19、幻人の世界
良はもがいていた。
まるで飛び込み岩から海に突き落とされた時のよう。訳もわからず、液体のようなものに揉まれながら暗闇に沈んでいく。
『息ができない、早く出たい…』
やがて急に上昇しはじめた。明るい光が射したかと思うや、柔らかく弾力のある物の上に投げ出された。
荒々しく呼吸をしながら辺りを見回せば、そこは鬱蒼とした森の中だった。地面にはスポンジのような厚い苔が生えている。目の前には、大きなウロが開いた幹まわりが三メートルはあろうかという大木があり、神社の神木のように細い注連縄が巻かれている。周囲にはやはり太い木々が立ち並び、空に向かって伸びていた。
「ぶはー、到着したか」
良の隣に横になっていた圭太と新一が目を覚ました。
「うっ、た、助けて」
良の顔を見上げた二人は、目玉をひんむいてのけぞった。二人の横にあった灰色の塊が、ムクリと頭を上げた。それを見た良も驚いた。ハスキー犬よりも大きな灰色の毛並みの犬。それは狼だった。
「私よ、蒼。そんなに驚かないで」
白く尖った牙から風の唸りのような低い声が漏れた。蒼は狼に変身していた。
「こっちが犬神さんてことは、そっちは良か?」
圭太が、蒼と良を順ぐりに見つめた。
「僕に決まってる。何を言ってるんだよ」
ひどく話しにくかった。
顔に手を当てると、鋭く伸びた爪が鼻を引っ掻いた。長い犬歯が唇から突出している。手に見える肌の色は黒色に変わり、周囲に淡く光が滲み出ている。
「僕、どんな格好なの?」
「黒くて、背中に翼が生えてて、牙が生えてて目は金色に光っている。デーモン族みたいに見えるけど、体の周りが光ってるから黒い天使みたいにも見える」
「ほら、犬神さんの家で、おまえが変身しかけた…あれと似ているみたい」
「翼もあるって?」
二人の言葉に良は首を回した。なるほど背中には薄い膜をもった翼が制服のブレザーを突き破って生えていた。
「私たち、幻人の世界にやってきたのよ。ここでは、宿している波動や精霊に似た姿になるのだわ。でも、安西君が半分人間の姿を残しているのに、私はほとんど変わってしまったわ」
蒼が唸った。
「ほとんどっていうか、全部のような気がするけど」
圭太が小さく突っ込んだ。
異世界に突入する際の緊張がほぐれたこともあって、三人の男子はフワフワの苔を叩いてげらげらと笑った。一方で蒼は自分の姿を再確認しようと、首を回しながら身を踊らせた。
少しして圭太が口を開いた。
「けど、ここが幻人の住む世界なのか?木がいっぱい生えてて、いい感じで落ち着くみたいだ。それにぬくぬく温かいや」
そう言いながらジャンバーを脱いだ。
「ほんと。ここって何気候なんだろう」
と、後に続いてジャンバーを脱いだ新一は、そのポケットからスマートフォンを取り出して、あれこれいじっていたが、
「だめだ、壊れてしまってる」と放り投げた。
背中に強い圧迫感を感じた良は、「もったいないけれど」と、翼の生え際で破れている制服とワイシャツを引きちぎった。中のTシャツも破れていたが、圧迫感はなくなったので、そのまま着ておくことにした。
毛皮に変わってしまったのか、周囲に蒼の着ていた服は見えなかった。
一度顔を見合わせてから、四人は誰からともなく木々の間を歩きはじめたが、
「これって?」と、すぐにも奇妙なことに気がついた。
四人が歩いている地面に、二つの黒い影が恐ろしい速さで回転しながら移動していたのだ。形はぼやけていてよくわからないが、四人のあとを追いかけているように見える。
木陰なので、日に当たった時にできる影ではない。
「これって もしかしたら、長老さんと犬神さんのお父さんの波動みたいなものかな。いや、ここは下方の世界だから、二人の波動は空のずっと高い所にあるはず」
良は話しながら木々の梢の先を見渡したが、木々の葉のすき間には、鉛色の空らしきものがチラチラと見えるだけだった。
「たぶん、父さんたち二人を現しているものだと思うわ。でも安西君、ここでは上の世界とか下の世界とかいう考えは、捨てなくてはだめよ」
蒼が笑うような唸り声で話した。
「ほんと頭が混乱する。だいたい狼が女言葉で話すのもおかしいよ」
「何っ」
ぼやいた圭太の足を、鋭い牙がかみついた。
「ごめんごめん。悪気があったわけじゃないんだ」
少し進むと、さざめく水の音が聞こえてきた。そしていきなり森は終わった。
四人の前には、白銀色の砂浜が弧を描いていた。その先には、紺色の海が澄みわたり、幾つもの島が浮かんでいた。あちこちの波間には小舟が揺れ、中に乗った人が忙しそうに働いていた。
「あの人たちが幻人?漁師にしか見えないや」
一番手前、八十メートルほど先の小舟を見つめながら、良はつぶやいた。
「のどかだね。水、触わってみようっと」
新一が普段では想像できないほどの素早さで、砂浜に向かって駆けだした。
胸騒ぎがした良は後を追いかけた。波打ち際のすぐ前で、先に蒼が疾風のように走り寄り、新一の前をさえぎった。
「だめ!」
新一はつんのめって転び、砂だらけになった。
「どうしたっていうんだい」
三人の後を追いかけてきた圭太が聞いた。
「ここは私たちの世界ではないのよ。美しく見える物が、優しく受け入れてくれるとは限らないわ」
「そりゃそうだけど、こんなに綺麗な海だよ。悪さをするなんて思えないよ」
新一は頬を膨らませた。
四人はザワザワと砕ける波を見つめた。白い泡の向こうでは、澄み切った水の底で、薄緑色の砂が煌めいている。
『確か昨日、ここで波動を広げた時に激しい痛みを感じた。あれはいったい?』
良は視線を巡らした。
「あれ」
圭太が疑問の声を出した。
「影がないぞ」
空は鉛色だが決して暗くはなかった。今は木陰ではないので、薄いながらも影はあるはずである。だがどこにもなかった。目の前で飛びはねながら砂を落としている新一の足元にも、影は見当たらない。そしてその胸にぶら下がっている石は煌めきをなくしていた。
『この世界には影がない。光の現象が僕らの世界とは違っている。そしてこの世界で、僕は波動そのものに似た姿を現している。じゃあ、僕の体の一部が海水に触れたらどうなる』
ふと思いついた良は、鋭い爪で手の甲を引っ掻いた。薄く出た墨のような黒い血をTシャツの裾で拭き取り、それを破った。
「良ちゃん、何するの?」
皆が不思議そうに見つめる中、良は破った裾を海に投げ込んだ。
波に揺れる布地から黒い血が滲み出ていく。
と、見る間にも海水の一部がどす黒く濁り、なまこの化け物のような形になった。そして棘を持った触手を伸ばし、波間に漂う布を掴んで大口を開けて飲み込んだ。そのまま小さく縮んだかと思うと、跡かたもなく消えた。
「見ただろう」
良は振り返った。
「今のが、海に入った時の僕の運命さ。この美しく見える海?に飲み込まれて消えてしまう。たぶん、みんなも同じじゃないかな」
新一の口元が震えていた。歯を打ち鳴らすカチカチという音が漏れた。
「俺たち、これからどうするんだい?」
圭太が良に向き直った。見慣れない親友の恐ろしい顔を目前にして、口元が少し引きつっている。
「やることは一つ。この世界に住む銀の衣の三郎太に会いに行くんだ。あの人は、まちがいなく話を聞いてくれる」
良は答えた。
「でも、どうやってその人を見つけるんだ?海には入れないし、第一、俺たちは舟なんて持っていないんだぜ」
「一応、舟は来てるけどな」
良は圭太の声に答えながら、波間に揺れる小舟に視線を注いだ。舟はすべて先ほどより近づいていた。乗り手は四人に気づいていたのだ。
「良ちゃん、どうする」
新一が破れたシャツにしがみついてきた。
「慌ててはいけない。まず、こちらから敵ではないことを示さなくては」
良は海に向かって手を振った。
自分の見かけが恐怖を呼ばないように、優しく、優しく。それに応じて、近づく舟のスピードは速くなった。乗り手たちは皆、骨ばっていて背が高かった。穴の開いた布を首から通した簡素な服を着ている。こちらを向きながら櫓を漕いでいる。
やがて、浜辺は数十隻の舟に囲まれた。
新一は良の背に隠れるように立った。さすがの圭太も灰色の狼にぴったりと寄りそっている。
「異形の者よ、おまえたちは何者か?」
舟の乗り手のうち、一番大柄な男が口を開いた。赤い唇に上下に生えた長い犬歯が剥き出した。鼻は白色系の人種の人よりもっと高い。その周囲で、他の男たちは物干し竿のように長いモリを構えていた。
『あれは』
獲物をつく鋭いモリの刃先は、氷柱の先のように透明で、それは四人に向けられていた。
良はその刃先に見覚えがあった。自分たちの世界で、凍りついた男性の足元に見えたものだ。
『幻人たちは、あのモリで人々を突いて、命の波動を奪っている。とすると』
舟の上に視線を走らせると、銀色の桶のような物があり、中で黒い魚の背がうごめいていた。
『人の持っている命の波動は、この世界では黒い魚となっているんだ』
良は悟った。
波間には、二匹の黒い魚が、残像を引くような速さで泳いでいた。わずかだが止まっている時もある。砂浜にさしかかると、魚は形のない影のようになった。付かず離れずいつも良の近くにいる。やはり長老と蒼の父さんの波動に違いない。
先ほど話した男は、チラチラとそちらに視線を走らせている。
「僕たちは、別の世界からやってきたのです。銀の衣の三郎太という人に会いに」
良は問いかけた幻人に答えた。
「ここは、光の精霊が宿る神聖な場所だ。だが先ほど、木々は奇妙な色に輝いた。さては、おまえたちこそは、青き空を奪った邪悪な者なのではないか。それに三郎太などという者はここにはいない」
男は紫色の目を光らせて話した。良の後で新一が歯をかち合わせる音が大きく響いた。
「怪しい者たちよ。すぐにも自分の世界へ帰れ。ここはおまえたちの訪れる場所ではない」
男は鋭く言い放った。
「駄目だ。僕らは自分の世界を救うためにここにやってきた。探している人に会わなければ帰るわけにはいかない」
強く発した良の言葉に、男たちは構えていたモリを大きく後ろに引いた。
「安西君、この人たちには話が通じないわ」
蒼が低く話した。
「なんと!」
鼻にしわを寄せて男が唸った。
「獣が口をきいた。やはり、こやつらは邪悪な者だ。皆の衆、帰してはならぬぞ。祓いの儀式にかけるんじゃ。放て!」
体を低く構え直した男たちが腕を振るった。
「危ない!」
良は振り向きざまに、新一と圭太の腕を掴んだ。背中にぐっと力が入った。翼がバサリと広がったのを感じた。何十本ものモリが空気を切り裂いた。
『飛ぶ!』
心に念じた。
翼が力強く打ち下ろされ、良は二人を抱いたまま空に舞い上がった。
一瞬の出来事だった。
さすがに、目まぐるしく泳ぐ黒い魚を突いているだけあって、モリを投げる幻人の腕の動きは尋常の早さではなかった。二人の友人は驚く暇さえなかったに違いない。
下方に、灰色の狼が予想もできないような走り方をしながら、森の奥に消えていくのが見えた。
『犬神さん、無事でいてくれ』
祈りながら夢中で羽ばたいた。
『この感じ…僕はあの洞窟の中で羽ばたいたんだ』
良はおぼろげながらに思い出した。あの時はただ飛んでいただけ、翼があるなど意識していなかった。だからうまくいったのかも知れない。だが、今回は背中の翼をはっきりと意識していた。その事が飛ぶことを邪魔していた。
…翼よ、羽ばたけ…と、どうしても背中の翼の根本がある所に力を入れてしまった。その為に、ただ高く上昇していくので精一杯だった。水平に飛ぼうとして体をよじると、羽ばたきは遅くなり、海に落ちていきそうになった。
「良、よけいなことを考えるな!」
腕の中で圭太が苦しそうに呻いた。新一は何も言わなかった。
そのまま恐ろしいジグザグ飛行がしばらく続いたが、やがてグライダーのように空を滑ることを覚えた。
『これが大空を羽ばたくということ…』
風を切る翼の音を聞きながら、飛びたい方向に頭を傾ける。それだけでよかった。
良は先ほどいた犬の頭の形をした島を目の奥に刻みながら、大きく旋回した。
破れたTシャツの背をハタハタと風が抜けていく。遥か遠くに、白く霞む山が見えた。