元婚約者の結婚式で、酔った勢いで嫌われ者の令息と婚約していたことが発覚したのですが……
「結婚おめでとー! 末永くお幸せにぃー!」
結婚式の会場で、私はテーブルに置いてあったワインボトルを片っ端から空にしていった。
「ちょっと、ローゼル。飲み過ぎよ」
「こんなおめでたい席で倒れたらどうするの!」
「あはははっ、そうだねー。おめでたいねー」
私はバカみたいな笑い声を上げる。友人たちは顔を見合わせていた。
「今日の良き日に~感謝を~」
吟遊詩人の歌が聞こえてくる。
「愛し合う二人に~祝福を~」
「祝福をぉ!」
そう言いながら、私は吟遊詩人にワイングラスを投げつけた。彼が慌てふためくのを見て、私はまたしてもバカ笑いする。
「ローゼル!」
「ブーケトスよ、ふふふ!」
眉を吊り上げる友人たちに対し、私はあっけらかんと返事する。
だって、こうでもしないとやってられない。私は椅子にどっかりと座って、なおもワインだのシャンパンだのをあおり続けた。友人たちは、呆れてどこかへ行ってしまう。
「な゛ん゛でだよ゛ぉ゛!」
ふと、隣のテーブルからダミ声が聞こえてきた。青年がワイングラスを片手に、テーブルに突っ伏している。
「ごん゛な゛ごどがあ゛っ゛でい゛い゛の゛がぁ゛!」
「どーしたのぉ?」
私はふわふわした足取りで彼の横に腰掛けた。
「そんなに荒れて。こんなおめでたい日なのにぃ」
そう言いつつも、私は彼のグラスにワインを注ぎ入れる。青年はそれを一口で飲み干して、「めでたくない」と言って顔を上げた。
酔いが回ってきているのか、吊り上がった目元が赤くなっていた。そこに、オールバックにした黒髪が乱れてハラハラとかかっている。
「あんな奴のどこがいいんだぁ! 俺の方が絶対にいい男だろぉ!」
「もしかして、フラれちゃったのぉ?」
私はヘラヘラと笑って、ボトルからワインをラッパ飲みする。
「じゃあ、私と同じだ。ひひひひ……」
「同じ?」
「これ、私の元婚約者の結婚式なのよ~」
私は会場の奥にいる礼服を着た男女を指差した。
「あの男の人が私の元婚約者。で、あっちが……」
「あの野郎が泥棒猫か!」
青年がテーブルを拳で叩いた。置いてあった皿が中身ごと宙を舞い、彼の白手袋に染みを作る。
「よくも人の婚約者を……!」
「人の……?」
何のことだろうと、私はぽやぽやする頭で一生懸命に考える。そして、元婚約者の隣にいる女の人を見ながら「もしかして……」とあることに思い至った。
「あの人、あなたの……」
「そうだ。前に婚約していた相手だ」
青年が唇を噛む。「はえぇ」と私は相槌を打った。
「あの人ぉ、国王陛下の孫娘だって聞いたわよぉ。陛下からは、目に入れても痛くないほどに可愛がられているとかぁ。で、そんな彼女がある晩餐会で偶然会った男性に一目惚れしちゃって……。うひひひ……」
祖父である国王に頼み込んで、半ば無理やり婚約を取り付けてしまったというわけだ。双方に婚約者がいたのに、である。
「あの女の人の元の婚約者、あなただったのねぇ。いひひひ……。……あれぇ? そーいえば……」
この人と顔を合わせるの、これが初めてじゃないかもしれない、と言おうとしたけど、「やってられるかぁ!」という青年の大声に遮られてしまった。
「今日は飲むぞぉ! あんな男も女も国王も、皆くたばれぇ!」
「くたばれー!」
私たちは酔いに任せて乾杯する。何だかよく分からないけど、婚約解消仲間を見つけたんだ。同志ができたようで、天にも昇る心地だった。
****
「……うぷ」
翌日。私は猛烈な頭の痛みと吐き気で目が覚める。
体を引きずるようにしてベッドから這い出て、洗面所で出すものを出してようやく少しだけ気分が落ち着いた。
使用人が持ってきてくれた水を食堂で飲みながら、グラグラする頭を押さえる。
「今何時?」
「正午を少し回ったところですよ」
使用人が答える。っていうことは、結構長く寝ていたみたいだ。
……いや、「結構」って本当に? 昨日の記憶がほとんどないんだから、正確なことは分からなかった。そもそも、どうやって家まで帰ってきたのかさえ定かじゃないんだから。
どうやら飲み過ぎてしまったみたいだ。私は痛む頭で、懸命に昨日のことを思い出そうとした。
「お嬢様、お客様ですよ」
そこに声がかかる。お客さん? 今、人と会えるような状態じゃないんだけど……。
なんて返答をしようと思っていたのに、使用人の後ろから誰かが歩いてくるのが見える。勝手に入れちゃったの!? 私、顔色は最悪だし、まだ寝間着なんですけど!
「……お前がローゼルか」
ほら、相手も険しい顔してるじゃない!
……っていうか誰だろう? 細身で、後ろに撫でつけた黒髪が特徴的な青年だ。会ったこと……ないはずよね? 多分。
「ユリアン様は、昨日の件で改めてご挨拶にいらしたそうですよ」
私たちの間に微妙な空気が漂い出す中、取り次いだ使用人がそう言った。
……ふーん。この人、ユリアンっていうんだ。……うん? ユリアン?
「あっ! もしかしてあなた、あのユリアン!? 皆がよく陰気とかってバカにして……うっ」
突然大声を出してしまって、頭が割れるように痛む。使用人が私の非礼を咎めるように、盛大に咳払いした。
「ユリアン様は、昨日、お嬢様をお屋敷まで送り届けてくださったのですよ。というか、一緒に帰ってきたと申しますか……」
「おお! 来てくださったのだな、婿殿!」
使用人の言葉が終わるのを待たずに、食堂に入ってきたのはお父様だった。……婿殿?
「ローゼルも隅に置けんな! 昨日の今日で婚約相手を見つけてくるとは!」
……婚約相手?
「あの……お父様?」
話について行けず、私は眉間を押さえているユリアンとお父様を交互に見つめた。
「一体何の話をしているんですか? 婚約相手って……?」
「もちろん、ユリアン殿のことだ!」
お父様は、いかにも気安い仕草でユリアンの肩をバシバシ叩いた。ユリアンは至極迷惑そうな顔になる。
「昨日、ローゼルが言っていただろう。『この人と婚約を結びます!』と」
****
――わたひぃ、この人と……結婚、するんれふぅ~。新し……ひっく! 婚……ひっく! 約……ひぃぃっく!
――俺も……するぞぉ! け、けっ、……けっこ、んんっ!
大変なことになってしまった。お父様から昨日の話を聞いて、私は二日酔いも吹っ飛ぶくらいの衝撃を受ける。
なんでも泥酔した私は、ユリアンを両親に紹介して、どうしても彼と結婚するのだと言い張ったそうだ。
私が婚約解消からずっとやりきれない思いを抱えていたと知っていた二人は、「娘が新しい幸せを見つけたのならそれでいい」と、私たちの婚約を認めてしまったらしい。
そんなバカな話があってたまるもんですか! と、私は急いでユリアンの家に向かう。しかし、あちらでも「とうとう息子にも春が来たんだな! これからよろしくお願いします!」と言われてしまう始末だ。
「いや……おかしいでしょ……」
ユリアンの家のティールームに通され、歓迎の茶会を開いてもらいながら、私は呆然となる。
「『結婚します!』って、絶対に酔った勢いで言ったやつじゃないの……。何で誰も止めてくれないの? 一人くらい、変だって言わなかったのかしら……?」
二日酔いから立ち直った私は、昨日の記憶を所々取り戻していた。そう言えば、会場で誰かと一緒に飲んだっけ。でも、まさかそれがユリアンだったなんて……。
彼のことは遠目からチラリと見たことがあるくらいだから、酔った頭じゃどこの誰かなんて分からなかったんだろう。
「おっ、色男のご登場だ!」
部屋にユリアンが入ってきた。「後は愛し合う若者同士で」と、親戚一同が集まったんじゃないかというくらいに混雑していたティールームから人が捌けていく。
「まったく……どうしてこんなことに……」
ユリアンは私の向かい側に座り、お酒ではなく紅茶をやけ飲みする。
「俺がこんな訳の分からないのと婚約? 笑えない冗談だ」
「それはこっちのセリフよ!」
私は目尻を吊り上げる。
「何であなたみたいなのと結婚しないといけないの!」
ユリアンは口が悪く、話しかければトゲトゲした言葉ばかりが返ってくるような人だ、って聞いたことがある。こうして会話する機会を与えられてみれば、まさにその通りの人だった。
それだけじゃなくて、彼は皆の輪の中に入っていこうとしないタイプでもあった。そのせいで、「暗い」とか「気難しい」なんてイメージがつきまとっているんだ。
そんな人と婚約するなんて、シラフの私だったら絶対に嫌だって言っていたはずだ。
昨日の自分を心底恨みながら、私は宙に視線をさ迷わせた。この婚約、今からでもなかったことにできないかしら?
「それ、気になるのか?」
真剣に考えていると、ユリアンに話しかけられた。彼が目をやっていたのは部屋に飾られている彫刻だ。どうやら、私がずっと同じ場所ばかりを見ていたから気になったらしい。
そう言えばこのティールーム、随分と彫刻作品が置いてある。皆手のひらサイズの小さいものだけど、それが棚の上に綺麗に並べられていたんだ。
でも、胸像とか人家とかモチーフには統一性がなかった。素材もバラバラだ。まるで、彫刻家が自分の作った作品を片っ端から展示しているような印象を受ける。
「誰かこの家に、美術品の収集が好きな人でもいるの?」
「いや。その作品は……俺が作った」
「えっ、ここのを全部!?」
私は改めて飾ってある彫刻を見つめる。
どれもこれもよくできた品だ。美術館とか、王宮に飾ってあっても全然不自然じゃない。中には可憐な花をモチーフにした水晶彫刻もあって、尖った性格の彼に全く似つかわしくなかった。
「意外な趣味ね。あなたにこんな一面があったなんて……」
「ふん、悪いか?」
ユリアンはそっぽを向いてしまう。私は「悪くないわよ」と返した。
「ただ驚いただけ。私、芸術には詳しくないけど、あなたの作品がいいものってことは何となく分かるわ」
「おだてても何も出ないぞ」
憎まれ口を叩きながらも、ユリアンはニヤけてしまうのを止められなかったようだ。咳払いをして誤魔化している。
……何なの、意外と可愛いところもあるじゃない。
思いもかけずユリアンを好意的に見る機会を得られたことが少し嬉しくて、私はさらに話を広げてみることにした。
「こういうのって、作るのにどれくらいかかるものなの? こんなにたくさんあるんだから、相当昔から凝っていたんでしょう?」
「まあな。小さい頃からの趣味だ」
思った通り、ユリアンは話に乗ってくる。
「小さいものだと数日もあればできる。まあ、モチーフにもよるが。後は素材だな。隣国産の石は柔らかくて彫りやすい。それに、あの国には芸術家を育成するためのアカデミーがあるそうだ。いつか俺もそこに入って……」
さっきまでとは別人のように、ユリアンは生き生きと喋り出す。何だか微笑ましくなってくる光景だ。
きっと、彼は職人気質なんだろう。ちょっと偏屈なところもあるけど、自分の作った物には誇りを持っているんだ。
だけど、皆は彼のそういう一面を理解していない。だから、悪い噂ばかり流れていたのかもしれなかった。
でも、私は彼の良いところをこうして知ることができた。だったら、「何で婚約なんかしちゃったんだろう」っていつまでもクヨクヨするよりも、ちょっとは歩み寄る努力をする方が建設的かもしれない。
「私はね、遠乗りが好きなのよ」
私は、今度は自分の趣味について話してみる。
「馬に乗って、ちょっと遠出するの」
「馬……」
ユリアンはハッとしたように口を閉ざす。どうやら、少し喋りすぎたと思っているらしい。
それでも、その目は向こうのテーブルに置いてあった木彫りの馬の彫刻を捉えている。少しは私の話に興味を持ってくれた……のかしら?
「今の時期だと、行き先は森なんかがオススメね。動物もいるわよ。この間は鹿を見たわ」
「鹿か……。絵画でしか見たことないな」
「それじゃあもったいないわ。何かを作る時って、観察が重要になってくるんじゃないの? となれば、本物を見た方がいいに決まってるわ」
「……素人のくせに知ったような口を利いて」
私に対して色々と話してしまったことを後悔しているのか、ユリアンはつっけんどんとした口調で言って、椅子から立ち上がった。そのまま部屋を出ていく。
遠回しに「一緒に行かない?」って誘ったつもりだったんだけど、彼はそこまで察せなかったらしい。
なるほど、これは難しい人だと、嘆息せずにはいられなかった。
****
私がある知らせを聞いたのは、それからしばらくの後のことだった。
「いやあ、素晴らしいな」
「本当に。ユリアンの昔からの夢が叶うなんて……」
ユリアンの家の庭では、明るい声が飛び交っていた。対する本人は、いつも通り無愛想に、それでいて嬉しさが隠しきれない顔で、集まった親族たちと適当に言葉を交わしている。
「留学生に選ばれたんですよね? 確か隣国へ行くとか……」
集まりに招待されていた私は、ユリアンの叔母だという女性に話しかける。彼女は目を輝かせながら「そうよ!」と頷いた。
「芸術家のためのアカデミーですって! 国王陛下が相手方と交渉してくださったのよ! これも婚約解消様々ねえ」
自分の孫娘の恋を叶えるため、国王陛下は様々な手を尽くしていた。きっと、この留学の件もその一環ってことなんだろう。
分かりやすく言えばお見舞い品ってやつだ。実際に、私もちょっとした物品を貰ったし。
「どれくらいの間向こうに?」
「確か二、三年くらいだったかしらね」
しっかり学んでもらわないとね! と言って、彼女は去っていく。残された私は、婚約者をぼんやりと見つめた。
これから先、ユリアンとは何年も会えなくなる。もしかしたら、その間に婚約の話も立ち消えになるかもしれない。
そうなったら……私は……。
「お前も来たのか」
ユリアンが近くに寄ってくる。
「身内だけの送迎会と聞いていたんだが」
「……何よ、せっかくお祝いしてあげようと思ったのに」
私は口を尖らせる。
私と長い間離れてしまうっていうのに、ユリアンはいつも通りだった。悩んでるのは、私一人だけってことなのかしら?
そう考えると無性に腹立たしくなってきて、ちょっと嫌味を言ってやることにした。
「あなた、私と離れられてせいせいしてるの? でも、元婚約者と別れるのは悲しいかしら? 結婚式の会場でも、未練タラタラだったもんね」
「未練なんかあるか」
ユリアンは頬を引きつらせた。
「あんな見る目のない女なんか、もうどうでもいい。未練がましいのはそっちだろう」
「私だってあんな男の人、どうだっていいわよ!」
ちょっとした口論になってしまい、私はげんなりした。どうして祝宴の場で、こんなピリピリした空気にならないといけないんだろう。……いや、彼の気分を害するようなことを言っちゃった私が悪いのかしら?
「ほらほら、ケンカはダメよ~」
取りなしが入って、一旦は休戦となる。けれど、それから私たちは一言も口を利かなかった。
この日はそのままお開きになり、私たちが次に会うことになったのは、ユリアンが隣国へ出発する当日のことだった。
「いってらっしゃい」
「気を付けてね」
親族たちに交じって、私も彼が馬車に乗り込むのを見送る。身内にさえ愛想のない返事しかしないユリアンだ。もちろん私には「さよなら」の一言すらなかった。
どうして別れの時までこんな風なんだろう。やっぱり……ユリアンは私と離れ離れになることを何とも思っていないから?
でも、それも仕方がない。
だって私たち、酔った勢いで婚約した者同士なんだから。そんな相手に情が湧かないのは変なことじゃない。
むしろ、彼と少しでも仲良くなろうとしている私の方がおかしいのかもしれなかった。
「寂しくなりますねえ」
私が暗い顔をしているのをどう勘違いしたのか、ユリアンのお母様が慰めの言葉をかけてくる。
「皆様、お集まりくださってありがとうございます。こんな時こそ宴ですよ! 食べ物や飲み物の用意はしてあります! パーっと飲んで、息子の門出を祝福しましょう!」
ユリアンのお父様が言った。
わ、私、飲むのはちょっと……と辞退しようとしたけれど、強引にティールームまで引っ張って行かれる。……あっ、「飲む」って紅茶のことだったのね。それなら別にいいか。
「さあ、どうぞ」
勧められるままに椅子に座った。いそいそと差し出されるカップを受け取る。
もしこのまま婚約の話が自然消滅してユリアンとの縁が切れてしまったら、もうこの家に来ることもないだろう。そうなれば、ここの作品群も今日で見納めだ。
そんなことを考えてしまった私は、感傷的な気分で棚の彫刻を一つ一つ丁寧に眺める。新しい作品が増えているのに気付いたのは、その最中のことだった。
「こ、これって……!」
私は椅子を倒してしまいそうなくらい勢いよく立ち上がった。棚に近づき、その最新作を手に取る。
「あら、ローゼルさん。ユリアンの作品に興味がおあり?」
お母様が破顔した。
「嬉しいわ。あの子、小さい頃に『石ばっかり削ってる変な奴』って近所の子にバカにされてから、自分の趣味をあんまり人に話したがらなくなっちゃって……。きっと、ちょっとしたコンプレックスになってたのよ」
お母様の話を聞きながら、私は彼の作品をしげしげと見つめる。それは番いの鹿だった。
そして、前にこのティールームでユリアンと交わした会話を思い出す。
――この間は鹿を見たわ。
不意に、ユリアンが背中を丸めながらノミを握っている光景が頭の中に浮かんできた。私、彼が作品を作っているところなんて見たことないはずなのに……。
そこでのユリアンは楽しそうに笑っていた。どうしてこんな幻を見るんだろう?
「しかも……材料として使われている石が紫水晶だなんて……」
昔、聞いたことがある。紫水晶には、酔いを防ぐ効果があるって言い伝えられているそうなのだ。
ユリアンは本当に素直じゃない人だ。紫水晶で作られた番いの鹿。ここから読み取れる彼の本心は……。
「酔いに任せなくても、私と仲良くなりたい……?」
ちょっと都合の良すぎる解釈かしら。でも、聞いたって本人は教えてくれないだろう。彼、意地っ張りだから。
だけど、ユリアンはそんな負の側面ばかりの人ではないはずだ。
「馬を貸していただけませんか!?」
気付けば、大声を出していた。
もしユリアンに別の一面があるのなら、私はそれをちゃんと知りたい。
だって……私はユリアンの婚約者なんだから。
****
「その馬車、止まれー!」
ちょうど、町から出てすぐくらいのタイミングだった。私は目の前の馬車に向かって大声を出す。
けれども中々停車してくれない。痺れを切らした私は、馬車と並走しながら御者さんに直接「止まってください!」と頼むことにした。
髪を振り乱しながら馬を駆る私を見て、御者さんはあからさまにギョッとしたような顔になる。
それでもこっちの必死さは伝わったのか、御者さんは馬を止めてくれた。私は半ば無理やり馬車の扉を開け、中からユリアンを引っ張り出す。
「お、お前……」
何が起きているのか把握できていないユリアンは、目を白黒させていた。そんな彼に対し、私は一言、はっきりと言い切る。
「待っててあげる」
私はユリアンの黒目がちの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私、あなたが帰ってくるのをちゃんと待っててあげるわ。だから、何も心配しないで」
「……何だよ、それ」
私の顔を食い入るように見つめていたユリアンは、我に返ったように視線を逸らした。
「そんなことを言うためだけにわざわざ呼び止めたのか? お前は本当に……」
「何とでも言ってよ。私は分かりやすい人間なの。……あなたと違ってね」
私は懐から、例の鹿の彫刻を取り出した。ユリアンが目を見開く。
「あなたは彫刻で、私は言葉と行動で自己表現する。やり方は違うけど、さっき言ったことは、あなたの気持ちに対する私の返事よ」
ユリアンはポカンと口を開けてしまった。その頬がみるみる内に真っ赤になっていく。
「お、俺は……その……」
ユリアンは何か言いたそうに口をパクパクさせた。でも、声が出てこないらしい。私は苦笑いしてしまった。
「どうする? 彫刻刀と手頃な石でも用意しましょうか?」
「……結構だ」
からかわれたユリアンは、ぶすっとしながら馬車に乗り込んだ。
出発の前に小窓が開いて、小さな声が聞こえてくる。
「お前が待ってると言うのなら……俺は、待ってるお前を待っててやってもいい」
その後に、ほとんど囁き声に近い小声が続いた。
「またな、ローゼル」
とても遠回りで分かりにくい彼らしい言葉の数々。でも、私はその意味をちゃんと理解できた。
「手紙くらいちょうだいねー!」
小さくなっていく馬車を見送る。その胸の内には、晴れ晴れとしたものが広がっていた。
でも、私はユリアンとの約束を守ることができなかった。やっぱり、ただ「待っている」なんていうのは、私の性に合わなかったらしい。
それから数ヶ月も経たない内に私は隣国へと渡航。そして、ユリアンが借りている家に押しかけ、彼と一緒に住み始めたんだから。