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23、黎明

 傷だらけのティレルが見つけたひと枝。見た目にはほとんど他の枝と変わらないが、ティレルの目には確かに輝いて見えたひと枝に手を伸ばし、しっかりと掴む。

 元は立派な大木だっただろう守護樹が邪神に取り憑かれ、その体の大半を蝕まれて最後に残ったひと枝に、励ますように意識を通わせる。


 まず感じたのは、守護樹の弱々しい気配。

 そしてこちらに気付いて訴えかけてくるような意識。


 ティレルは目を閉じて、守護樹の小枝に集中した。

 頭の中に見知らぬ記憶が流れ込んでくる。

 その記憶の中で、ティレルは複数の人間を上から見下ろしていた。

 聖職者のローブを纏った人々が兵士に追い詰められている。

 その前に立たされている女性は、今ティレルが身に付けているのと同じ真珠色のローブを着ていた。

 夕焼けのような美しい赤毛を持つその女性は、気高く凛然とした様子で盃を捧げ持っている。

 それを見ているのは豪奢な服を着て、王冠を頂いた若い黒髪の男。顔立ちなどはどこかユラと似ているが、邪悪な笑みをうっそりと浮かべる様子は真逆と言ってもいいだろう。

 女性が何かを言い、そして盃の中身を飲み干した。

 聖職者たちが泣いている。王は笑っている。

 間違いなく、それは先代の聖女アルシーナが毒殺される場面であった。

 これはあの日、この場所でその様子を見ていた守護樹の記憶であり、聖女を失った守護樹の深い悲しみが伝わってきた。


 記憶の場面が切り替わる。

 場所は変わらずこの庭だが、そこは既に血の海と化していた。

 血溜まりの中で、剣を手にした王が何かを喚いている。完全に狂気に魅入られているだろう王の周囲には、多くの人々の亡骸が散乱していた。

 恐らく王宮に仕えていただろう侍女や侍従、文官や兵士たち。そして王の足元には、一際上等なドレスを纏った夫人と幼い少女の遺骸もある。きっと王妃と王女だったのだろう。

 ラドロス王は己の妻子をも手に掛けていた。

 やがて、庭中に撒き散らされた血がざわざわとさざなみ立ち、強烈な瘴気が噴き上がる。

 天高く立ち昇った穢れの気配が、巨大な人影を構成する。

 王は歓びと戦慄とがないまぜになったような顔で、その巨影を見上げ、救いを求めるかのように震える手を伸ばした。

 王は禁じられた力を求めなければいけないほど、追い詰められていたのだろう。

 きっと彼は、ユラほど気高くあれず、勇敢でもなく、そしてカルタスほど真っ直ぐでもなければ愛に溢れてもいなかった。けれでも王として多くを求められ――。

 故に、全てが闇に包まれた。


 あの日、何があったのかを訴える守護樹の記憶だった。


 恐ろしかったのだろう。悲しかったのだろう。心細かったのだろう。

 ティレルが両手で包み込んだ枝からは、守護樹の深い感情が伝わってくる。

 しかしそれでも守護樹から怒りや憎しみといった感情が伝わってくることはなかった。聖女を喪ったことを悲しみ、自分を愛してくれた人々が命を落とすことを惜しみ、そして狂気の王を憐れんでさえいた。

 その深い慈悲と優しさに、ティレルは静かに涙を溢す。


「助けてあげられなくて、ごめんなさい……さぁ、聖樹へ還りましょう。私が連れて行きます」


 涙を流しながらティレルは、ジールハール最後の聖女として祈った。

 全てを終わらせるために。救うために。


 ぱきり、と微かな音を立てて小枝が手折られる。

 その瞬間、目の前で光が爆発した――。


 視界を全て白で塗り潰したかのような眩い閃光のあとで、邪神樹は呆気なく動きを止めた。

 いにしえの時代に神と戦い、聖樹によって大地の奥深くに封じられたとされる邪神。その封印は今でも力を持っており、邪神は常にその永遠の牢獄に繋がれている状態にある。

 この邪神は今、現世との繋がりである守護樹を手折られた。繋がりを失った邪神は、あっという間に牢獄へと引きずり戻されるのだろう。

 守護樹の枝が残されていた頭部から徐々に色が抜け、青黒かった樹皮がどんどん白くなっていく。

 ティレルは小枝を赤子のように抱き締めながら、その様子を黙って見ていた。

 白化は上から下へどんどん進み、それに伴って樹はしなやかさを失って硬くなっていった。

 邪神樹が漂白され、硬直していく様子を満身創痍のユラも見上げていた。戦いが終わったと確信したユラは、ゆっくりと守護剣を鞘に戻す。

 ぴし、ぱき、と音がして、ティレルの周りの白化した枝にひびが走った。

 直後、ティレルの体ががくりと沈んだ。


「あっ」


 脆くなった頭部の底が抜け、ティレルは細かな破片ごと地面へと落下していった。

 終わった――小枝を抱えたままの姿勢で落ちていくティレルがそう思った瞬間、誰かが彼女の体をしっかりと受け止めた。

 ユラである。ぱちぱちと瞬きすると、焦ったような顔をしたユラと目が合った。

 しかしそれだけで終わりとはいかず、すぐさまユラはティレルを抱えて走り出す。

 何があったのかとユラの肩越しに後方を見ると、白化した邪神樹ががらがらと崩れて倒れてきているではないか。

 がらがらがらがら、と大きな音を立てて崩壊する巨人樹の成れの果ては、まるで脆いガラスか石英の塊のよう。砕けた細かな破片が頭上に落ちかかってくる様は、さながら滝である。

 流石に避けきれないと察してユラは床に倒れこみ、ティレルの上に覆い被さって己の体で破片の波涛から彼女を庇った。


 がらがらがらがら――。


 砕けた邪神樹の破片が崩れていく音は、いつまでも響いていた。

 一体、どれほどの時間が経っただろう。ほんの数十秒だったのかもしれないし、もしかしたら数分ほどだったのかもしれない。

 ぎゅっと目を閉じ小枝を抱きしめていたティレルには、それがひどく長い時間に感じられた。


 完全に周囲が無音になり、ユラとティレル以外に何者の気配も感じられなくなった頃。

 ユラがゆっくりと体を起こし、ティレルも周囲を見回しながら起き上がる。

 巨人樹のあったところには、最早何もなくなっていた。ただ泥の溜まった地面に白っぽい石が無数に転がっているだけの、空虚な空間が広がっているばかりである。


「…………」


 互いに傷だらけ、泥だらけの二人が揃って空を見上げた。

 真っ暗だった守護樹の庭。そこへ不意に涼しい風が吹き、さっと光が差したのである。

 夜明けだった。

 ユラとティレルは泥と石の中に座り込んだまま身を寄せ合い、東の空から徐々に明るくなっていく空をただただ見つめていた。


 ついに、永い永い夜が明けた。十年ぶりに夜明けを迎えた王都は、恐ろしいほどに静まり返っていた。

 勝利の歓喜も、復讐を成し遂げたという感慨もない。

 二人はただ、無言のまま太陽が昇っていくのをじっと眺めていた。

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