6-1 TS美少女と自分の居場所
和也がいなくなってから一週間後、私は国から新しいスマホを支給してもらうことができた。
だけどもう、そのスマホに使い道なんてない。
もうあの病院に居続けることが辛くて、あれからは毎日全力で女になりきり、カウンセリングでは自分の元気とやる気をアピールし続けた。
退院できたのは、さらに二週間後のことだった。
かなり長い時間を過ごしたはずの自分の病室にも、通い続けたメス塾にも、もう何一つ思い入れも心残りもなかった。
国が用意してくれた住居は、家具付きの一人暮らし用の賃貸アパートだった。
日当たりがいい部屋で、まだカーテンすら買っていないから、晴れた日のお昼はとてもぽかぽかして暖かい。
最低限の衣服だけをネットで注文し、あとはほとんど外にも出ずに、何もないフローリングに横になって、ただぼんやりと時間を過ごしている。
あんなに楽しみにしていたキャンプにも、行く気にならないどころか、道具の調達すらやる気にならなかった。
入居するなりすぐに、もうすぐ通う高校の制服が届いたけれど、開封することもなく部屋のすみに押し込んでしまっている。
死んでしまいたい、なんて言うつもりはないけれど。
だけどもう、生きていくことに積極的にもなれない自分がいる。
この世界にはもう、私の居場所はどこにもない。
誰も俺のことを知らなくて、誰も私を必要としていない。
今さら学校に通ったところで、何一つやりたいことなんてない。
ただ、和也に会いたかった。
あいつの横だけが、私の居場所のように感じていた。
だけどもう、会うための手段はない。
あいつにとって私は、キャンプの話相手程度でしかない存在で、怪我が治って退院できるのならば、私に対して執着するような理由はないはずだった。
会えなくなってから、何度も和也のことを考えていた。
あいつはたぶん私にとって、空気や水みたいに大切な存在だった。
私にとってはきっと、運命みたいな出会いだったはずなのに、私は自分のことでいっぱいいっぱいで、あいつのことを何一つ繋ぎ止めておくことができなかった。
だからこのあとの私の人生はきっと、そんな自分自身への罰のようなものだ。
自分の心にきちんと向き合いもせず、あいまいな感情のまま、ただあいつとの時間にだらだらと依存し続けていた。
そんな愚かな私なのだから。
もう、会えないのは当然のことだ。
いつか私は、和也と過ごしたあの病院での日々のことを忘れて、別の誰かに恋をして、股を開き子供を孕み、どこにでもいるありふれた女の一人として生きていくことになるんだろう。
自分が男だったことも思い出さなくなって、この歪んだ心を抱えて生きていく。
もし自分がそうなってしまうのなら、別にもう、わざわざ無理に生きていなくてもいいのではないかと、そんな弱い心が自分を支配しようとしてくる。
そのくらい、病院から放り出された私の、和也に会えないひとりぼっちの日々は、寂しくて、つらい時間だった。
だけど死なない限りはお腹もすく。
食欲もないけれど、自分の若い体が食べものを求めていることは、お腹の感覚で理解できていた。
泣きすぎて失った水分だけは、水道のお水から簡単に取り戻せるのだが。
明らかに痩せてしまった自分の体は、まだ生きていくことを望んでいる。
霞がかかったようにぼんやりした頭で、財布だけわしづかみにして、アパートの部屋を出た。
梅雨の雨がわずかに降っていたけれど、まだ傘すら買ってはいなかったので、そのまま気にせず近所のコンビニを目指す。
少し歩くうちに、雨でしっとりと髪が濡れてきたけれど、寝癖も直さず顔も洗っていなかった私にはちょうど良かった。
濡れたアスファルトの匂いの中で、ゆっくりと雨に体温が奪われていく。
若いこの体は、たぶんこれくらいでは風邪すらひかないし、別に体調を崩したって、誰が困るわけでもない。
「……ツムギさん! 紬さん!」
え?
それが自分の名前だということも、すっかり忘れかけていた。
湿った服の肩を、急に通りすがりの女の子につかまれて。
その子のどこかで見たような顔を見たとき、ようやくゆっくりと、自分の時間が動きはじめた気がした。
「ほら、これで頭を拭いてください」
ちょっと古びた二階建ての家はから、ほんの少しだけ、和也の匂いがするような気がした。
渡されたタオルからも、同じように感じる。
私と偶然出会ったのは、前に一度だけ病院で会った、和也の妹の桜さんだった。
濡れネズミのようになっていた私にわざわざ声をかけてくれて、この家に連れてきてくれたのだ。
……この家に、和也が住んでいるんだ。
もう何日も動いていないみたいだった自分の心臓が、音をたてて動いているのがわかった。
これで和也に会える。こんな奇跡が、まだ私にも残っていたなんて。
「あ、あの! 桜さん、和也は今どこにいるのかな?」
私の急かすような声を聞きながら、桜さんは私の前に、暖かいココアを持ってきてくれた。
口をつけると、栄養が不足した体に、強い糖分が染み込んでくるのがわかった。
「お兄ちゃんはまだ学校です。もうすぐ帰ってくると思いますけど」
答える桜さんの声からは、どうしてか少し冷たい印象を受けた。
彼女は少し考えるように黙って、そしてそのどこか和也に少し似た瞳で、まっすぐに私と目を合わせてくる。
「ねえ紬さん。紬さんは、お兄ちゃんのこと、どう思ってるんですか?」
……どうって言われても。
私はまた、熱いココアにゆっくりと口をつけていく。
体中が欲していた久しぶりの糖分は、すごく甘くて、おいしく感じる。
食べものや飲みものの味を感じたのも、いつぶりのことだろうか。
「退院が急に決まって、お兄ちゃん、あなたにそれを伝えたくて、何度も看護士さんにお願いしてたんです。……どうしてか、とりあってもらえなかったけど」
ぽわっと、胸が暖かくなった。
へえ。あいつが、私をそこまで。
看護士さんたちだって、私が和也と仲良しなのは知っていただろうに。
でもたぶん私がTS患者だから、簡単に個人情報を渡せなかったんだろうな。
まあでも、そりゃそうだよね。
私みたいなかわいい女の子と急に離ればなれなんて、そりゃあ和也だって嫌だったよね。
そう考えるとなんだか、心が弾むくらい、嬉しくなってきてしまう。
「スマホ持ってないとか、本当だったんですか? それが一番信じられなくて。今どき、あり得ないっていうか」
桜さんがそう言うのもごもっともだが、それは本当のことだから。
でももし、自分がもっと早く女になりきることができていたのなら、スマホをもっと早く手に入れられて、和也とも連絡をできたのだと。
それを後悔しなかった日は、一度もなかった。
「退院して以来、お兄ちゃん、脱け殻みたいになっちゃって。わかりますよね? 失恋、ってやつですよ」
桜さんの言うことは、よくわからない。
だけど和也が苦しんでいたのだとすれば。それが私のせいだったのだとすれば。
今から私にできることがあるなら、なんだってする。
桜さんは私から目を背けるように、自分のココアが入ったカップを見つめて、静かに真剣な声で続ける。
「紬さんは、お兄ちゃんのこと、なんだと思ってます?」




