14、束の間の安息
『聖女様、お加減はいかがですか?』
「ありがとうございます、とても気持ちいいです」
大聖堂の大広間でカルタスと話をした後、ティレルは浄化の香を焚かれた部屋で身を清めさせてもらっていた。
身を清めると言っても流石に風呂を沸かすわけにはいかなかったので、水盤に汲まれた聖水で顔や手を洗わせてもらったのだが、これだけでも穢れが落ちて心地よかった。
何より今は祈り手の死霊たちが三人、お手伝いしますと申し出てくれて、彼女たちに髪を梳いてもらったり足を洗ってもらったりしている。もちろんこれまでの修行の日々でそんな扱いを受けたことのないティレルは、なんだか貴族のお嬢様になったような気持ちになり、なんとも面映ゆい心地であった。
最終目的は王宮へ行き守護樹を伐り倒すことだが、その前に身を休めて行ってくださいというカルタスら死霊たちの心遣いによって、この清浄な部屋がティレルの仮の休憩部屋として提供されていた。
昔は司祭か、聖女自身が住まいにしていた部屋だったのかもしれない。調度品はさほど派手ではないもののとても上等で、居心地がいい。
「それにしても、この辺りは聖水の湧く泉が多いのですね。都の外の森にも泉のある聖堂がありましたが」
『はい、都の中や外に何ヶ所か聖水の泉があります。というか聖水が湧く泉が多いから都ができたという感じでしょうか。昔は魔獣が多かったと聞きますから』
『この辺りの地下水脈は大地の奥深くにある聖樹の根に触れているから、その聖性が宿っているのだという人もいました』
今は二人の祈り手が、優しい手つきでティレルの足を洗い、柔らかい布で丁寧に拭いてくれていた。
穢れの灰が積もった街を歩いてきたせいで、ブーツを脱いだティレルの足は真っ黒だった。最初は恥ずかしかったが、こうして聖水で綺麗に洗い清めてもらうと、穢れも落ちてとてもすっきりして気持ちがいい。
その上香油まで塗ってくれて、清潔な布靴まで履かせてもらって、これほど良くしてもらって本当に良かったのかと、気後れしてしまうほどだ。
『また聖女様のお世話ができるだなんて、死霊になってよかったわぁ』
『それはたまたまでしょう。でも、聖女様がいるなら私たちが今まで残っていた意味があったっていうものね』
死霊なので祈り手たちももれなく白骨死体の様相であるが、楽しそうに笑いながらティレルの世話をする彼女たちは、生身の娘のように生き生きとして見えた。
「皆さん、先代の聖女様にお仕えしていたのですね。先代の聖女様はどのような方だったのですか?」
照れた顔を取り繕うように、祈り手たちに尋ねる。
『はい、先代の聖女さまはアルシーナ様とおっしゃいます。信仰に篤く、とても厳しいですが、同時にとても慈悲深い方でもありました』
『いつも民の声に耳を傾け、誰に対しても平等な方でした。悩みを打ち明ければ、時に叱咤し、時に共に涙を流してくださる、国民みんなの母のような方だったのです』
先代の聖女について語る祈り手たちの声は、どこか誇らしく、どこか懐かしげで、やはりどこか寂しげであった。
「素晴らしい方だったのですね。私も一度、お会いしたかったです」
『ええ、ティレル様のようなお優しい聖女様がいらしたら、アルシーナ様もきっと実のお子のように可愛がったことでしょう』
『そうね。アルシーナ様は愛情深い方でもありましたもの。たくさんの孤児を引き取り、育てられてきた方でもありました』
そう言われて、ティレルは森の中に残してきたイネスや、聖樹の都で世話をしていた子供達のことを思い出した。
聖女アルシーナのことは顔すら知らないが、ティレルは祈り手たちの話を聞いているうちに彼女に深い親しみを覚えるようになっていた。
ティレルも幼い頃に家族と別れ、聖樹の都で育った者の一人である。母親に愛された経験の薄いティレルは、母のように敬慕できたかもしれない聖女アルシーナの姿を想像して、寂しさに目の奥がつんと熱くなるのを感じていた。
『……私たち、アルシーナ様の死や司祭様たちの処刑がどうしても納得できなかったのです。絶対に冤罪だと思っていたのに、何もできませんでした』
『ええ、それが心残りで、こうして瘴気に当てられても死霊となって残ってしまったのかもしれません。
お願いですティレル様。穢されてしまった守護樹をどうかお伐りください。この地に平穏を取り戻し、アルシーナ様の無念をお晴らしください。きっとアルシーナ様は、守護樹を穢そうとする王に抵抗して殺されてしまったのでしょうから』
祈り手たちはそう言いながら、胸の前で指を組み、ティレルに対して頭を垂れる。
「……ええ。必ず、やり遂げてみせます。それが私をここまで導いてくれた運命だったのですから」
ティレルは祈り手たちに向かって力強く頷いてみせた。
祈り手たちや、何より偉大な先達の名誉のためにも、きっとやり遂げなくてはならないと決意を新たにする。
と、その時、部屋の扉が控えめに叩かれた。
『失礼いたします。お召し物をお持ちしました』
そう言って入ってきたのは、三人目の祈り手の死霊だった。その手には衣類を納める箱が大切そうに抱えられている。
ここまでティレルが着てきたローブもだいぶ汚れてしまったので、着替えを探してきてくれたのだ。
箱を卓の上に置き、そっと蓋を開ける。
中には純白の美しいローブと銀の装飾品が納められていた。
『まぁ! この衣装こんなに綺麗に残っていたのね!』
『そうなの、せっかくだからティレル様に着ていただこうと思って』
『素敵だわ。こんなところですもの、せめて身につけるものだけでもキラキラしていただかないと!』
広げられたローブに、祈り手たちがきゃあきゃあと盛り上がる。
「そ、そんな上等なローブ、私が着てもいいのかしら……」
普段からほとんど化粧っ気がなく地味な衣服しか身につけたことのないティレルは、そのローブに施された銀糸の刺繍の豪奢さにすっかり気後れしてしまっていた。
『何をおっしゃるんですか、聖女様の正装のローブなんですからティレル様以外誰がお召しになるって言うんです!』
『このローブだって今ここでお召しにならなかったらあとは土に帰るだけなんですから、弔いと思ってお召しください!』
『そうですよ! ほら、白粉と紅も見つけてきました! おしゃれは任せてください!』
という、祈り手たちの熱意に押され、ティレルはあれよあれよという間に飾りつけられる羽目になってしまった。
何故こんなことに、と思いながらも、それでも祈り手たちが本当に楽しそうにしているのでやめてとも言えず。
――いや、今までしたこともないおしゃれにちょっとわくわくしている自分がいるのも事実なのだが。
複雑な心地でローブの生地を見る。意匠化された聖樹の大きな刺繍を中心に、豊穣を表す様々な植物や、吉祥の象徴である美しい鳥などの刺繍がびっしりと縫いとられたそのローブは、ただ美しく豪華であるというだけでなくジールハールの民たちの祈りの気持ちが込められた一着であった。
ひと針ひと針に国の安泰と平和、豊穣と繁栄の祈りを込め、聖女と守護樹に捧げられた、正真正銘聖女だけが袖を通すことを許された加護のローブ。それを崩壊に間に合わなかった自分が着てよいのかという戸惑いが強かったティレルだが、着付けが終わって鏡を見せられた瞬間、意識が変わった。
「すごい……服が、輝いている……」
ローブ自体がティレルに着られて喜んでいるかのように、淡く輝き出したのだ。
ティレルの持つ聖女の力に、ローブに込められた何らかの祈りの力が反応しているのだろう。優しい真珠色に輝くローブは、決して厚い生地ではないのにとても温かく、肌に心地よい。
そして何より、ローブに込められた歴代聖女たちの祈りの念が、ティレルに大きな活力を与えてくれている気がした。
頼りない自分を、この国を守ってきた聖女たちが支えてくれている。そんな温かな念に、ティレルは我知らず涙を溢していた。
「あら、ごめんなさい。なんだかとても温かくって」
指先で涙を拭う。
その様子を、祈り手たちは穏やかに見守っていた。
『ティレル様。とってもお似合いです』
『このローブをお召しになって、涙を流していただいた。それだけで十分、貴方様は私たちの聖女様です』
『もっと綺麗になって、男たちをびっくりさせましょう!』
祈り手たちの明るい声に、ティレルもつられて笑顔になってしまった。
ああ、ここはどうしようもなく、私が来るべき国だったのだ、と。