Hungry Spider(3)
「韓国系や中国系はずいぶん使ったが、日本人は初めてだ」
ヘンリーのぎょろ目が、譲史を見た。
「最初に注入する毒の量が難しい。多すぎるとすぐに死んでしまうし、少ないとうまく糸にならない……」
なにか憑かれたものの譫言のような呟きだ。ヘンリーの目は譲史を見ているようで見ていなかった。
「冗談きついぜ。服を買いに来たのに、服にされてたまるか」
譲史は身構えるが、後ろ手を縛られているので、あまりにも分が悪い。
さらには、ヘンリーが身を震わせると、肩口と脇腹からも、服を突き破って蜘蛛の脚があらわれ、鋭い三つの爪が、その尖端で譲史を狙い定めるという状況になったのだ。
奇怪な動きでうごめきながら、脚のひとつが鋭く突き出された。
間一髪、譲史は避けたが、ソファーに突き刺さった爪の深さから、その威力を思い知らされることとなる。
譲史は、とにかく距離をとろうと、縛られたまま駆けだす。
追うヘンリーは、しかし、ただ大股に歩むだけで、慌てる素振りはない。それだけ余裕があるのだろう。獲物が逃げ出せるわけはない、という。
実際、譲史はどちらに逃げるべきなのか、方角の見当すらついていなかった。ただ闇雲に走ったが、廃工場は暗く、そこらじゅうに、犠牲者が吊るされているため、ふいに目の前に、苦悶の表情を浮かべたミノムシ状のミイラのようなものがあらわれるのに肝をつぶされる。そうした犠牲者が実はまだ息があるのか、すでに息絶えているのか、それすらも判然としなかった。
明らかなのは、ここはヘンリー・パークの《巣》であるということだ。
彼はここに捕らえた犠牲者を絡めとり、異形の蜘蛛の脚から人智を超えた毒を注入することで、人体から糸を生成していた。
いったいいつから、何人の人間を捕らえていたのだろう。ニューヨークというこの煌びやかな大都会の陰に、異形の蜘蛛が潜んで網を広げていたなどと、誰が気づいていただろうか――。
そして、いま、暗い廃工場のなかを逃げ惑う譲史は、その蜘蛛の巣の罠にとらわれた、あえかな蝶だった。
粘つく蜘蛛の糸にその翅をとられてしまえば、たちまち絡めとられて、あとはにじり寄る蜘蛛の餌食になるのを待つだけだ。
「畜生」
息が上がる。このまま永久に逃げ続けられるわけなどない。どこかに隠れてやり過ごすか。それとも一か八か立ち向かってみるか。譲史が思案しながら、振り向くと、走る譲史に対して、歩いて追ってきているはずのヘンリーは、ほとんど変わらない距離を保っている。
(なんてこった、完全にホラー映画のワンシーンだ。……俺がモブなら、次のカットでやられる。だが主人公なら、ここで……)
そんなとりとめのない思考を、まるで読み取ったかのように――。
唐突な爆音が、空間を震わせた。
爆炎の火明かりが、ヘンリーの驚愕の表情を浮かび上がらせる。
「くそったれ」
譲史は悪態をついた。
「主人公はアイツだったってわけかよ」
炎をバックにあらわれた大きな影。
分厚い身体にぴったりと着こなしたオーダースーツに、シルクのネクタイとポケットチーフ。
がっしりした顎の輪郭や鼻梁の高さはどこまでも男性的でありながら、まなざしは甘やかで流麗なつくりである。だがその片方は、黒い眼帯で覆われ、尋常ならざる異彩を、そのおもてにまとわせていた。
その名は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフト。
元・怪奇小説家である《禁書捜査官》――譲史の相棒である男であった。
「ヘンリー・パーク。あなたのコレクションもおしまいです」
ラヴクラフトが言った。
「黙れ!」
ヘンリーは毒づくと、跳躍した。
蜘蛛の脚を使った、人間離れたした動きだ。そのまま空中を這うように天井近くの闇へ消えてゆく。どうやら、空間一帯に細い糸のようなものが張り巡らせており、ヘンリーはそれをたどることができるようだ。まさしく蜘蛛の動きである。
ラヴクラフトは、しかし、その動きを追えているのか、ぱっと身を翻して、充満しつつある煙の中へと駆け出してゆく。
「おい、待てよ、ラヴクラフト!」
呼びかける譲史の背後に、すっと気配が立った。
後ろ手の結束バンドが切られ、両腕が自由になる。アヴドゥルだ。アラブ人執事は、捧げ持ったアタッシュケースを、譲史に向けて広げて見せた。
ケースの中には、拳銃、手錠、特殊警棒などが揃っていた。
譲史は銃――FBIでも使われている自動拳銃だ――を引っ掴むと、ラヴクラフトの後を追うのだった。
「ラヴクラフト! どこだ!」
煙ただよう薄闇のなかへ、譲史は声を張る。
銃の安全装置を解除し、射撃姿勢をとりながら、慎重に、しかし足早に歩を進めた。死角に差し掛かるたび、気配を探りながら素早く角を曲がり、進行方向に銃口を向けてそこに敵のいないことを確認してゆく。
まるで篝火のように、薄闇の向こうで火の手があがっているのが見える。このままここにいるのは不味い。できるだけ早く脱出しなくてはならない。
ぶわり、と空気が動くような感覚があり、譲史は弾かれたように上方へ銃口を向けた。
果たして、天井方向から、ヘンリーが譲史めがけて降下してきた、まさにその瞬間である。譲史は発砲する――が、弾丸は逸れてしまった。鋭い爪の尖端が繰り出され、譲史に突き刺さるかに思えたそのとき、大きく厚い、石壁のような影が横合いから割って入った。
「ラヴクラフト!」
隻眼の美丈夫は、その腕でヘンリーの蜘蛛の爪を受け止めていた。すなわち、譲史をかばって、刺されたのである。
筋肉の圧で、内からスーツの生地が裂けそうになっている太い腕が、ラヴクラフト自身の意志に反するように暴れ、服の下でぼこぼこと不気味に蠢くのを、譲史は目にした。
「なるほど。注入することで、対象に情報汚染をもたらす毒物ですか。一般人には作用するでしょうが、あいにく、ぼくの肉体にはあなたのそれを上回る情報汚染が蓄積されているので。いわば免疫があるということですね」
ラヴクラフトはもう一方の腕でヘンリーに掴みかかると、強く引くと同時に、身体を半回転させながら踏み込んで、見事な一本背負い投げを決めた。床に叩きつけられ、ヘンリーが悲鳴をあげる。
「そこまでだ」
譲史が、仰向けに倒れたヘンリーに銃口を向けながら言った。この距離で、動けない相手なら外すことはない。ヘンリーもそれを理解したのか、恨みがましい視線で見返してくる。
「さて、どうしますか。ここであなたを始末してもいい。ぼくの眼窩にある《輝くトラペゾヘドロン》の黒い炎が、あなたを情報汚染ごと浄化します。それとも……治療を受けて人間に戻りますか? 戻せる保証はできませんし、あなたに、まだその意思があるなら、ですが」
ラヴクラフトが言った。
「どっちにせよ、早く決めてくれ。もうだいぶ火が……」
譲史が煙くささに顔をしかめながら言ったときだ。
駆け寄ってきた足音に、その場の全員がはっとした表情を浮かべた。
「ヘンリー!」
男はヘンリーに近づこうとして、アヴドゥルに引き留められている。洗練されたジャケットスタイルのアジア系の紳士だ。譲史は、彼がウェブサイトで見た『クリムゾン・コースト』のCEO、ブライアン・パークだと気付く。つまり、ヘンリーの夫なのだ。
「ブライアン、来るな、み、見ないでくれっ」
ヘンリーが身を縮めると、蜘蛛の脚が身体に吸い込まれるように消えてゆく。その異形の姿を、彼が恥じていることはあきらかだった。
「いったい何が……、きみはどうしてしまったんだ、ヘンリー」
「わ、私はただ……服が……以前のように売れる服がつくりたかったんだ……ブライアン……おまえのために……」
ごう、と炎が唸る。
熱波が押し寄せて、人々の頬をじりじりと炙った。
《蜘蛛の巣》は、今や業火に焼かれ、燃え落ちようとしていた。