22、守護樹のひと枝
邪神樹の枝腕がうねる。その合間を搔い潜り、ティレルは邪神樹の幹に向かって腕を伸ばした。
あともう少し――!
まるで時がゆっくりと流れるかのような感覚。精一杯に伸ばした手が、間一髪でその樹皮を掴んだ。
その瞬間、ぞわりと強烈に嫌な気配が背筋を駆け上ったが、もうそんなことは気にしていられない。爪が剥がれそうになるのも構わず渾身の力で樹皮にしがみつき、その幹に縋りついた。
邪神樹が嫌々とするように身を捩る。振り落とされそうになるが、四肢を踏ん張って何とか耐える。
しばらく耐えていると、邪神樹は諦めたようにおとなしくなった。
ティレルは少しほっとして、邪神樹の幹に精神を集中させる。そして想定外の事態に息を呑んだ。
気配がない。守護樹の気配がないのだ。
この樹は守護樹と邪神が融合した姿で、守護樹でもあり邪神でもあるはずだった。
守護樹を伐り倒すには聖女が守護樹に触れて祈ればいいはずであったが、ティレルがしがみついている場所は守護樹であって守護樹ではない。触れたところから体を蝕まれそうな邪神の気配があるばかりだった。
ティレルは戸惑い、固まってしまった。
どうする。どうすればいい。
そもそも守護樹を伐り倒す祈りなど、聖女にとっては秘中の秘、禁術中の禁術である。国ひとつ滅亡しない限り使われることのない祈祷であり、恐らくここ百年か百数十年間誰も使っていないものであった。
ティレル自身もこの祈祷を聖樹の都の大司祭から伝授されたのは、ジールハールへ向かう直前だった。その時はまさかこの祈祷を使うとは思ってもみなかったのである。
混乱しながら、ティレルは辺りを見渡した。
「守護樹……ジールハールの守護樹よ、どうか応えて……!」
精神を研ぎ澄まし、守護樹に呼びかける。
――微かな声が聞こえた気がした。
はっとして見上げると、そこにあるのは枝が幾本も寄り集まったような邪神樹の頭部であった。
まさか、あそこに守護樹のままの部分が残っているのか?
ティレルがしがみついているのは、人でいうなら胸のあたりの位置である。ここから頭まで登っていくのはだいぶ骨が折れそうであった。
なんなら幼い頃から聖女として修業しながら成長したティレルには、木登りをして遊んだなどという経験はない。
でも、やるしかない。覚悟を決めて、上へ向けて手を伸ばした時。
がくん、と邪神樹が揺れた。
「ッ!?」
ティレルが守護樹に呼びかけた気配を察したのか、邪神樹は再び身を捩り始めた。捻じくれた枝腕が蛇のようにうねり、ティレルを狙う。
「ティレルッ!」
地上で泥人形や枝腕と戦っていたユラが叫んだ。聖女の危機を察し、泥人形を振り切って邪神樹へ駆けつける。
そしてその勢いそのままに、守護剣を邪神樹の幹へ思い切り叩きつけた。
大剣の刃が幹に食い込み、まるで血でも噴き出すかのように黒い瘴気の霧が吹きだした。
邪神樹も痛みを感じるのだろうか。地の底から響くかのような低い唸り声を上げて邪神樹が身を捩り、ティレルに向かっていた枝腕がユラのほうを向く。
「ユラ!」
「構うな! 行け!」
幹から剣を引き抜きながらユラが叫ぶ。直後、そんな騎士に向けて幾本もの枝腕が襲い掛かった。
咄嗟に守護剣で防御したようだが、造作もないとばかりに弾き飛ばされる。
「ああ……!」
自分を信じてくれた者がまた傷付いていく。何もできない無力感に胸がずきずきと痛んだ。
それでも前に。前に進まなければ。
自分のために傷付いてくれた者たちに報いる方法は、それしかない。
感情を押し殺し、頭上を見上げて手を伸ばす。
樹皮の凹凸に指をかけ、爪を立てる。足先を引っ掛け、突っ張って体を支える。
途中で何度もずり落ちそうになり、爪が剥げて血が出ても。美しかった真珠色のローブが棘に引っ掛かって破れても。
ティレルは邪神樹の頭を目指して登り続けた。
だが、邪神樹も黙っているわけではない。まるで人が小うるさい虫にたかられて手ではたき落そうとするように、また枝腕を伸ばしてきた。
体の周囲に結界を張り邪悪な枝腕を阻むが、不安定な幹をよじ登りながらでは集中も途切れがちになる。
一本の太い枝が突き出され、それを結界で弾いた拍子に足が滑った。がくっと体が落ちた瞬間、集中が途切れる。
その刹那を狙って複数本の枝腕が一斉にティレルへ襲い掛かってきた。
もう駄目だ。反射的にぎゅっと目を閉じる。
がっ! と硬い物同士が激しくぶつかる音がした。
しかしティレル自身に衝撃はなく、体はどこも痛くない。
固まっていたティレルが恐る恐る目を開ける。その視界に飛び込んできたのは、目の前の幹に深々と突き刺さった守護剣。そして樹皮にぶつかりながらばらばらと落下していく切断された枝腕であった。
呆然としていると、下のほうから猛然と駆け上がってくる人影が一つ。
「大丈夫か!?」
ユラだった。守護剣の騎士はティレルの危機と見るや、躊躇いなく守護剣を投げつけ枝腕を切り払い、人間離れした身体能力を駆使してここまで登ってきたらしい。
「後ろ!」
守護剣の柄に手をかけ引き抜こうとするユラの背に、また新たな枝腕が迫っていた。
ティレルが叫んだが時既に遅し。
槍の如く鋭く尖った枝腕が白銀の鎧を突き破り、ユラの体を貫通した。
「ユラ!!」
ティレルは思わず悲鳴を上げた。
「…………」
腹部を突き破った血塗れの枝角を見下ろしつつ、ユラが幹に突き刺さった守護剣をゆっくりと引き抜く。
「……この程度か?」
ぶん、と空を切って守護剣の刃が閃く。己の腹を貫く枝を何事もなかったかのように切断し、ユラは忌々しげに邪神樹の頭部を見上げた。
そしてそれからティレルの手を取り、安定した足場まで引っ張り上げる。
「ティレル、無事か」
「わ、私は大丈夫ですが、ユラが」
青い顔をしているティレルとは裏腹に、腹に大穴の開いたユラは平然としていた。
そういえばこの男は初対面で首から上を魔獣に食い千切られてなお戦闘を続行して討伐していたのであった。それから考えれば腹に穴が開く程度は大したことではないのかもしれないが、見ているほうの心臓には悪い。
「あそこに行きたいんだな」
ティレルの心配を無視してユラが再度邪神の頭を見上げる。
ティレルのやりたいことはほぼ汲み取ってくれているようだった。
「俺が貴方を持ち上げよう。上の枝に手が届くはずだ」
と言って、ユラは守護剣を手近な幹に突き刺し、自由になった両手でティレルを抱き上げた。
ユラの負傷は心配だが、今は守護樹が残された頭部に辿り着くのが最優先だ。
ごめんなさい、と小さく謝りつつ、背の高いユラの肩を足場代わりにさらに上の枝を掴む。
ここはもうかなりの高所である。ユラの肩を借りる際にうっかり下を見てしまい、その高さに思わず心臓がきゅっとする感覚を覚えた。
なんとか己を叱咤し、枝を掴んだ手に力を込めてよじ登る。ユラが足を下から押し上げてくれたおかげで、どうにか邪神樹の肩辺りにまで届いた。
しかしその間に切断された枝腕が再生し、再びティレルたちを狙い始める。
ティレルを押し上げ終わったユラは素早く守護剣を引き抜き、そのまま足場にしていた枝から飛び降りた。
着地と共に、盛大に泥飛沫が上がる。その音に邪神樹がぴくりと反応したように見えた。
地に降り立ったユラは守護剣を構えた。そこへ枝腕が数本襲い掛かってきたが、それは最早難なく斬り払われてしまった。
ヴォオオオオオ……! と、低い唸り声を発しながら、邪神樹がまるで思い通りにならないことに駄々をこねる子供のように大きな腕を振り回し始める。
「この身は不朽。死なずの刃なり……!」
出鱈目に振り回される腕が地面を叩きつける度に、激しく飛沫が上がる。茫洋と佇んでいた泥人形が腕に叩き潰され、塵芥に帰っていく。
そんな中でユラは一歩も退かず、剣を構えたままじっと邪神樹を睨みつけていた。
大腕のうちの一本が、ユラの頭上に振り下ろされ――。
「ハァァァァッ!!」
気合いと共に、守護剣を一閃。
一瞬遅れてどん、という重い破裂音が轟き、太い枝の寄り集まった大腕が木っ端微塵に弾け飛んだ。
衝撃波で砕けた破片がぱらぱらと飛び散り、泥に波紋をいくつも描いている。
これには邪神樹の上で固唾を飲んで見守っていたティレルも唖然としてしまった。
守護剣を振り下ろした姿勢で残心の中にあるユラが、ゆっくりと姿勢を戻し、剣を構え直す。
「いにしえの邪神よ、貴様の力はこの程度か?」
ユラの構える守護剣の刀身が、鈍く輝いている。
ティレルが百数十年ぶりに守護樹を伐り倒す聖女になるとしたら、ユラは間違いなくこの百数十年で随一の守護剣の使い手だろう。恐らく今の世の中で彼ほど守護剣を使いこなしている者はいない。
この邪神に知能があるのか、そして人語を理解できるのかは不明だが、それでも挑発には十分だったらしい。邪神樹は再び唸り声を上げ、破壊された腕を修復して邪魔な騎士を叩き潰そうと前のめりになった。
前のめりになるということは、頭の位置が下がるということである。
「きゃ……っ!」
足場にしている邪神の肩が大きく揺れ、ティレルは慌ててその場にしがみついた。
だがすぐに目指している頭が降りていることに気が付き、はっとしてそちらへ手を伸ばす。
巨大な頭の上に、ティレルがとうとう登り切った。しかし問題はまだ残っている。
邪神樹の頭部は枝が複雑に絡み合って形状を構成している。その無数の枝の中に守護樹の気配を感じたのだが、そのどこに守護樹の部分があるのかわからない。
どこ。どこにいるの。心の中で呼びかける。
枝の塊に一瞬たじろいだが、ままよとばかりに枝を搔き分け塊の中に飛び込んだ。
どぉん、がぁん、と激しい破壊音が鳴り響き、眼下ではユラが邪神と死闘を繰り広げている。如何にユラが不死身とはいえ、邪神相手では荷が重いに違いない。
枝を掻き分け、力ずくで引きちぎり、体を捩って隙間に捻じ込んでいく。
あれでもない、これでもない。焦りながら次から次へと枝を掻き分ける。
棘や折れた枝で肌が傷ついても、構ってはいられない。
枝の塊にすっぽりと埋もれながら、ティレルは濃い闇の中に目を凝らし――。
「っ……いた……!」
ついに、そのひと枝に辿り着いた。




