2-1 TS美少女とキャラメルラテ
山で過ごす夜は、夏でも充分に肌寒い。
ぼんやりと焚き火を眺めながら並んで座っていると、和也は私に暖かい飲み物が入ったカップを渡してくれた。
わざわざ豆から挽いてくれたそのコーヒーは、めちゃくちゃいい匂いがするし、私好みの砂糖たっぷりにしてくれていることは、確認しなくてもわかっている。
TSする前、コーヒーはブラックが至高だと信じていたが、女の体になって以来は、すっかり甘党になってしまった。
和也が焚き火に薪を追加するのを見ながら口を付けると、甘みと軽い酸味の奥で、柔らかい苦みが舌の上に広がる。
この体になって初めて、ブラックコーヒーを飲んだ日のことは、今でも覚えている。
今思えば、ちょっと気恥ずかしい、でも私にとっては大切な思い出だ。
◇◇◇◇◇
「あら紬ちゃん、髪のアレンジはうまくなってきてますね。お化粧は……ちょっと目元がやりすぎかな。やり直してみましょうね」
「うっす。もう一回やってみます」
和也に会って以来しばらく、紬ちゃんこと、この俺はメス塾の実習の中で密かに燃えていた。
女になりきる練習を今後も続けていくにせよ、その成果を実感のある形で確認していくことは大切だ。
かわいいだけでなく、かしこさも兼ね備えたこの俺は、知り合ったばかりの和也を使って、その確認をやってみようと考えたのである。
童貞臭さのある、いかにも女慣れしていない和也になら、万が一にも俺が元おっさんだなんてバレはしない。
思春期の童貞ならば、俺がイメチェンする度にドキドキしてしまうだろうから、髪型や化粧がうまくいっているか、リアクションを確認する相手としては最適であろう。
「紬ちゃん、今日はやけに気合い入っとるのう? 急にどうした、何かええこと……あったのかしら? ウフフ!」
横の席でメス塾の実習を受けているおばさん、いや元おじいさんは、いまだに下手くそな化粧で顔を汚しながら、でもにこやかに俺に接してくれる。
でも実は俺たちは、TS患者同士での過剰な交流か禁止されている。
退院してからも、お互いに連絡を取り合うことは許されない。
たぶん国が全力で隠蔽しているこの俺たちのTSについて、患者同士が結託して世間に広めようとするのを防ぐためであろう。
患者たちは全員、国からの高額な見舞金の代償として、そうした細かい誓約書にサインを書かされているのだから、いつも俺に話しかけてくるこの元おじいさんは、なかなか度胸がある男、いや元男なのである。
「先生、すいませんまた失敗しました。もう一回このアイライン? とやらの使い方を一から教えて頂きたいんですが」
どうせ化粧もマスターできるまで、この病院での軟禁生活は終わらないのだ。
やるしかないのだから、全力で頑張って、さっさとこの地獄のメス塾から抜けださなければ。
「なんか今日は紬、髪型かわい……いや、髪型、なんか変えたんだな?」
メス塾の解散後。
和也のいかにも童貞くさい、目線をあわせずモゴモゴ言ってくるリアクションを見て、今日のヘアアレンジだけは、なんとかうまくいっていることには自信が持てた。
講師が言うところによると、男受け間違いなしのポニーテール。
ちょっと緩くふんわりまとめた、みんな大好きゆるふわヘアーだ。
「私がかわいすぎるからって、惚れんなよ?」
和也の車イスを、病院の中庭にあるベンチのそばに止めながら、私は冗談半分に笑う。
いやしかし実際、惚れちゃうだろうよ。童貞なら。間違いなく。
たぶん一般にはほぼお目にかかれないレベルの超絶美少女が、しかも高校生には珍しいキャンプなんて趣味を理解してくれる超絶美少女が、自分のところにホイホイ遊びに来るわけだ。
思春期の童貞くんが、意識しないでいられるわけがない。
病院の広い中庭は、入院患者の憩いの場として植物が多く植えられており、キャンプにも通じるような自然の癒しを与えてくれる。
ベンチの横に和也の車イスを並べ、顔がくっつくほどの距離感で、一つのスマホの小さな画面を眺めた。
「紬さあ、キャンプ動画見たいんなら、別に自分のスマホで見ればよくね?」
怪我をしていない片腕で、自分のスマホを二人で見れる角度に調整しながら、和也は心にもないことを言ってくる。
嬉しくないのか? この美少女である俺と並んで座っていることが。
「あー……私、スマホがぶっ壊れちゃってさ、今持ってないんだわ。退院するまでは強制メディア断ちなんだよね」
実際には、死亡した扱いで国に処分されてしまったわけだが。
私の言葉に、和也はなぜかちょっとしょんぼりして、スマホを持っていた手を自分の太ももまで下ろした。
あ、わかったぞ。
こいつ、俺と連絡先交換がしたかったんだろ。
すまんな、童貞の夢を壊してしまって。
ワンチャン期待したんだろうけど、俺、元は男だし、そういう方向性は諦めたほうがいいぞ。
だからそんな絶望したみたいな顔になるなよ。
元々冴えない顔が、さらに冴えなくなるぞ。こっちまで悲しくなるわ。
「……別に和也と連絡先交換したくないとかいうわけじゃないからな? スマホ無いのはマジだから。ほら、入院着のポケット触ってみる? 本当に財布しか入ってないからね」
哀れに思った俺が軽くフォローしてやると、和也は一瞬ぴくりと反応してこちらの顔を見た後、小さくため息をついた。
なんとも辛気臭い野郎である。
「仕方ない、喉も乾いたし、哀れな童貞くんの和也にもコーヒーくらいおごってやるよ。買ってきてやるから、何飲みたい?」
「ど、童貞とか言うなよ……。まあ、じゃあせっかくだしキャラメルラテにしてくれ。オレ結構甘党でさ、コーヒーはブラックに決めてるんだけど、今日は甘いの飲みたい気持ちが勝ってるわ」
中庭の奥に見えるコーヒーショップは、有名なチェーン店のもので、俺の前にも二人ほど順番待ちの状態だった。
こうして特に周りを気にせず行列に並べるのも、ワクチン3回目接種で感染症の拡大がストップしたおかげなのだから、そりゃありがたい話なのだが。
俺個人に関して言えば、TSしてしまったことのダメージの方がよほど大きいのは間違いない。
自分の番が来る前に、ちらりと和也の方を振り返ると、車イスからこっちをガン見していたようでしっかりと目が合ったので、一応軽く手を振っておいた。