Hungry Spider(4)
「ヘンリーは、昔から、アジア系好きのゲイとして有名だったようですね」
陽が傾き、マンハッタンの街に灯がともり始める。
摩天楼の夕景を見下ろすペントハウスの窓際で、ラヴクラフトと譲史は相対していた。
ほどなくクリスマスイヴの夜だ。地上ではクリスマスソングが流れ、ビッグアップルは人々が浮かれ騒ぐ不夜城の喧騒に包まれるだろう。だがラヴクラフトの語りは静かであった。
「駆け出しのファッションデザイナーになったころ、ブライアン・パークと出会い、ふたりは組んで自分たちのブランドを立ち上げた。私生活でのパートナーになったのとどちらが先かはわかりませんが、ふたりは公私ともに絆で結ばれ、かれらのブランドは成功を収めた。……しかし、ニューヨーカーたちはヘンリーのデザインに飽き始めたのです」
「あまり感じのいい店じゃなかったしな」
来店したときのことを思い出したのか、ぶっきらぼうに譲史は言った。
燃える廃工場から脱出したはいいが、おかげで服は煤だらけだ。せっかくトリートメントされた髪も台無しである。
「そんなとき、悪魔は囁く。ヘンリーがどこで《禁書》に接触したかはまだ調査中ですが、彼は情報汚染を受けて《レンの蜘蛛》の能力を手に入れてしまった。おそらく接触したのは『ナコト写本』の断片だと思います」
「……治るのか?」
「わかりません」
哀しげに、ラヴクラフトは目を伏せた。
廃工場から逃げ延びたあとの一幕を思い返しているのはあきらかだった。
「ミスター・パーク」
ブライアンに、ラヴクラフトが話しかけた。
「外で待っていてください、と申し上げたはずです」
「すみません、でも……。教えてください、ヘンリーはどうなってしまうんです」
遠くからサイレンの音が近づいてくる。
「彼の身柄はわれわれ禁書捜査局が預かります。情報汚染の程度がかなり深度まで及んでいるので……取り除けるかやってはみますが、難しい場合……」
「なんでもします」
ブライアンははっきりと言った。
「資金提供でも、なんでも」
「それには及びません。……ですが、よければ面会に来てあげてください」
背後では、火に包まれた工場が、もうもうと黒煙を上げている。
「ずいぶん殊勝なことを言っていたようだがな。おまえまさか……『愛の力でなんとかなる』とでも言うんじゃないだろうな」
「……」
ラヴクラフトは黙り込んだ。
譲史はおおげさにため息をつく。
「――で? おまえが会う約束をしていたのはブライアン・パークだったわけだ。どうやってアポを取り付けた」
「それは簡単です。かれらの会社の株をかなり大量に買ったので」
「なるほど? ヘンリーが《禁書》の閲覧者だとわかっていたんだな」
「8割くらいの確率でそうだと推測していました。ここ最近、マンハッタンで連続していた失踪事件の被害者は、モデル、不動産業者、デリバリーのライダー、大学生、ホームレスなど、属性はバラバラだったのですが、ふたつの共通点がありました。ひとつめはほかならぬ『クリムゾン・コースト』に接点があること。ショーに出演したモデルにはじまり、店舗物件を斡旋した不動産業者、オフィスに出入りしていたデリバリー、店のバイトの学生、店舗近くを根城にしていたホームレス、などなど。そしてもうひとつが……アジア系のハンサムな男性であること」
「ありがとうよ」
ちっとも嬉しくなさそうに、譲史は言った。
「よかったよな。おあつらえ向きの餌があって」
「失踪事件にパターンがあることに気づいたのです。ブライアンとヘンリーはほとんど行動をともにしていましたが、事件が起きるのはふたりが別行動をとっているときに限られていました。……もうお気づきだと思いますが、アヴドゥルがずっと貼り付いていましたし、あなたに危険がないように十分な合理的配慮をですね」
「ふざけるな!」
譲史は立ち上がり、ラヴクラフトに掴み掛かった。
「配慮だと!? 俺を囮に使いたきゃ使えよ。いくらでも利用してくれ。でも俺を囮に使いながら、なんだってお大事にしようとするんだ? そりゃあ俺はおまえほどの筋肉もなけりゃ、知識もない、不死の生命も、黒い火を吹く片目だってない。だから、俺はいつまでもおまえにエスコートされるだけのレディなのか?」
「なにも知らせずにいたことは謝ります。……囮役なんて、嫌かと思って」
「やるさ。俺は禁書捜査官なんだ。おまえの相棒のな。そうだろ?」
「……そう――ですね」
ラヴクラフトの表情は、なにか耐えるようだった。
「まだ後悔しているのか? 俺の人生を巻き込んだことを」
「……」
「おまえ、ブライアン・パークを試したんだろ。やつが人生をかけてヘンリーを救おうとするかどうか。それを信じたのに、俺は信じないのか」
「……あなたは知らないんです。ぼくがこれまで、どれだけの仲間を失ってきたのかを」
「ああ、知らんな。俺はそんな簡単に失われてやるつもりもないしな。……それにだな、おまえ、アヴドゥルやソニアには遠慮なくエグい要求してるよな……?」
「いやあ、それは……かれらはまたちょっと立場が違いますし」
「あら、どう違うの?」
「ソニア!?」
ラヴクラフトと譲史は、ひっくり返らんばかりに驚いた。
ソニア・グリーンが、そこに立って面白そうにふたりを眺めていたからだ。
禁書捜査局を支援する米軍戦力を指揮する女性軍人は、しかし、いつもの軍服姿ではなく、エレガントなドレスを身につけていた。
「いつからここに!? というかなぜ?」
「ご挨拶ね。あなたたちのクリスマス休暇のはじまりに、七面鳥とシャンパンを届けにきたのよ。あいにくパーティーのご相伴はできないけれど、今夜はふたりでごゆっくり。……ご心配いただかなくても私にもプライヴェートというものはあるので」
「ああ、そう……」
「なんだか興味深いお話をしていたようだけれど、それはまたにしたら。西部戦線の塹壕のなかでさえ、クリスマス休戦があったのだから」
ソニアの言葉に、ラヴクラフトと譲史は見合わせた。
見れば、いつのまにか、そこにはクリスマスディナーのセッティングがなされていたのだ。
つややかに焼き上げられたローストターキーが、キャンドルの揺れる火を照り返していた。
コツコツとヒールの音を響かせて、早々に暇を告げたソニアを見送り、アヴドゥルがフルートグラスにシャンパンを注いでくれている。
ソニア・グリーンとアヴドゥル・アルハザード。かれらはかつてのラヴクラフトの妻や、ラヴクラフトの創作上の登場人物の名と姿を持つ禁書捜査局の支援員だ。魔術的な方法で本人の記憶すら継承する特異な存在であるかれらは《ラヴクラフト・サークル》と呼ばれている。
「……クリスマス休戦にしますか」
ラヴクラフトが、グラスを受け取った。
「応じてやらんこともない」
譲史も、倣った。
「では……。われわれのクリスマス休戦と、ヘンリー・パークが再起できることを祈って。メリー・クリスマス」
ちん、とふたりのグラスが触れ合い、音を立てた。
「……『クリムゾン・コースト』の株を買ったのは、トップデザイナーが離脱するあの会社を支援するためか?」
「そのくらいの責任は、ぼくにもあるでしょう」
「そう思うのか。おまえはキリストじゃあない。《禁書》が生み出す災厄の責任を、おまえがすべて引き受ける必要なんかないんじゃあないのか」
「……譲史の人生の責任を、ぼくがとる必要がないように?」
「そうだ」
そっぽを向いてそう言ってから、譲史はぐい、とシャンパンを呷った。
すでに窓の外は夜の帳が降り、マンハッタンの夜景の輝きには及ばない、弱々しい星空が、それでも、澄んだ冬の夜空にさえざえと瞬いていた。
「そういや、服を買い損ねたな」
譲史は煤だらけの自分の服を見下ろした。
ふふ、と、ラヴクラフトが笑う。
「かまいません。その服、譲史にとても似合っていますよ」
(了)