安らぎを与えたまえ。我らを救いたまえ。その頂に迷える魂を迎え入れたまえ……我らいつの日か、その頂で相見えん……」
ユラの祈りは、最後の死霊の一体が闇に消えるまで続いた。
聖樹に救いを願う祈りの言葉を何度も何度も繰り返す声は、きっと今だけではなくこの十年間ずっと続けられてきたのだろう。恐らくこの瘴気に満ちた森の中では、どれだけ祈ったところで死霊たちは永遠に彷徨い続けるままかもしれない。それでもユラは死霊たちが生気に飢えるたび、祈りを捧げてその霊魂を鎮めてきたのだろう。
彼は元々、王に魔獣の討伐を任せられ、守護剣を与えられるほどの騎士だった。
単純な強さだけでなく、誇り高さと高潔さを持ち合わせた立派な人物だったに違いない。
襤褸を纏い、穢れに塗れ、終わらぬ闇の中を這いずりながらでも魔獣を狩り、不幸な最期を迎えた王国の民たちの魂を今でも護り続けている。
例え国がなくなり、どれほどの時が経とうとも、彼は未だに騎士だった。
「我らいつの日か、その頂で相見えん……」
「……我らいつの日か、その頂で相見えん」
祈りの言葉の最後の一節を、ティレルも小声で重ねた。
かつての王国の民も、ユラ自身も、いつの日か救われますように。
ティレルもそう願わずにはおれなかった。
胸の前で指を組み、黙祷を捧げ、ティレルは音を立てぬように再びイネスのいる部屋へと帰っていった。
◇ ◇ ◇
次の日、というか次にティレルが目を覚ました時。
相変わらず部屋は暗く、窓から差し込む日差しもないが、恐らく朝だろう。
ティレルもイネスも聖樹の都にいた頃から規則正しい生活をしていたので、いつもだいたい同じ刻限に目を覚ます。その感覚を信じるならば朝であるはずだ。
角灯に火を灯し、身支度を整えそろりと部屋を出る。
あの暖炉の部屋では、既にユラが待ち構えていた。
しかし一晩経ったユラは不思議と背がしゃんと伸び、顔もすっきりしているように見える。
卓の上に置いた角灯の火をじっと見つめていた男は、ティレルたちが起きてきたことに気付くと顔を上げ、まっすぐに見据えた。
「……先ほどは情けないところを見せてしまって、すまなかった」
「いいえ、突然のことで混乱したでしょう。こちらももっと配慮すべきでした」
お互いに謝罪をしあい、会話が始まる。
「いろいろ考えたが、やはり契約を頼みたい。都がどうなっているのかわからないが、やはり俺は都に行くべきだと思う。自分の目であの地がどうなっているのかを確かめたい。
そしてこの剣をどうするべきなのかも、そこで考えたい。この剣は、ただの人間がずっと持っていて良いものではないのだから」
と言ってユラは卓の上に置かれた大剣をそっと撫でた。
ユラはしっかりと立ち直っていた。一時は取り乱したが、自分を見つめ直し、決意を新たにしている。
一国の王から守護剣を託された男の真の強さを目にして、ティレルも自然と背筋が伸びた。
「わかりました。貴方に協力していただけるなら心強い限りです。共に都を目指しましょう」
「よろしく頼む」
お互いに意思を確認し合い、ティレルはユラの手を取った。
長い年月を戦い抜いたその無骨な右手を両手で包み込み、目を閉じて祈りを込める。
「……光頂く聖樹よ、聖女ティレルの名において願います。我が身の祝福を騎士ユラにも齎したまえ。闇拓き魔祓うその光を分け与えたまえ……」
祈るティレルの体がほのかに輝き始める。やがてその輝きは手を通じてユラの体に移り、吸い込まれるかのようにゆっくりと消えていった。
ティレルとユラは今、聖女と守護騎士として契約によって結ばれたのである。
ティレルの持つ強い浄化の力、魔を祓う力がユラに流れ込み、対してティレルには――。
「ッ……!」
突然、ティレルが胸を押さえ、苦しげに呻いて膝をついた。
「ティレル!?」
「ティレル様!」
咄嗟にその体をユラが支え、イネスが駆け寄る。
大丈夫、と言うように頷き、ティレルは二人の手を借りてどうにか立ち上がった。
「ごめんなさい……祓い切れていなかった穢れが流れ込んできて、ちょっと驚いてしまいました」
「聖水をぶっ掛けたからって、全然足りるわけなかったんですよ! 本当なら祈り手を何十人も用意して、大きな聖堂で何十年もかけてようやく祓えるかって穢れだったのに……!」
複雑な顔で契約の成り行きを見守っていたイネスが、すぐさま浄化の祈りを唱える。しかしこれもまた、気休め程度にしかならないのは目に見えていた。
「大丈夫なのか? もしどうにもならないようであれば、契約を解除しても――」
「いえ、その必要はありません」
心配して顔を覗き込むユラにふっと微笑み、その目をまっすぐに見つめる。
「私は聖女。本来であれば守護樹と共に国を守り、魔を祓うのが役目。守護剣を担う貴方が私と戦ってくれると誓うならば、私も貴方の苦しみを背負います」
ティレルはきっぱりと言い放った。
その言葉を聞いたユラの金色の瞳が大きく見開かれる。
「……わかった。聖女ティレル、貴方の慈悲に深く感謝する。この騎士ユラ、これよりは貴方の剣となり身命を賭して戦うと誓おう」
ユラはティレルの手を取り、真剣な眼差しで応えた。
こうして、聖女と騎士の誓約は結ばれ、ひとつの強固な絆が生まれたのであった。