3話 魔獣
『大丈夫⁉』
ちびの漆黒の角が驚きを表わすように強く光った。
さっきまでの幸せな気分は消え去って、ちびはうろたえる。
自分たちしかいないとわかってはいるが、誰かに助けを求めたくなってきょろきょろする。
見上げるほどの立木の景色は来た時と変わらぬ暗闇が続いているだけだった。
『結界が破られた! ……魔獣が侵入した』
『え⁉』
痛みはなくなったようで、黒うさぎの王は落ち着きを取り戻した。しかし今は絶望的な表情へと変わっている。
ちびは自分の漆黒の耳を疑った。それほどの衝撃をうけた。
広大な森にはちびたちのような獣人と魔獣が住んでいる。
魔獣は肉食動物で、人間も獣人も生きている動物なら何でも捕食対象にする。獣人のように角はなく、意思疎通はできない。
よって獣人の里では魔獣が安易に里に入ってこないように必ず魔法で結界を張る。その役目は里の王の努め。結界が一番強固に張れるものが王となり里を守る。
長ではなく王と呼ぶのは、結界がみんなの命を守り、安心して暮らせる生活圏になるからだ。みな敬意を表わして王と呼ぶ。
それが破られた。
ちびは震え上がる。
『ちび。片づけて。戻ろう』
ちびは頷いて、急いで呪文を唱えて木の実や果実を影に沈める。
十を数え終えるころにはちびの目の前には木の実も果実も何一つ転がっていないきれいな状態になった。
『終わったよ』
『じゃあついてきて』
黒うさぎの王は穴蔵の方角へ体を向けて飛び跳ね、立木の間を縫うようにどんどん先へと進む。
ちびは置いていかれないように力いっぱい飛び跳ね、黒うさぎの王の背中を追いかける。それでも、距離が段々とひらいていく。
待って、と念話を送ろうとした時、鼓膜が破れるのではないかと思うくらいの咆哮がちびと黒うさぎの王の耳を襲った。
『⁉』
『!!』
ちびと黒うさぎの王は本能でさっと近くの幹に体を隠して、しゃがんで耳を両手で塞いだ。
まるで目の前に立ち戦慄しているような感覚に襲われる。
全身が総毛立って、今すぐここから離れたい衝動に駆られた。
『ちび。大丈夫? 動ける?』
緊張した面持ちの黒うさぎの王が気遣うようにちびに念話を送る。
ちびは怖くてぎゅっとつぶっていた目を開けて、黒うさぎの王を見た。
黒うさぎの王はちびの手をそっと握った。
『怖いよね』
『うん』
怖いのはちびだけではない。黒うさぎの王の手も微かに震えている。
『でも、みんなを助けないと』
そう念話を送ってきた黒うさぎの王の漆黒の角は決心したように強く光った。
『行こう』
黒うさぎの王はちびの手を握ったまま引っ張ってちびを立たせる。
ちびは頷いて幹から離れ、怯える足に力を入れた。先を行く黒うさぎの王の背中を追いかけた。
移動を再開すると、黒うさぎの王は時々振り返ってはちびを励ます。
魔獣の影響なのか、近づけば近づくほどに息苦しさと心臓に圧力がかかるようで辛さが増していく。それでも、ちびと黒うさぎの王が前に進むのは、どうしたらいいの、助けてと同胞が念話で悲鳴をあげる声が届くから。
(みんなを助けなくちゃ)
いつも黒うさぎの王もみんなも優しい。なんだかんだ言ってルルテも助けてくれる。今度は自分がという思いでちびは飛び跳ねる。
穴蔵の手前まで来ると、黒うさぎの王がちびより早く元凶を見つけて手で制した。
どうしたのとちびが念話を送ろうとしたが、不要になった。
黒うさぎの王が見ている先に答えがあったからだ。
『! ……あれが魔獣、なの?』
『そうだよ』
黒うさぎの王の肯定に、朝日に照られた夜空を連想させるちびの青い瞳がいっぱいに開く。
そこにいたのは巨大な元凶の狼型の魔獣が一体。
逆立つような毛並みで足の爪は鋭く、四肢は樹木を押し倒すことができそうなほどに太い。
ちびのような小さい獣がその足で踏みつけられたら即死してしまうだろう。
全ての獣人の天敵が、存在感を見せつけるように一歩踏み出して咆哮した。
『!』
ちびの全身にさっきと同じ戦慄がはしる。
大きな口からは鋭い牙が見えて怖くて泣きたくなった。
今度は狼型の魔獣は口を大きく開けて炎を吐いた。真っ赤な炎は滑るように大地に流れて草木を焼きつくす。
穴蔵から飛び出してきた同胞たちは状況が理解できず、右往左往していた。中には丸まって怯えて震えている同胞や怪我をしている同胞もいる。
『みんなを避難させないと』
兄のように優しい黒うさぎの王の表情は硬く、平常心を保つために拳を強く握っていた。黒うさぎの王自身もこういう状況になったことはないのだろう。
『ちびはこのまま逃げるんだ』
状況を理解した黒うさぎの王は、見つかっていない今が好機だとちびの背中を押した。
『え、でも、みんなは……。助けるんじゃ……』
『ちびの気持ちはありがたかいけど今は逃げて。みんなはお前より早い。すぐ追いつくから先に行って』
一人でも多く同胞を助けたい、そういう気持ちで黒うさぎの王が言ったのは理解できた。
先程まであった助けたい気持ちも、あの咆哮で根こそぎ奪われてしまった。
足がくすんでしまっている。膝が震えていて、とても一人でどこかに行けるような余裕はなかった。
ちびは首を横に振った。
『怖いよ。無理だよ』
ちびの気弱さを表わすかのように漆黒の角が弱々しく光る。
『ちびは体が小さいからそれを活かして隠れながら逃げれば大丈夫』
『僕、いつもみんなの指示に従って、いつもルルテに助けてもらってた。そんな僕が単独行動なんて……できないよ』
ちびはまた首を横に振った。瞳を潤ませて誰かと一緒がいいと懇願した。
『聞こえるだろう。みんな驚いてあたふたして余裕なんてない』
お願いだからいうことを聞いて、と黒うさぎの王はちびの肩を掴む。
『ぼくは王だからみんなを助けに行く』
これ以上は傍にいられない、と暗に言われて、ちびは服をぎゅっと握って下を向く。
首を横に振ったのは別に困らせたいわけじゃない。一人になったことがないから不安なのだ。
『ちび、食料を保管している穴蔵の場所は知っているね。みんなをあそこに行かせるから。誰かに背負ってもらって中に入るんだ。あそこなら高いし、やつが登って入ってくることはない。奥は繋がっているから入る穴蔵を間違っても合流できるから!さあ、行って!』
今まで見たことのない真剣な表情で黒うさぎの王はちびに命令を下す。
ちびは瞳を潤ませ、ぎゅっと口を閉じて走り出した。