24、背中を押されて
太陽が昇り、空は青く晴れ渡り、清浄な風が気持ちよく吹き込むようになった頃、ジールハール最後の聖女と騎士はようやく立ち上がり、歩き出した。
疲れた体を引きずり、互いに支え合うようにして庭を出た二人の目に映ったのは、見る影もなく崩壊した大回廊と地竜の死骸であった。
ひび割れた床は血の海である。瓦礫の山に突っ伏すように息絶えた地竜の体には槍が突き刺さり、眼球には一本の直剣が突き立てられていた。
周囲には凄まじい力で破壊された騎士の鎧の残骸が散らばり、竜の眼に刺さった剣には黒鉄の手甲が柄を握ったそのままの形で残されている。
それだけで、何が起こったのかは理解できた。
彼らは勇敢に戦い、そして竜を打ち破ったのだ。
ユラが竜の眼に刺さった剣を握る手甲に手を伸ばし、柄からそっと指を外してやった。
手甲の袖口から、白い灰がさらさらと零れ落ちる。骨の灰である。
ユラはその様子を、感情の剥落したような顔でじっと見つめていた。
ティレルは竜の死骸の足元に黒鉄の甲冑だったものの破片と、ひしゃげた金の首飾りを見つけ、その場に膝をついた。
小枝を胸に抱えたまま、そっと目を伏せ祈る。
しばらくの間、二人は無言で彼らを悼み、黙祷を捧げた。
王宮の内部を、来た道を辿りながら外へ向かって歩いていく。
あちこちに魔獣の死骸が転がり、戦いの痕跡が残り、そして骨の灰が散らばっていて、ティレルとユラはそれらを見つけるたびに祈りを捧げた。
二人を守護樹の下へ送り届けるために犠牲になった者たち一人ひとりを、忘れぬよう心に刻みつけるかのように。
魔獣の死骸は見かけるが、もう生きている魔獣はいないらしい。
この都や王宮にいた魔獣は他の地域よりもとりわけ強力で凶暴なものであったが、結局は濃い瘴気の中でなければ生きていけない生き物であったのかもしれない。
王宮を出て明るい空の下へ出たティレルとユラを、爽やかな風が出迎えた。
誰もいない廃都に吹く風が、地に積もった穢れの灰を散らしていく。風に散らされた黒い灰は空へと舞い上がり、やがて溶けるように消えてなくなってしまった。
清らかな風に吹かれ、街はどんどん浄化されていくようであった。
黒い灰の下に隠されていた白い石造りの街並みが徐々に露わになっていくにつれ、景色は明るく寂しく、もうこの街に誰も生きていないことが恐ろしく感じられていく。
こんなに明るく、美しいのに、何の気配もなく鳥の囀りさえ聞こえない、風の音だけが虚しく響く廃墟の都だった。
ティレルとユラはしっかりと手を繋ぎながらひび割れた石畳の道を黙々と歩いた。
二人だけしかいないのだから互いを見失うことなどないはずなのだが、それでもこの広い都に二人だけということが途方もなく寂しかったのだ。
やがて二人は、大聖堂へと帰り着いた。
数十人で出発したはずなのに、帰ってきたのは二人だけ。
扉を開け、中に入る。窓から差し込む光が床を照らし、漂う埃がきらきらと輝いている。
大広間の中は出て行った時と何も変わらないはずなのに、陽の光が入るだけで何もかもが一気に色褪せたかのように見えた。
火の落ちた炉の前で、ティレルとユラはまた無言で立ち尽くしていた。まるで親に置いてけぼりにされた子供のように。
「……カルタスが」
しばらく黙り込んだ後、ユラが不意に口を開いた。
「カルタスが言っていた……もし俺とティレルが生き残ったら、あいつが使っていた部屋を探してほしいと」
酷く乾いたその声に、ティレルが顔を上げる。
「……わかりました」
短く応えて、ティレルはユラの手を引いて歩き出した。
ユラはもう、涙も枯れ果てたという顔をしていた。再び歩き出すには誰かに手を引いてもらわねばならないほど、身も心も消耗しきっていた。
カルタスの部屋は、大聖堂の奥、聖職者たちの私室が並ぶ場所の上層にあった。
恐らく元はそれなりの地位にある司祭の部屋だったのだろう。聖女であるティレルのために用意された部屋よりは質素だが、それでもしっかりとした大きな机が設られた立派な部屋だった。
長く使われた形跡のない寝台。机の上に積み上げられた書き付けや日誌の山。使い込まれ汚れたペンとインク壺。
日誌は、彼らのこれまでの戦いの記録や、探索の結果を纏めたもの。大聖堂に集まった死霊たちの名簿や、王宮で王が行った蛮行の証拠や、邪神信仰への研究の記録もあった。
十年の戦いの間、暗闇の中で彼らは抗った。
まともな紙は途中で途切れたのだろう、日誌は雑多な古紙を紐で綴ったものであったり、不要な書物の上に無理やり書き込まれたりしていた。インクもどうにか自分たちで作っていたのか、色の濃さも不均一で粒子も揃っていないものがほとんどだった。
それでもカルタスは全ての記録を残していた。
誰が読むのかわからない、日の目を見るかすらわからない記録であったが、恐らくこの記録があればこのジールハールという国に何が起こったのかを世界に広く知らしめることができるだろう。
王族に連なる者として、カルタスがやらなければならない仕事だった。そして彼はそれを立派にやり遂げた。
机の上に残された書き付けの中に一枚だけ、ユラとティレル宛てに残されたものがあった。
『ティレル殿の元のご衣装は綺麗にして取っておいてあります。それと、温かく羽織れるものも用意してありますのでどうぞお使いください。
大兄上はいい大人なんだから、もう少し見た目に気を配ってください。ましな服を用意しておきましたので、そちらを着ていってくださいね』
書き付けを読んだティレルとユラが顔を見合わせる。
部屋の中を見回すと、確かに机の側に衣装箱が二つ並べて置いてあった。
片方にはティレルが元々着ていた深藍色の祈り手のローブなどが収められていて、その一番底には毛織りのケープが畳んで入れてあった。
このジールハールがある地域の伝統的な毛織物だというそのケープには、美しい花模様が織り込まれ、軽くてとても温かい。
触れているだけで、カルタスや祈り手たちの優しさが伝わってくるかのようだった。
もう一方の箱には、動きやすく丈夫な服と柔らかいなめし革のコートが入っていた。騎士向けの旅装である。作りも丁寧で質もよく、ユラに向けてもう二度と襤褸など着てくれるなと念を押すカルタスの幻影が見えた気がした。
どちらの服も、この廃都から外へ出ていくための装束である。
彼らはもうここにはいないが、彼らは目の前の戦いだけでなく、ユラとティレルの行く先まで案じてくれていた。
我らの聖女と英雄に恥をかかせないために。我らの聖女と英雄の旅に幸あれと願いを込めて――。
その心遣いを感じて、ティレルは毛織りのケープを撫でながらまた涙を溢す。
ユラはしばらくその服を見つめていたが、やがて立ち上がり、ゆっくりと窓へと向かっていった。
きっと十年間一度も開けられていなかっただろう窓枠に手をかけ、鍵を外す。少し力を込めて開け放たれた窓から爽やかな風が吹き込んで、机の上の書き付け紙をはらりと揺らし、二人の頬を撫でていった。
目を潤ませながら顔を上げたティレルの視界に、窓の向こうの青い空とユラの広い背が映る。ユラは窓の外を見つめながら、腰のベルトに帯びていた短剣を抜いた。
何をするのかとティレルが見ている前で、ユラはその短剣を自らの首の後ろに当て――ひとつに結んでいた後ろ髪をざくりと切り取ってしまった。
自らの髪を切り取ったユラは、その髪の束を持った手を窓の外へ突き出し、その手を開く。
一陣の風が黒髪を吹き散らし、静まり返った街へ飛散させていく。それを見て、ティレルはああ、と小さく嘆息した。
あらゆる生命が死に絶えたこの都には、過ぎ去っていった者たちへ手向ける花すらない。自分たちを思ってくれた者たちに感謝を捧げ、永遠の安息を祈るために、せめてもの慰めになればとユラは自らの髪を捧げたのだ。
いや、もしかしたら彼はこの故郷に自らの心を葬ったのかもしれない。自らはいつか遠く離れるとしても、心はこの地で散っていった者たちに寄り添い続けるために。
「……また、彼らに背を押されてしまったな」
しばらくの間遠くを見つめていたユラが、ぽつりと呟いた。
「はい……」
涙に濡れた目元を指先で拭いながら、ティレルが頷く。
二人を守護樹の下へ体を張って送り届けた者たちは、今でも二人の旅程を祝福してくれている。だからいつまでもここに留まっているわけにはいかない。
「着替えて、行きましょうか。イネスが待っていますから」
「ああ」
泣き笑いを浮かべるティレルを振り返り、髪が短くなったユラが柔らかく微笑んだ。




