Hungry Spider(1)
今日も腹を減らして一匹の蜘が
八つの青い葉に糸をかける
ある朝 露に光る巣を見つけ
きれいと笑ったあの子のため
――槇原敬之『Hungry Spider』
ちいさなグラスにはよく冷えたオレンジジュース。生果実の搾りたてだ。
プレイスプレートの向こうには、いくつかの小皿に分けて、きつね色のパンケーキ、ハッシュドポテトとカリカリのベーコン、生野菜のサラダと色とりどりのフルーツが供されている。
そして、今、プレイスプレートの上に、最後の皿が静かに置かれる。
ぴかぴかの白い皿の上にあるのは、目の覚めるような黄色のオムレツだった。
これにより完成した「このうえなく完璧なアメリカンブレックファースト」を、H.P.ラヴクラフトは満足げに眺めると、磨き抜かれた銀のフォークを、ふわふわの卵の山肌に突き立てるべく手にとった。そのときだ。
「俺の服がこれ一着しかないんだが?」
ダイニングにあらわれた江戸川譲史が、寝起きの陰気な顔つきで言った。髪はぼさぼさで、顔の半分は濃い無精ひげに覆われていた。そして、簡素なシャツに、暗い色のジャケットとパンツを身につけていたが、どれも生地がすり切れ、しわがついて、よれよれであった。
「あとは捨てました」
にべもなく、ラヴクラフトは言って、やわらかなオムレツを口に運んだ。
執事服のアラブ人――アヴドゥルが、ロングテーブルの、ラヴクラフトと反対の側に湯気の立つコーヒーカップを置き、譲史のために椅子を引いてくれた。譲史は朝はコーヒーしか飲まないのだった。
「俺の服を勝手に捨てただと!?」
「あなたが日本からわざわざ持ってきたあのぼろきれを服と呼べるならですけど」
「悪かったな、ぼろきれで!」
「本当はその一着も捨てたかったのですけど、それでは新しい服を裸で買いに行くことになりますからね。ぼくの服はサイズが合いそうにないですし」
ラヴクラフトは、朝食の席だというのに、一部の隙もない三つ揃いだった。今すぐ宮廷晩餐会に招かれてもよいほどの、きわめて上質の服を、堂々たる体躯で着こなしている。彼の体格に合わせて仕立てられた――むろんオーダーメイドに違いない――服を、着られる男はほかにそうはいないだろう。
「もっと良い服を買えって? 余計なお世話だよ、まったく。そんな暇あるのか?」
譲史は席につき、コーヒーを啜った。
「ところが今日はオフなんですよ」
「えっ、そうなのか?」
譲史はあっけにとられたような顔になる。
「今日が何の日だか知ってます?」
「ああ……クリスマスイヴ……」
「禁書捜査局の捜査官にも休みがないわけではないのです。というわけで、すてきなブティックへ案内しますから、譲史はそこで服を買ってください。ぼくはちょっと人と会う用があるのでご一緒できませんが、アブドゥルに送らせます」
朝食を順調に平らげながら、ラヴクラフトは言った。体格どおりの健啖ぶりと映るが、その所作はどこまでも優雅だった。片目を黒い眼帯で覆うという異形を差し引けば、ラヴクラフトの彫の深い顔立ちはギリシア彫刻のように美しい。
「ああ、それと、その前に美容室も予約しておきましたから、髪も切っておいてください」
「……そうか、すまん……」
すっかり気勢を削がれた譲史である。
「俺、どんな服を買えばいいか、よくわからないんだが」
「店員に任せておけばいいですよ。『クリムゾン・コースト』の服なら、あなたに似合うでしょう」
「クリム……?」
「『クリコス』を知らないんですか? いま、ニューヨークでいちばん熱いブランドですよ」
「いや、そういうのには疎くてな……」
譲史は視線を外へ逃がした。
一面の窓からは、朝の陽ざしが爽やかに差し込む。そこに広がるのは、ニューヨークの摩天楼だ。
ホリデーシーズンの空は澄み切っている。地下鉄の排気口から吐き出される蒸気が、ビルの合間に立ち昇るなか、地上ではニューヨーカーたちが気ぜわしく十二月の街を行き交っていた。
ふたりがいるのは、そんなマンハッタンを見下ろす、超高層ホテルのペントハウスであった。
ラヴクラフトと譲史。ふたりがいかにして出会い、どのような越し方を経てきたのかは、語るにはあまりに長い物語だ。それはまた、別の話である。
そんなわけで――。
アヴドゥルの運転するリムジンで、譲史がまず送り届けられたのは、高級ホテルかと思うような豪奢な内装のヘアサロンだった。恭しく迎えられると、大勢のスタッフが入れ替わり立ち替わりあらわれて、もてなされた。伸び放題になっていた髪は、ただ切られただけでなく、なんらかのトリートメント的なものを施され、それは髪だけでなく、顔全体にフェイシャルエステ的な施術まで行われたのだ。
髭も、ただ剃り落されるようなことはなく、絶妙に整えられたし、眉もよい形にかたちづくられた。さらには手の爪まで磨かれたのは、譲史には初めての経験であった。
おかげで、すべてが終わったとき、鏡の中の譲史は見違えるような男ぶりを発揮していた。
もともと、造作そのものは整っていなくもないのだから当然とも言えたが、これまで、おのれの容貌にほとんど気をかけることのなかった譲史には新鮮なことである一方、とても面映ゆいことでもあった。
しかしながら、よってたかってあれこれされるのに、いささか疲れてしまった。
このうえ、服まで新調するとなると……。
(あいつ、俺で『プリティ・ウーマン』をやるつもりじゃないだろうな)
上流の紳士が庶民の娘を変えていく、という映画を思い出し、辟易としながら、再びリムジンに乗り込む。
(服屋はなんて言ったかな。たしか『クリムゾン・コースト』……)
スマートフォンに、その名を入力してみると、ブランドのウェブサイトを容易に見つけることができた。
波打ち際を、夕陽が染める。
潮風に吹かれながら、ふたりの男がビーチを歩く。
砂のうえに残るふたりの足跡は交錯し、らせんを描く。
風が男たちのシャツをあおり、シャツの前がはだけて、たくましい胸板があらわになる。
西陽がかれらの胸筋と腹筋に影を刻む。
男たちの視線が、互いに絡み合う――。
そのうえに、筆記体で、「Crimson Coast」のロゴが浮かび上がった。
「……」
イメージヴィデオを、譲史は無言で見つめる。
ファッションブランドの、よくあるプロモーションと言えばそうだが、やけにセクシーなビジュアルだ。
サイトをスクロールしていくと、ふたりの男性の写真が掲載されていた。
ブライアン・パーク CEO
ヘンリー・パーク COO/クリエイティブディレクター
……と、ある。CEOが経営のトップで、COOが副社長的な役割であることは譲史の知識にもあった。クリエイティブディレクターとは、おそらくデザインの責任者くらいの意味であるのだろう。ごく単純化して言えば、ヘンリーがデザインした服をブライアンが売っているということだ。
ブライアンはアジア系で、ヘンリーは白人だった。
人種が違うのに姓が同じとなると、偶然の同姓か、血のつながらない兄弟か、配偶者のいずれかになろう。先ほどのヴィデオの雰囲気からすると、配偶者関係ではないかと譲史は思った。
サイトを離れ、ブランド名で評判的なものを検索してみる。
なるほど、たしかに人気のブランドのようだったが、ラヴクラフトがなにを思って、あえてこの店で服を買えと言ってきたのかについては、なにかもやもやするものが残った。
「この服が俺に似合う、だと……?」
思わず、口に出してしまった。
釈然としないまま、指先だけで検索を続けていると、ふと、目に飛び込んできた単語が譲史の気を引く。
(行方不明――)
ファッションブランドの話題として出てくるはずのない、違和感あるキーワードに、思わずスクロールする指を止めた。
譲史がその記事を開いて読み始めるのと、リムジンが停まったのはほぼ同時であった。