21、海胡桃のおばば2
クィー クィー クィー クィー
木の擦れる高い音が聞こえてきた。
鬱蒼と繁る木々の向こうに、赤い炎がゆっくりと動いている。舳先に松明をつるした小舟が島に近づいていた。良たち三人は誰言うとなく立ち上がり、小屋の後ろに身をひそめた。小舟は砂浜にまわってきた。
『じっと、しとれよ』
太い声が響き、砂を蹴って男がやってきた。
「お婆や、これ、海胡桃のお婆」
男は小屋の入口の前でどなった。中でごそごそと動く音がして、「その声は、川の三つ又かえ。年寄りの眠りを邪魔するない」と掠れた声が返った。
「起こしてすまねえ、いやぁな、一番の輝きの島で化け物が出てな、どこぞに飛んで行ってな。用心するように言いにきたんだが」
ジャラリと葦簀が上がる音がした。老婆が外に出たのだろう。
「それぐれいのことで起こすな。この歳になっては、化け物なんぞ関係ねえさ」
老婆は面倒くさいことのように話した。
良たちはほっとした。老婆は味方だった。
「それより魚の差し入れはどうした。夕刻に来んかったじゃねえか」
「すまん、それどころでなくてな。そんで今はなあ、とっつかまえた化け物のかたわれを運んでおるのよ。驚くな、口をきく狼ぞ」
良たちは耳をそばだてた。
「ほえー、狼が口をきくとな。それはたまげたこっちゃ。で、そいつをどないするつもりじゃ」
「決まっとるわな。丸太ん棒組んで、ぼうぼう燃やしてしまうのよ」
「ははあ、そしたら安心じゃの。川の三つ又、まだ道中長いでの、気をつけていきよ」
「心配は無用さ、お婆。んじゃあ、二つの日と空けずに魚を持ってくるで。待っといてくれよ」
陽気な声を残して男は砂浜に帰っていった。
「俺に捕まったのが、運の尽きだ」
声とともに柔らかいものを棒で叩く音がし、低い獣の唸り声が続いた。やがて小舟は岸を離れていった。
「犬神さんが捕まった。どこかで火炙りにされてしまう」
良は目を見開いた。
「助けに行こうぜ。今なら幻人は一人だ。二人なら何とかなる。俺を抱えて舟まで飛んでくれ」
圭太が言った。
「これい、慌てるな!」
老婆が小屋の後ろにまわってきた。
親指ほどの長さになった蝋燭を細い指でつまんでいる。寝癖がついたせいか髪の毛は逆立っていて、先ほどよりも恐ろしく見えた。
「口をきく狼っつうのが、あんたらの仲間っつうことは気づいとるわい。じゃがな、迷い童は海につかると、どこかに消えてしまう。舟の上はやっかいじゃ。助けるなら、陸に上げられてからにせえ」
老婆の言葉は当を得ていた。
「お婆さんはあの舟がどこに行くのか知っているの」
良はきいた。
「ああさ」
老婆はこっくりと頷いた。
「四角入り江島じゃ。あの島の山の麓の入り江にゃ、丸太ん棒がたんとあるわい。他の島にゃ、組めるほどの丸太ん棒はありゃせんわい」
「それって、高い山がある島?」
良は上空からちらりと見えた山を思い出した。ここからはずっと遠い。
「おお、そうじゃ。翼のあるあんたなら、ひと飛びじゃろう。もうちいとは、ここにおれ」
老婆は三人を小屋に招き、天井からぶら下がった燭台に蝋燭を置いた。
小屋は一面に藁が敷きつめられていた。隅には、鈍く光る銀色のたらいと大きな皿、それにザルが置かれている。皿には外に転がっていた木の実の中身か、黒いピーナッツのようなものが山になっていた。他にはなにもなかった。
老婆は嬉しいことでもあったように、三人を見てはニタラニタラと笑っている。
「お婆さんは、僕たちのことを化け物とか邪悪な者とか思わないの?」
良は聞いた。
「浜辺で仲ように話す化け物がおるかいな。それに若い衆は知らんじゃろうが、空が青かったころには、迷い童がちょこちょこ来たもんじゃ。変なもんが取り憑いとる童は姿を変えたりもしていた」
良をじっと見つめた老婆は、目を細めた。
「…迷い童が来たらもてなせ。やがてわしらを豊かにする…昔からの言い伝えじゃ。じゃからに、あんたらをこうして招いたんじゃ。なにせ久しぶりのこと。もてなしの用意なんぞしておらんかったわい」
老婆はザルを手にとると、三人の前に置いた。小さなドングリが底に溜まっていた。
「腹空かしとるんじゃろう。お食べや」
「これ、シイの実だ。いただき」
圭太がザクリとザルの中に手を伸ばし、一粒を口の中に放りこんだ。
良は思わずその頬をはじいた。よその世界の食べ物を口にすると、二度と元の世界に戻れない。何かの本に書いてあった。
「何するんだよ。殻ごと飲んじゃったじゃないか!」
「え、飲んだって」
良は青ざめた。圭太はわけが分からんと睨みつけている。なんと説明してよいものか言葉に詰まった。
「ヒャハッハハ、毒などは入っておらんわい」
老婆が大きく笑った。やたらと長い犬歯のほか、前の歯はほとんど抜け落ちていた。
「安心せい。ほの実は、もとは迷い童が持ち込んだもの。ほれが木になって実を結んだんじゃ。まずくて、いざって時の食いもんとしておるだけじゃが、童はよう食べたもんじゃ」
「ほれみろ!」
圭太がまた一粒摘んでガチリとかみ、殻を吐き出した。
「素朴なお味ですな」
と、新一もガヂガヂとやっている。
もう遅い。老婆の言葉を信じるしかなかった。
『こんな時こそ、よけいな知識を披露しろよ』
いったん新一を睨みつけてから、良もシイの実に手を伸ばした。殻を取り、わずかに甘みのある実を、一粒二粒、かみこんだ。
とりあえず、体には何も起こらなかった。隣の二人にも変わった様子はない。
カゴの中の実は、あっという間に殻だけになった。間食にもならないぐらいの量で腹が膨れるわけがない。新一はカゴの中をかきなでて、シイの実が残っていないかを確かめていた。
「ごちそうさまでした」
良と圭太が丁寧に言った。
「あんたらの食べるんを見ていたら、わしも腹が減っちまった。ほー明日の分じゃがの…」
言いながら老婆は、銀色のたらいに手を伸ばした。ズバンッと中にいた黒い魚を掴むと、大口を開けて一口で飲みほしてしまった。
良たちは言葉をなくした。二、三十センチはあろうかという魚を、ごくりと飲み込んだ老婆の食いぶりにも驚いたが、<人の波動>が、こんなにもあっさりと食べられてしまうなんて…
「今食べた魚、おいしい?」
良はおそるおそる聞いた。
「美味いっちゅうもんではないわ。食べては祟りが起こると言われてたが、他の魚がおらんでのう。海胡桃などでは、すぐに腹が減っちまう」
老婆は渋そうな目をして、黒い実の小山を見つめた。
「青い空が戻るまでの辛抱じゃわい」
「青い空?」
「こっちゃ、こい」
老婆は重そうに腰を上げ、小屋を出た。
浜辺に出たところで老婆は海を指さした。
「よう、目をこらしてみてみ」
黒い海には、ポツポツと赤い炎をともした小舟があった。時折り、あちこちが薄青く光っている。島におりる時にも見えた。海に浮かぶ小島が不規則に光っていた。
「輝きの島がぼんわか光っとるじゃろう。昔は、昼間でも眩しいほどに光っとったわ。ほんで青い空があって、美味い魚もわんさかおった。ここんとこ、ちいと光が増えたようじゃ。もしや、昔のように輝きだすかもしれん」
「輝きの島っていっぱいあるの?」
良は首を捻った。確か最初の島もそう呼ばれていたはず。
「そりゃな。この国にゃ、いくつかの大きな島がとーんとんと離れてあってな、その一つ一つの周りに、数えきれんほどあるわい」
…人は大地への信仰をなくしてしまった…
良は、長老のけわしい顔を思い出した。
人は昔、命を育む大地に救いを求めたり、感謝の祈りを捧げていた。お地蔵さんを見ては手を合わせていた。それがめっきり減ってしまった。
お地蔵さんは、こちらの世界への入口。ということは、大地への祈りが減ったせいで、輝きの島は光らなくなったのではないだろうか。そして青い空がなくなり、魚も減り、幻人たちは<人の命の波動>である魚を食べはじめた。
でもそうすれば人々は凍りついて、祈りの総数は減っていく。結局、青い空は蘇らなくなってしまう。黒い魚を食べてはいけないというしきたりは、そのことへの警告だったのだ。
良は、そのことを知らずに、銀の衣の三郎太に「食べれば」などと軽率なことを言ってしまった。
しかし最近、輝きの島は光るようになったという。たぶん、自分たちの世界で、凍りつき事件をきっかけにして、大地への祈りを思い出した人が出てきたのだ。なんという皮肉だろう。
『いや、ちょっと待て…幻人たちが、黒い魚を食べはじめたのは、ずっと以前からのようだ。とすると、人が凍りつくことは、前からあったということ?とにかく、銀の衣の三郎太に早く会って、話をしなければ…』
「おばあさん、銀の衣の三郎太という人を知りませんか。銀色の羽織を着た人でもいいんですが」
良は丁寧に聞いた。
「ほんなの知るわきゃないわ。他の者の名など知るわきゃない」
老婆は腰をまげて笑った。
「なんだそれ?」
圭太が突っ込んだ。
「名を知ってるんは、名づけ親と鍛冶屋、それに忠誠を誓った人だけじゃ。他人に名を知られたら、わしゃらはその人の奴隷じゃわい。ほれ、わしは海胡桃のお婆。小屋の外に海胡桃が生えとるからの。
さっきの男は、三つに分かれた川の中洲に家があるから、川の三つ又。住んどう場所の特徴からとった呼び名を使う。本当の名前は、はて、はてじゃ」
そう言って着物の腰から、切り出しナイフのような小刀を取り出した。
「わしゃらはこれを持って世を去る。刃の奥に名が刻まれておるでの、そんで生まれ変わった時にゃ、打ち直して新しい名を刻んでもらうのよ」
「お婆さん、銀の衣って呼び名をつけるような場所はないの?」
新一がきいた
「あるわきゃなかろう。衣で名を名乗るなんぞ、住まい所の定まらん世捨て人か、坊さまじゃわい」
「世捨て人か、坊さま…」
良はあっと叫んだ。
銀の衣の三郎太は、祈りの言葉を使い、さらに禁じられた魚を食べ続けてよいものかなど聞いていた。そんなことを尋ねるのは、
「お坊さんって、どこにいるんですか」
息せき切って聞いた。
「しゃあな。坊さまっちゅうのは国中を旅しておられる。もし、こん近くで、旅の疲れを癒しておられるなら、やはり四角入り江島じゃ。あすこにゃ、坊さまの寺があるからの」
老婆の返事に、良は背中にぐっと力を込めた。翼がバサリと広がった。
「圭太、新一、行こう!」
「へっ、どこに?」
急な言葉に二人ともきょとんとした。
「犬神さんが連れていかれる四角入り江島。銀の衣の三郎太もそこにいるかもしれない」
二人を抱き寄せた良は、老婆に頭を下げた。
「お婆さん、シイの実、ありがとう」
砂を巻き上げながら、大きく羽ばたいた。
「またこいや。今度は、クリっちゅうもんも、たんと拾っておくけえな」
掠れ声が打ちたつ翼の下に聞こえた。




