7、時は無情に過ぎ去りて
結局、ティレルとイネスによる灯火の剣士の浄化作業はそれから数刻に及んだ。
聖堂の地下にある泉は剣士の言う通り現在でも滾々と聖水を湧かせており、十分な水量が確保できた。それを幸いに、ティレルとイネスの二人がかりで祈祷を行いながら、バケツで聖水を汲んでは剣士と大剣に浴びせかけ続ける。
浄化というよりも重度の肉体労働、剣士にとっては最早水責めの刑と言うべき苦行が終わる頃には、三人とも力尽きて床に伸びてしまっていた。
ぱちぱちと薪が爆ぜている。
聖堂の奥、祈り手や司祭が住まう部屋の暖炉に火が入っていた。
その暖炉の前に置かれた椅子には、毛布を被った剣士が座っている。その顔は紙のように青白く、唇は紫色。体は未だがたがたと震えていた。
「……俺じゃなかったら、死んでたぞ……」
当然だが、人間は冷たい水を長時間浴びせられ続けると体温を奪われて死ぬのである。
剣士が恨しげに睨みつける先では、ティレルが床の上に座り込み、へらりと笑っていた。
「でしょうね。でも、穢れはかなり落ちたのでは?」
額に浮いた汗を拭い、バケツの上げ下ろしで疲労した手をひらひらと振るう。
その横ではイネスがぐったりと倒れこんでいた。
「……ああ。悔しいが、かなり浄化された気がする」
「穢れも汚れも、水をかけて洗うのが一番手っ取り早いですからね」
「人を汚れものと一緒にしないでもらいたいのだが……しかし、これで契約はしてもらえるのか」
「はい。しかしそれとは別に確認しておきたいのですが、その剣、ジールハールの守護剣ですね?」
ティレルの言葉に、剣士がぴくりと反応する。
床に倒れていたイネスも、話を聞いて「え?」と起き上がった。
「貴方の強さ、瘴気や穢れへの耐久力、不死性……その源がその剣なのでは?」
「…………」
真顔になった剣士は、暖炉の火をじっと見つめている。
ティレルは彼が口を開くのを、何も言わずに待った。
「……まだ、名乗ってもいなかったな」
どれくらい待っただろうか。
暖炉にくべられた太い薪に火が付き、燃え、折れてぽきりと音を立てた後。剣士は思い出したかのように口を開いた。
「俺の名はユラ。ジールハールの騎士、だ」
男は暖炉の炎を見つめながら、訥々と語り始める。
「お前の言う通り、この剣は我が国の守護剣だ。あの日、都が闇に呑まれる直前、陛下より魔獣討伐の任を与えられた時に下賜された……」
そう言って、剣士ユラは足元に置いてあった大剣をのろのろと拾い上げた。
歪み、毀れ、傷だらけだった大剣は、繰り返された魔獣との戦いによって穢れを溜め込み見る影もなくなっていた。しかし今は聖水による洗礼と聖女たちの浄化の祈祷によって溜まった穢れをいくらか取り除かれ、本来の輝きを僅かながら取り戻していた。
守護剣――それは人間が持ちうる魔獣への最上位の対抗手段である。
遥か昔、世界がまだ魔獣と邪な巨神によって支配されていた時代。神がこの大陸に聖樹を遣わし、人々がその苗木を各地に植え始めた頃。
まだ弱々しかった守護樹を守り育てるため、聖樹は聖女を見出し、さらに魔獣に抗するための武器を鍛える術を人々に伝えた。
聖樹の根本から産する特別な鉱物より生み出された聖なる剣は特別な力を持ち、錆びず、曲がらず、永遠に魔獣を狩る力を持つと言われている。
守護樹と聖女は国を清め魔獣を遠ざけ、生命を育む。そして守護剣は魔獣を狩り、穢れの脅威から国を守る。
この大陸では、ひとつの国ごとに一本の守護樹、一人の聖女、そして一振りの守護剣が存在しているのである。
しかし現在では各地の守護樹も大きく育ち、聖女も昔ほど魔獣や穢れと戦うことはなくなった。
わざわざ守護剣を持ち出さなくてはならないほどの強大な魔獣も現れなくなり、剣は国の権威の象徴となり魔獣を斬ることも少なくなった。どこの国でも、守護剣は王宮の宝物殿で厳重に保管され、王の戴冠式くらいでしか人目に触れる機会もないことだろう。
そんな剣であるからこそ、ユラの持つこのぼろぼろの大剣がジールハールの守護剣であると言われた瞬間、イネスが驚きの声を上げたのだった。
不朽不易と謳われた聖なる守護剣がこうも穢れ、消耗するなど、一体どれほどの魔獣を狩ればそうなるというのか、と。
「国境近くに強力な魔獣が出現したとの報せが届き、陛下は俺に討伐の為の兵を与えた。そして出陣式の折、この剣を下賜してくださった……しかし、俺が都を離れた数日後、都は……」
ジールハールの王都が、闇に包まれたのだ。
「……俺は兵を連れて引き返し、都に戻った。戻ろうとした。だが既に瘴気が立ち込め、兵は次々と倒れていく。俺はこの剣のおかげでどうにか持ち堪えられたが、気付いた頃には、俺はただ一人で森の中にいた。
どうにか生きているというだけで、都には辿り着けず、かといってこの地から離れることもできず。ただひたすら、常夜の森の中を彷徨い、湧き出る魔獣を倒しながらどうにか都へ入る道を探し続けていた……」
それが、闇の森に現れる灯火の剣士の正体だった。
「貴方は、その剣に願をかけたのですね。都に戻りたい、国を救いたいという思いが、貴方に守護剣の不朽性を与え、不死身になった」
それまで黙して話を聞いていたティレルが口を開いた。
ユラがこれまで瘴気や穢れに晒されながら強力な魔獣と戦い、食糧もまともにない森の中で生き延びられたのも、やはり守護剣の力であった。
きっと彼の強い願いが守護剣との強い繋がりを生み、彼を死なない、いや死ねない剣士と変化させたのだろう。
しかし守護剣の力をもってしても、都に蔓延る強力な瘴気の前ではどうしようもできなかったというのは、なんとも残酷な話である。
「ああ、原理はわからないが、きっとそうなのだろうな。何度、後悔したかもわからない……もし、あの日、俺が都を離れなかったら……守護剣が都を離れなかったら、都が闇に呑まれることもなかったのではと……そう思えば思うほど、俺は森から離れられなくなって……」
その声は酷く掠れ、今にも泣き出しそうであった。
ユラの震える手から守護剣が零れ、床に落ちてがらんと音を立てる。
「あれから、一体どれほどの時間が経った……? 一体、幾夜が過ぎた……? 聖女よ、教えてくれ……俺はもう、どれだけの間、戦い続けていたんだ……?」
ユラは蹲るように頭を抱え、苦しげに呻いた。
彼は不死身かもしれないが、もう精神は限界が近いのだろう。
「……十年、です。ジールハールの都が闇に呑まれてから、十年が経ちました」
「十年……」
ティレルが恐る恐る口にした言葉に、ユラは絶望の表情で顔を上げ、そしてそれから再び顔を覆って呻いた。
「十年も……時が過ぎていたのか……全て永い永い一夜のことだとばかり思っていた……」
そうして、ユラは静かに嗚咽を漏らし、泣いた。
森の中では夜は明けず、時間の感覚さえ狂うのだろう。都に戻りたいと切に願うユラにとって、永遠に明けない夜は「まだ一夜のうち」だった。
まだ一夜しか経っていない。まだ夜は明けていない。まだ都には王がいて民がいて、自分の帰りを待ってくれている。守護剣を持って都に辿り着けば、この闇を祓って国を取り戻せる。
そうやって現実から目を背けることで、どうにか自己を保っていたに違いない。
ティレルの告げた現実に、ユラの精神はとうとう折れた。
暖炉の火の前で嗚咽を漏らす男に、ティレルとイネスはせめても心の平穏を取り戻せるようにと、静かに祈った。
祈ることしか、できなかった。
この十年間、ティレルもずっとやりきれなさと不条理に圧し潰されそうになりながら過ごしてきた。しかしユラの苦しみは、それ以上に壮絶であった。