1-1 TS美少女とミイラ男
揺らめく焚き火の輝きと、薪のはぜる音。
夜の深い闇の中、ランタンと炎の明かりだけに照らされて、ただぼんやりと時間を過ごす。
風に舞うオレンジ色の火の粉をゆったりと見つめる俺、いや私は、自他共に認めるかわいいかわいい女子高生だ。
後ろに軽くまとめたロングヘアは、手触り最高のさらさらで、すっぴんとはいえ神がかった美貌である。
こんな美少女と今日のキャンプを共に過ごせるその光栄、となりに座っている相棒にも、しっかりと感謝してもらいたい。
まさかその美少女の中身が、もう30歳を越えたおっさんだなんて、想像もつかないだろうし。
TSした当初こそ、色々不安定になっていた時期もあったが、今の私はもう、普通の女の子よりよっぽど女らしく、しかも男心まで理解できてしまう、パーフェクトな存在だ。
元男だなんていうことは、むしろアドバンテージだと思っていただきたい。
夏の山を通りすぎる涼やかな風で木々が揺れ、少し火照った肌が冷まされていく。
ランタンの優しい明かりに照らされて、となりの相棒の横顔をちらりと覗き見た。
今日のこの日を、どれだけ待ち続けたことか。
今日こそ、この夜こそ、私はお前を殺すだろう。
……ちょっと不穏な言い方になってしまったが、つまりこれは、性的な意味でのお話だ。
私の方も、貴重な処女を賭けての戦いになる。
いい歳をしたおっさんがいかにして、この童貞を殺すためのキャンプに至ったか。
涙なくして語れないその経緯から、まずは説明しなければならない。
◇◇◇◇◇
10台では恋人を作り、20台では結婚し、30歳を過ぎれば子供にも囲まれ、幸せな家庭が築けるもの。
そう信じていたのは、いつの頃までだったか。
顔も悪けりゃ性格も悪いこの俺には徹頭徹尾、女の子なんて寄り付きはしなかった。
必死に勉強していい会社に就職しても、コミュ障では出会いもなく、溜まっていく貯金と、唯一の趣味であるソロキャンプだけが楽しみの、わびしすぎる人生。
理想を捨て、プライドを捨て、エッチなお店のプロの女性で童貞を捨てたあの日の涙を、俺は一生忘れない。
そうして30歳もとうに過ぎ、新型ウイルスの流行で長い自粛生活。
三回目のワクチンを接種して、他人と気軽にふれあえる日々が戻ってきたならば、今度こそ俺は出会い系サイトに頼ってでも、かわいい彼女を作ってみせる。
そしてきっといつか、幸せな家庭を築いてみせる。
そう、思っていた。
「うーん、紬ちゃんはちょっとまだ、チークの使い方が下手くそですね。もう一度やってあげますから、真似してみてください」
それが今や、自分の顔に軟弱な匂いのする化粧品を塗りたくられ、胸にはブラジャー、股間にはコワゴワする生理用品を取り付けた生活だ。
鏡にうつる美少女の顔面が、30代のおっさんのものだなんて、誰が信じられるだろう。
人生とは、ままならないものである。
全国民によるワクチン三回目接種の目覚ましい効果は、新型感染症を日本から駆逐するに至った。
休止されていた全国のキャンプ場なども、もう利用が再開され、たくさんの人々がこの春、美しい自然の中で、幸せなキャンプを楽しんでいるらしい。
とても素晴らしい話だ。ただし俺にはまだそのキャンプができないことを除けば。
ワクチンの三回目接種は、副作用だけがちょっとした問題だった。
体に軽い痛みが出たりといった程度だが、ちょっぴり苦しい思いをした人たちは多かったようだ。
一方で、世界の闇に葬られた、恐ろしい副作用もある。
200万人に一人。
日本でおよそ50人という低確率で、しかも男性のみに、とんでもない副作用が働いたのだ。
それが、不運にも俺が発症してしまった、急性TS症候群。
ワクチンの作用で抗体が作られる際、わけのわからない人体の不思議により、肉体が変質。
女体化し、およそ実年齢より20歳ほど若返る。
そしてじわじわと精神も女性に近づき、早い人なら1か月もたたずに、心も体も完全なメスとなる。
これが急性TS症候群というものだ。
こんな副作用が表沙汰になれば、ワクチンの接種率が低下してしまっただろうし、接種を推進してきた政府の政権維持にもダメージがあるため、日本を含め、各国が徹底して隠蔽を図っている症例だった。
「先生、このグロスとやらを使うと、唇がぷりぷりになるのはまあいいんですが、ベタベタして気持ちが悪いんですけど」
鏡の中にうつる丸くキラキラした瞳の美少女を見つめ、ため息をつきながら、俺はいまだに自分のものとは思えない高い女声で苦情を伝える。
こうして鏡と向き合っているとよくわかるが、今の俺は間違いなくかわいい。
TSしたって本当は、かわいくもなんともない普通の女性になる人の方が多い。
自分の遺伝子のどこにこんな美少女要素があったのかわからないが、この顔面ならまあラッキーだ。
一流アイドルには及ばないかもしれないが、もしアダルトなビデオの女優にでもなれば、大人気は間違いない。
このレベルの顔面なら、世間ではさぞかしちやほやされて生きていけることだろう。
だけどそれが自分の顔だとは、まだどうしても受け入れきれない。
鏡を見るたびに、自分と同じ表情をする知らない女の子がうつるのは、心臓に悪いくらいに、強い違和感を覚えてしまう。
このお化粧実習の後には性教育の時間があり、それが終わると、女性らしい言葉遣いと振る舞い方のお勉強。
患者の女性化ぶりに関しては、定期的に試験やカウンセリングが行われ、合格するまでは軟禁生活。
日本全国から集められたTS患者に、女性としての生き方を徹底して叩き込むこの集まりは、患者仲間たちから通称、メス塾、と呼ばれている。
「紬ちゃんよお、化粧くらい我慢するしかねえじゃろうが……じゃない、我慢するしかないのよ、ウフフ」
となりの席で同じくお化粧の実習に参加している、40台くらいに見えるおばさんが、同じくグロスを握りしめ、気色悪い話し方でこちらに笑いかけてくる。
この人も、元々は定年を過ぎたおじいさんだったというのだから驚きだ。
「女なんぞになったとはいえ、若返った以上は、もう一花咲かせたいしのお。膝が痛くないだけでも儲けもんじゃ。化粧くらい根性出して……覚えなきゃ、ダメだぞ。ウフフッ!」
吐き気がするような苦しい毎日だが、完全な女性になりきれるようになるまでは、この病院からは出られない。
大好きなキャンプを再開するためには、涙をこらえてメスになりきり、なんとかここを出ていく必要があるのだ。
俺が美少女にTSして以来、国から軟禁されているのは、地方の大きな総合病院だ。
一階には大きな売店やコーヒーショップまであり、お金さえあれば生活に困ることはない。
俺のようなTS患者は、TSのことを生涯誰にも明かさない、という口封じの誓約書と引き換えに、莫大な額の見舞金を渡されているため、何なら売店の商品を丸ごと買い占めることだってできてしまう。
男だったときの名義の貯金は闇に葬られてしまったけど、もはやそれがどうでもいいと感じてしまうくらいに、今の俺はお金持ちだ。
今日の俺のお目当ては、キャンプ雑誌の新刊を買うことだった。
TS患者は皆、公には死んだものとして処理されているため、これまでの人生で所有してきたものは一切合切処分されている。
メス塾の指導内容を身につけ、精神が安定したと認めてもらえるまでは、スマホすら与えてもらえない。
口外されたら困るというのは理解できるが、メス塾は昼過ぎには終了なので、雑誌くらいないと暇で暇で仕方がないのだ。
売店の入口の自動ドアにうっすらと、入院着姿の美少女の姿が反射する。
つまりそれが、今の俺自身の姿だ。
女子高生くらいの年齢に見えるその女の子は、背は低めだがスタイルもなかなかのもの。
見た目に関しては、誰だってワンチャンお近づきになりたいと思ってもらえるくらいには、ハイレベルな外見をしていると思う。
だけどこれが今の俺なんだと思うと、異様な悲しさが押し寄せてきて、情緒不安定な自分の心が軋んでいく。
涙を押し殺し、スリッパをペタペタと鳴らしながら雑誌コーナーへ歩いていった。
興味のない女性誌や恋愛漫画の雑誌を横目に、男性向けの雑誌が並ぶあたりを物色する。
近くで立ち読みしていたおじさんを、邪魔だなあとじろじろ見ていたら、それに気づいたおじさんの視線が、一瞬俺の顔に向けられ目が合ってしまった。
そして、その視線がチラりと下に降りて、俺の胸元の膨らみへ。
はい、最悪。
もう、本当に最悪の気分だ。
今はもう、大好きなキャンプだけが、俺の人生の希望。
男の性的な視線にさらされるようになってしまった、このクソみたいな人生で唯一、キャンプのことを考える時間だけが、俺の心を救ってくれる。
歯を食い縛りながら、目当てのキャンプ雑誌を手に取った。
入荷数が少ないのか、新刊なのに一冊しか置いていなかったみたいだ。
パラパラとページをめくってみるが、さっきのおっさんの気持ち悪い視線のせいで、内容が全く頭に入ってこない。
もう何も考えず、病室に持ち帰ってからゆっくり読もう。
「あ、あの!」
雑誌を畳んで立ち去ろうとしたとき横で、俺の目線より少し下の高さから、若い男の声がした。
……クソが、こんなところでナンパかよ。
ほとんど睨み付けるようにその声の方に目をやる。
だけどそいつの姿を見て俺は、ちょっと久しぶりに笑ってしまった。
看護士さんらしき人に車イスを押されたその男は、たぶん今の俺の体と同じ、高校生くらいの男子のようだった。
つい笑ってしまったのは、その格好だ。
その姿は言うなれば、ミイラ。
両足と片腕、首にギプスが付けられ、頭にもぐるぐるに包帯が巻かれている。
性格の悪い感想になってしまうが、こんな漫画みたいな怪我をしたやつ、初めて見たぞ。
「あの! その雑誌、オレに譲ってもらえないでしょうか!」
そいつは車イスの上から割りと必死な形相で、唯一無事なのだと思われる左手を使い、全力のお祈りポーズをかましてきたのだった。